湯葉日記

日記です

詩とバスマット

私がかつて想像した25歳の私はひとりだった。

結婚も特定の相手との交際もしておらず、友達は少なく、都内に独り暮らししていて、時どき演劇や食事のために外出する。

そういうことになる予定だった。

 

 

高1のときにミクシィを通じて舞台のチケットを譲ってくれた30歳の美しいお姉さんがいて、彼女は私の将来のロールモデルだった。ワンレンの黒髪ボブで猫を飼ってて、独身で、SM写真のモデルをしていた。

初めて会ったときに「なんか作り話みたいなプロフィールでしょ」と言われたのを覚えている。下北の本多劇場の前で。枯れた声は前の日にバーで飲みすぎたからだと言う。

 

小雨で、入場列に並ぶお姉さんはグレーのカーディガンを肩にかけていて、その隙間から細い二の腕が見えた。ちょっと出来すぎた光景だと思ったけど、ある程度歳を重ねた美しい人というのは常に美しくあることを自分に課している人だというのが分かりかけてきていた年頃だったので、素直に「綺麗すぎて緊張します」とだけ伝えた。

彼女は劇場の中で、無造作に積まれたパイプ椅子や関係者からの仰々しい花輪を背景にしても、その都度その都度きちんと自ら発光しているように見えた。

 

 

私は、自分もいつかああなれると思っていた。

好きなバンドのギタリストより好きな人が現れるわけがないという確信もあったし、なによりも、日常感のあるもの、つまりハレとケでいうケにあたるものすべてをまとめて毛嫌いしていたので、そう思い込むのも無理はなかった。

当時の日記を読み返すと「嫌いなもの…女子高生、男子高生、言葉の通じない子ども、“小市民的幸福”というおぞましい言葉」とか書いてあってなかなかに仕上がっている。当時付き合っていた人がいたら2ちゃんでスレ立てされていたと思うが、当然いなかった。

 

 

だから、15歳の自分が夢想した25歳の自分なら、こたつに入って彼氏とピザを食べながら新居のごみの分別方法をググったりはしなかったはずなのだ、絶対に。

洗濯機がまだ届かない洗面所で化粧を落として、顔を拭きながら「そうかあ」と思う。

なにがそうかあなのかはよく分からないけれど、淋しいとか悔しいとか諦めたとかではなく、ただ、「そうかあ」。

 

 

 

新居から実家まではバスが早いが、その日は終バスを逃してしまったので、地下鉄の駅で降りた。

環八通り沿いを乗換駅に向かって歩きながら、ふと出来心で、実家までの徒歩ルートを調べてみる。45分。

お酒も残っていた。後先を考えずに歩き出して、すぐに楽しくなってくる。

 

 

日曜夜の環八通りを走るのはほとんどが大きなトラックで、その巨体がアスファルトの上をグゴゴゴと音を立てて通り過ぎていくのを見ていた。トラックもすれ違う自転車も犬を散歩させる人もいなくなると、辺りは静かだった。

 

携帯を握る手が冷えてきた頃、自販機でコーヒーを買った。いつかの朝、道玄坂を歩きながら「コーヒーとトレンチが似合うね」と言われたことがあったのを思い出して少しいい気分になった。コーヒーをカウチのポケットに突っ込んでまた歩く。

 

指先が温かいだけでどこまでも歩ける気がした。暗いトンネルを早足で抜けると、通っていた小学校のあった赤羽駅に繋がる交差点が見えた。通学バスで6年間窓から見続けたルートを徒歩でなぞると、自分がスローモーションの中にいるみたいに思えて変だった。

 

歩きながら考えていたのは、洗濯機が届くまでのあいだに使うタオルとバスマットを実家から多めに持っていこう、ということだった。忘れられない舞台や詩のワンフレーズについてではなかった。

彼氏や家族や新居に持っていく亀のことを考えるたびに、足が少し速くなったり遅くなったりした。私は冬の街灯の下でもはやひとりにはなれなかった。

 

 

広いガレージのある家の前を通ったときに、ハイヒールの踵が大きな音で響いた。コツ、コツ、コツという音が山びこのように小さく残響する。昔から人のいない夜中に歩くのが好きだったのは、この音を聞けるからだと不意に思い出した。

 

公園の水道のホースの写メを撮ったり、iPodでナイトフィッシングイズグッドをリピートで聴いたりしながら1時間かけて歩いた。遠くに月が滲んで見えた。

 

私は真夜中特有の淋しさをめいっぱい浴びて有頂天になったり、バスマットのことを考えたりを交互に繰り返していた。たぶん、というか確実に、これから先は後者のことを考える割合が少しずつ増えていくのだろうと思った。それを淋しいとは感じなかった。

もしも向かい側から15歳の自分が歩いてきたら、いまの私に気づいてくれるだろうか。

真夜中に浴衣を洗う

亡くなった祖母の部屋に入るのは久しぶりだった。物置と化した和室には仏壇とふたつの大きな箪笥、古い姿見などが並んでいて真夏でもやけにうすら寒く、昔からそこは夜ひとりで入るにはすこし怖い部屋だった。

箪笥の引き出しを1段ずつ開けながら「もしかしたら上の部屋かもしれない」と母が言う。「なんでこの時間なのよ、もっと早く言いなさいよあたし昨日聞いたでしょう」

部屋の隅で三角座りしてビールを飲んでいた私は、すいません、と言う。その声がかすれていたのでもう一度言い直す。姿見に映る自分はあまりに情けなく、子どもじみて見えた。

 

昔から家族には自分の話ができなかった。
小3のとき、母に「同じクラスのまみこちゃんが通学バスの席を絶対に譲ってくれない」という相談をしたことがある。母はそれを「まみこちゃんに直接言えばいいじゃない。なんで自分ばっか座るのって怒ればいいでしょう」と一笑し、隣で聞いていた父は「言えないんだよな、しほはそういうことが言えないんだ。そういう子なんだ」と気の毒がった。

9歳の私は、自分が求めているのがアドバイスではなく共感だと気づけるほど賢くなかった。賢くなかったので「ちくしょう。かわいそうにって言ってくれよ身内なら」と怒りの矛先を両親に向けた。私はいつしか家で自分の話をしなくなり、自分の殻に閉じこもり、そこから出ないままで大人になってしまった。
こんな人間でも20歳になれば自動的に大人とみなされるなんてシステムは狂っている。成人してから5年経つけれど、たぶん私はいまでもまみこちゃんを怒れない。

 

母があ、と声をあげた。「これだ」
白地に紺の模様が入った浴衣を広げながら、「どう? 好きそう?」と聞く。

「うん。たぶんなんでも着ると思うけど、まあでもあんまりそれは似合わないかもしれない。柄が派手だし」
「じゃあなんでもじゃないじゃない」

母はその奥からもう1枚別の浴衣を出す。さっきの白よりも控えめな、グレーと白のあいだくらいの色だった。そっちがいい、と受けとる。

 

 

洗面台に水をためていると、祖母の部屋のほうから箪笥を閉める音がした。なにを話そう、と焦る。身内相手にこんなに焦るのか。こんなことってあるのか。洗剤を溶かして浴衣をつける。ぐいっと押すとすこしだけ水が汚れる。母が洗面所に歩いてきて、「ついでにこれも洗って」ともう1枚の浴衣をよこす。「うん」


「こないだ西武行ったら、呉服コーナーで若い子たちが熱心に浴衣選んでたわよ。男の子も」
「男子はなかなか持ってないよ浴衣」
「だから貸すんでしょ?」
「うん」
「あんたは前にユニクロで買ったやつ着てくの?」
「いやそっちじゃないほうにする。あとユニクロで浴衣買ったって絶対にか、かれ、あした来る子に言わないで」

押し洗いをしながらビールを飲む。酔っていないと話せなかった。

「なんで昨日言わないのよ」
「ほんとすいません」
「あんた自分で着付けできないくせに」
「いや、YouTubeとか見ればまあできるけど、あなたはプロみたいなもんだし」

母はむかし着物のモデルをしていたので、和服を着るのも着せるのもうまい。私が着るついでに彼にも、という話になるのは自然だった。

「いいけど、その子初対面で『はい脱いで』ってなるわよ」
「ウケる」

1枚を洗い終えて、干す。もう1枚を水につけると、途端にぶわっと色が落ちた。藍色の水の中で浴衣を揉む。

「花火終わったらうち戻ってきて着替える?」
「そうする。うちに服置いてかないと荷物増えちゃうし」
「じゃあついでに帰りお酒飲んでく? お酒飲む子?」

飲む子だよ、と答える。

「お酒強いしわりとなんでも好きだよ。金沢のときも日本酒買って飲んだし、……ていうか金沢あれだった、写真撮ってくださいってすごい頼まれて、いやその子優しそうだから分かるんだけど、美術館でも兼六園でも頼まれてて」

いざ話し始めたら結構楽しくなる。好きな人について話すのだから楽しくて当然なのだ。
ふうん、と母が相槌を打つ。私は浴衣を洗っているので母の顔は見えない。

「金沢その子と行ったの? 春に手紙送ってきた子?」
「前者イエス、後者ノー」
「なるほど」


考えてみると、あまりにいろんなことを話さずにきた。話さないままこの歳になってしまった。私が昔いじめられていたことも、どんなバイトをしてたかも、なんでいまライターになったかも、母は知らない。私が死ぬほど好きなものや嫌いなもののこと、そのいくつかを手に入れ、いくつかは手に入れられなかったことも、たぶん知らない。
けど別にいい。あした家に呼ぶのがとても好きな子だということだけ知っていてくれればいい。


「いい子だよ」
「うんまあ、あんたがやっと連れてくるんだからそうでしょう」

 

水をすすいで振り向くと、母はもういなかった。私は2枚の浴衣を並べて干して、洗面所の灯りを消した。

のどぐろとプール

夜行バスを下りると朝だった。
にやにやしながら「ここはもしかして金沢なのではないか」と言うと、同行者も「オッもしかして金沢なのではないか」と乗ってくれたので、幾度もそれを繰り返す。
飽きるまでやろうと思っていたが、彼が「まだテンションがそこまでじゃないから」とやんわりそれを制した。

駅前のスパに寄った。女湯には部活の県大会かなにかで来たらしい女子高生のグループがいて、備えつけの扇風機のコンセントを抜いて携帯を充電していた。
いくつになっても運動部の女子高生は年上に思える、という話をむかし友人にしたことがあるが、文芸部だった子しかわかってくれなかったのを思い出す。

壁を向いて湯船に浸かった。お湯が信じられないくらいぬるい。ぬるい、というか冷たい。
一刻も早く出たかったが、つい女子高生たちの反応が気になって、彼女たちが入ってくるまで待ってしまった。やがてひとりが湯に足をつけて「待って、ありえん」と言ったので満足して出た。

 


真夏日だった。
金沢駅から市バスに乗った我々は首からカメラを下げ、ボストンバッグを抱え、右手にことりっぷを持っていて、観光客のコスプレをしてるみたいだった。

金沢城公園に寄る。目の前に広がる一面の緑が、入っていい芝生なのかいけない芝生なのかいまいちわからない。
やがて外国人のグループがためらいなく芝生の上を歩いて横切ったので、「よしきた」と思って芝生に寝転んだ。寝転んだまま「我々はどこへ行くのか」と同行者に聞くと、「魚を食べる」と言うので頷いた。

すぐ近くの近江町市場に向かう。
市場の呼び込みは元気がよすぎて劣等感を刺激されるのであまり得意じゃない。借りてきた猫のように回転寿司を食べた。アジ、平目、のどぐろ。「のどぐろは美味しい」と記憶領域にインプットするように同行者がつぶやいた。

 


観光スポットはどうやらすべてバスで回れてしまうらしい、ということに気づいてすこしだけ残念だった。21世紀美術館にも呆気なく着いた。

展示の中には、けっこう好きなものと、まるでわからないものと、ものすごく嫌いなものが混在していた。ものすごく嫌いなものの話をしたいけれど、書いているそばからむかついてきてしまうので割愛する。美術をばかにしやがって。

ダミアン・ハーストのことはただの牛のホルマリン漬けおじさんだと思っていたのだけど、蝶が一面に埋め込まれたハート型の絵画を見ていたら、あ、綺麗と思った。
高校のとき「死んだらダミアン・ハーストの絵に埋め込まれたい」と言っていた知り合いがいたのを思い出して、絵の前でしばしぼんやりした。

 


スイミング・プールの周りには人だかりができていた。
カップルはだいたい彼女がプールのなかに入って、彼氏が上からそれを撮影している。上と下では互いの声が聞こえないので、撮影に苦心している人も多そうだった。
水面をのぞき込むと、プールの下にいる人たちの顔がゆらゆらと歪んで見えた。システム的には飼っている亀の水槽とほぼ同じだ。これが私が7年も夢に見続けていたプールなのか、と思うと、すこしだけ期待外れのような気もした。
振りかえるなり、同行者が「なにこれどうなってるのすごい」と言った。ちょっと嬉しかったが、きみはスイミング・プールも知らずに金沢に来たのか、と偉そうに説教する。いいから下におりろ上から撮ってやるから、と背中を押した。

 


プールの上でカメラを持って構えていると、見覚えのあるシルエットがプールのなかを横切った。彼がスマホを構えているのに気づいて、アレッと思う。写真撮ってくださいって頼まれたのか、頼まれたんだろうな。ていうかプールのなかの人同士で撮り合ってもただの水色の部屋の写真になっちゃうんじゃないのか。
撮影する彼を上からパシャパシャと撮っていたら、にわかに楽しくなってきた。いい日だ、と急に思った。

旅行記その0

夜行バスの中でこれを書いている。
旅行に、と言われていくつか候補を出し合っていたら、そういえば私は7年くらいにわたって金沢に行きたかったのだと思い出した。なので金沢、と言った。

高校のころ、ロクにしなかった受験勉強の合間にも日記だけは律儀につけていたので、毎日ちまちまと書き足していた「受験が終わったらしたいことリスト」が受験が終わるころには60個くらいになっていた。そのいちばん最初に書いたのがたしか「金沢に行く」だった。

理由は明白で、当時読んだオズマガジンかなにかに21世紀美術館のプールの中で微笑むモデルさん(二眼レフを下げている)が載ってて、「アートな週末」的なキャッチコピーがついてたのを見て、健全な女子高生的感性で「絶対行く!」となったのだ。

とはいえ18歳の私には友達がとても少なく、というかそもそも人と旅行に行ける協調性がなかったので、机に向かうたびに時おりオズマガジンを開いては、あの光のプールの中にいる自分を思い描いた。そこに行きたいというよりもたぶん、そこに一緒に行ける人を探していた。

 


旅行の準備をしはじめたのは、夜行バスに乗りこむ当日、つまり昨日だった。
修学旅行以来、人と2泊以上の旅をしたことがなかった私は緊張していた。ボストンバッグにドライヤーやら本やら虫よけスプレーやらを詰めこみながら、「楽しいんだろうか」と急に不安になった。

一緒に行く人が、よく「緊張しそうな場にはノーパンで行くといいよ。なにをしててもいや自分ノーパンじゃんって思えて馬鹿馬鹿しくなるから」と言っていたので、それを応用して真夏にしか着ないスパンコールがじゃらじゃらついたロングワンピを持っていくことにした。これで生真面目な顔をしようとしても「いやこんなスパンコールついてるじゃん自分」って思える。何事も工夫だ。
「亀を頼む」と母に伝えると、「あんた平気で2日3日エサあげないくせによく言うわよ」と呆れられた。

 


仕事を終え、東京駅に向かう。
ボストンバッグを抱えて乗る地下鉄はいつもよりも狭く思えた。キャスター付きのバッグを引いているサラリーマンや親子連れを見て、この人たちもそれぞれに旅の途中なのだと不意に思った。

夜行バスの消灯時間は早かった。
周りがみんな寝静まったあともなんだか眠れなくて、そういえば私は幼稚園のときのお泊まり会でも眠れなかったなと思い出した。同級生が寝て、部屋の灯りが消え、先生たちが隣の部屋でミーティングを始めてもなお眠れなかった。

隣に座る同行者に「なんでこんな人がいるのにみんな静かなのか」と小さな声で聞くと、うん、そうだねと頷かれた。バスがトンネルに入るときだけ、カーテンの隙間から線のように光が入ってきてその横顔を照らした。

やがて夜が深くなってくると、隣の席から伸ばした私の足を荷物のように抱えて彼は寝た。私もそれからすこしだけ眠った。

残るのは言葉だけだ

このところ何もかもがだめだった。部屋の外に出るのが億劫でたまらなくて、自分宛ての公共料金のハガキののりを剥がすのすら怖かった。

気分を強制的に変えようと湘南乃風を聴いてみたけれど、「マジで最高 心解放」という歌詞でさらにもうだめになってしまって、ほかに方法がないからキッチンの奥にしまっておいた酒ばかり飲んだ。
アルコールに依存するのは2年前にやめたはずなのに、ああけっこう経ってんのに何も成長してないなあ、と酔いがさめてからうんざりした。酔ってソファで眠り、目が覚めると泣いていた。

 


なんでこうなんだろうと思って、10代の頃の日記を開いてみて納得した。16歳の私は2008年の7月6日に「このまま何もできないままで死んでいく」と綴り、17歳の私は翌年の7月6日に「何ひとつできない、もう駄目だ」と綴っていた。18歳の私にいたってはなぜか保健室にいた。

つまりは、そういうバイオリズムなのだ。どういうわけか、私は毎年この時期は「何もかもだめ」になるようにできているのだ。
そう思ったらすこしだけ安心した。電気のスイッチのたくさん並んだパネルを前にして、そうか、ここ押したらお風呂場が点くのか、とわかったときのような気持ちになった。

 


10年のあいだ日記を書き続けていると人に言うと、けっこうびっくりされる。え、毎日ですか? と聞かれる。
ルールは2つだけあって、「サボってもいい」というのと、「絶対に嘘を書かない」というのだ。「サボってもいい」から、しれっと1週間くらい間があくこともある(ただ、しんどいときは日記を書くようにしているので、書いていないときは元気なときだ)。

その日の出来事よりもむしろ、体調がどうだったとか人と何を喋っただとかを記録している。だから日記を見返すと、その頃の自分が何を考えていたかとか、何が辛かったかとかがおおよそわかる。

前例があるということはいわば自分でアップデートしてきた自分の説明書があるということなので、気分や体調が急変することがあっても、そこまで慌てずに対処できる。書き続けることは、自分の心の動きのデータベースに情報を蓄積することでもある。

 


私は日記に限らず、人にもらった手紙やメールも、馬鹿じゃないのかというくらい読みかえす。こう言われて嬉しかったとかこう言われて嫌だったとか、そういうのは頻繁に読みかえすのでもう大体覚えてしまった。

どんな言葉にも有効期限はある。それは目には見えないので時どき勘違いしてしまいそうになるけれど、「これからも仲良くしてね」や「またすぐに会おう」や「好きだよ」はあくまで過去の私に対する言葉であって、いまの私に宛てたものではない。

ただひとつわかるのは、“その日の自分”は相手にそう言ってもらえるような人間だった、ということだ。そして“その日の自分”は、幸運なことにいまの自分の中にもいる(のだけど、それがあんまり遠い日の出来事だと、なかなかいまの自分とは結びつかないから厄介だ)。

 


当たり前だけど、いまはどんどん過去になって、言葉はどんどん古くなっていく。
もしも私の好きな人が(今日の私のように)「もう何もかもだめだ」と感じて過去の言葉に救いを求めることがあったなら、その日にめくる日記の中に、読みかえすメールの中に、できるだけ新しい私の言葉があってほしい。傲慢だけどそう思う。

そのためには、好きだということを手を抜かずに、できるだけアップデートしながら伝え続けなきゃいけない。
人と人はいつかはばらばらになってしまうから、それが明日でもいいように、できるだけ本心に近い言葉で愛を語っておきたい。結局、人も気持ちも消えたあとに残るのは、言葉だけなのだから。

ラッキーカラー屋さん

教祖様だったんです僕、とトガワくんは言った。え、きみが? と聞くと「僕以外にも10人くらい。本物は1人なんですけど」とにこにこ笑う。


地下鉄を待つあいだ、トガワくんはこれまでの職歴について淀みなく語ってくれた。中卒だという彼は、16からの何年かをキャッチで食い繋ぎ、数年前までは米の訪問販売をしていたのだと言う。
お米って切れたタイミングにしか買わないよね、と私が聞くと、「そうですね。安いのならまだしも、僕が売らされてたのはブランド米だったので。普通に人ん家の玄関で土下座とかして」とあっけらかんと言う。


数日前にアルバイトで入社してきたトガワくんは、最初から抜群に電話対応がうまかった。
その日は彼を含めた何人かの歓迎会の帰りで、JR組が一斉にいなくなったあと、取り残された私たちはすこし離れた地下鉄の駅までのろのろと歩きながら話していたのだった。

「お米の次に」彼は言う。「メール鑑定のバイトをすこしだけしました」。メール鑑定とはつまりメール占いで、登録するとその日の運勢や行動にまつわるアドバイス、個人的な相談に対しての返事なんかが送られてくるものらしい。

「バイトってどういうこと?」「占い結果のメールの文面を打つんです」「監修みたいなことをする占い師がいるの?」「いますよ。教祖様みたいな、有名な占い師の人が。でも、文面はぜんぶバイトが考えてます」

えっ、と思わず口に出した。運勢とかあんなのぜんぶ適当に書いてるんですよ、最初に占い師の人にレクチャーだけされて、あとはもうそれっぽいことを個々人で書いて送るんです、とトガワくんは言う。「自分の本質を見つめ直す日になります」とか、「西の方角への旅行は避けたほうがいいでしょう」とか。

詐欺では、と言っていいものか迷っていた。彼はそれを見透かしたように、「まともな人には続かないです」と笑った。「課金すればするほど、教祖様に個人的な相談とかも送れるんです。そういうメール毎日見てたら病みますよ」。

 


10人の“教祖様”の1人であるトガワくんのもとには、不倫相手との間にできた子どもを堕ろすべきか否かとか、認知症の母の介護を兄弟に任せて引っ越していいかとか、ひと言で言ってしまえばヘビーすぎる悩みばかりがどしどし寄せられた。

周りを見ると、高額の報酬のために心を殺して作業している人、他人の不幸を目にするのが好きな人、もはや何も感じず植物のようにメールを打ち続ける人などが夜のオフィスで目を血走らせながらPCに向かっていて、トガワくんは数ヶ月で完全に参ってしまったそうだ。

「堕ろすかどうかって、絶対に占いで決めることじゃないですよね」電車に揺られながら彼が言う。「そんな人に無責任に『あなたのラッキーカラーは~』とか言えないですよね。その人たちに必要なの、ラッキーカラーじゃなくてカウンセリングですからね」。

笑えばいいのか神妙な顔をすればいいのか迷ってしまって、真ん中くらいの顔をした。
じゃあトガワくんは、占いって信じないんだ? そう聞くと、彼は「信じますよ。いちど、教祖様に本当に占ってもらったら超当たってましたもん」と言うので、今度こそ笑った。

 


あれから1年くらい経つ。
占いを信じるか、と言われたら、私はそんなには信じない。「運命」とか「縁」みたいな言葉も、そこまで好きなほうではない。

前にも書いたとおり父の実家は神社なのだけれど、どういうわけだか母の祖父、つまり私の曽祖父も神社をやっていた人らしい。神主だった曽祖父は、自分の死ぬ日をぴたりと言い当てて亡くなった。作り話みたいだけど本当に。

そういう人が間近にいたので、自分の人生のあらすじみたいなものはある程度決められてるのかもな、と思うことはある。けれど神様もたぶん、73億人分のシナリオの細かい部分まで手を抜かずにいられるほど、暇ではないはずだ。

だから神様が油断している隙に、私は私にとっていちばんいいと思える道を、サッと選んでしまおうと思う(父も生き延びられたことだし、そのくらいのルート変更は許されるだろう)。

 


すこし前、友人たちと浅草に行った。和菓子屋の前に置かれていた恋みくじを引くと、「いまから3人目に通りかかる人と結ばれます」と書かれていた。

思わず息を呑んで3人目を待った。カップルの男の人が通り過ぎ、親子連れのお父さんが通り過ぎ、3人目に駆け足でやってきたのは人力車の車夫だった。

「速くて顔見えなかったよ」。そう言って、全員でゲラゲラ泣くほど笑った。たぶん彼とは付き合わないなあ。

 

森を歩く

バスがお城みたいなラブホテルの横を通り過ぎて、東京を出たという実感がようやく湧いた。
20分前にマックで買ったホットアップルパイはもう冷めていて、冷めたマックの食べ物ほどまずいものはないよなと考えていたら、隣に座る同行者も「冷めたホットアップルパイほどまずいものないよね」と言うのだった。そうだね、とうなずいて作業的にそれを食べる。

 


高速バスに乗るのはずいぶん久しぶりだった。
大学時代はライブや演劇の遠征なんかで何度か高速バスを使ったが、働くようになってから遠くに行くこと自体が減っていた。たぶん、渋谷から横浜あたりまでを半径とする円の範囲から、この1年くらいいっさい出ていない。
運転手はわたくしコバヤシが、というアナウンスに、「コバヤシさんよろしくお願いします」と返事をする。

 


軽井沢に行きたい、と言ったのは同行者だったが、行きたかったのはむしろ私のほうだった。「ゴールデンウィークの軽井沢なんて混み方もう埼京線埼京線」と母親に妙な脅し方をされたので、宿は小諸だと伝えると「それならよし」としずかに言われる。

 


正午過ぎ、軽井沢駅に着く。
同行者が蕎麦を食べたいと言うので、蕎麦屋を探して歩いた。車通りの激しい駅近くの道は、なぜかそこかしこに松ぼっくりが落ちまくっていて、足を踏み出すたびに靴の底でざくざくと音がした。

引きこもってばかりの私と反対に旅慣れしている彼は、「本当にきみが来るとは」と確かめるように何度も言った。「本当に私が来るとは」と私も言った。
歩きながら自分の心臓がどきどき言っているのが聞こえたので、行きのバスで聴いたフジファブリックを歌ったり、「楽しい」と過剰に口に出したりした。そのうち本当に楽しくなってきた。

 


通された蕎麦屋の席は向かい合うテーブルだったので、緊張した。メニューを見ながら彼が「飲もうか」と言った。迷わずにうなずき、天ぷらうどんの天ぷらをつまみに日本酒を飲む。もうこの旅これだけでいいかもしれない、という心地になる。

近くのテーブルにボーダーのニットを着た4人組の女の子がいた。小声で「合わせたのかな、たまたまかな」と訊くと、「カルテットのオフ会なんじゃないのかな」と彼が言うので納得してしまう。

食後、お茶を飲んでいたら眠くなってくる。とつぜん店内の電気が消えたので、誕生日の人でもいるのかと思ったら、同行者が壁に寄りかかって電気を消してしまったのだった。「失礼しました」と謝る彼を見て笑ってしまう(その日は電気のスイッチを見るたびにそれを思い出して、そのたびに笑った)。

アウトレットで写ルンですやらパスタソースやらを買い、私が「一瞬だけ」と言いながらあらゆる服屋に入ったりしていたせいで、いつの間にかいい時間になっていた。雨も降ってきたので、軽井沢観光はあしたにして日帰り温泉でも行こうか、という話になる。

 


16時半ごろ、しなの鉄道で中軽井沢に向かう。電車の中は人でいっぱいだったのに、中軽井沢ではまばらにしか降りなかった。手動のドアをエイッと閉める。温泉までは送迎バスが出ていたのだけれど、こちらにも人は私たち以外1組しかいなかった。

 


大浴場というものが苦手だ。人の裸を見るのも苦手だし、人に裸を見られるのはもっと苦手だった。温泉の中に入るなり、そそくさと風呂の端に座って10分くらいじっとする。サウナでも同じように、石みたいに10分じっとした。

いろいろな年齢、人種、体型の人たちが視界を横切っていった。肩に桜のタトゥーが入った白人女性が私の目の前に座ったとき、隣のお母さんがすこしだけ顔をしかめた。桜の絵の上を汗が滑り落ちていくさまは、なかなかに美しかった。

 


ノーメイクで外に出るのは緊張した。同行者と合流し、顔を半分くらい隠しながらコーヒー牛乳を買う。すこしだけ肌寒くなっていたけれど、コーヒー牛乳はやはり美味しい。小さいころ、家の隣に数年間だけ銭湯があったことを思い出す。

歩けない寒さではなかった。地下鉄の広告でさんざん目にしていた軽井沢高原教会に寄り(ポスターのままだった)、駅まで戻る。

夕食は作るつもりだったので、どこかでスーパーに寄らなければいけなかった。調べると、宿のある小諸駅周辺に、20時に閉まるスーパーが1軒だけあった。電車が小諸に着くのはその10分前だったので、走った。

なんとか食材を買い、スーパーの前のベンチで「危ない、パスタソースを舐めながら一夜を明かすところだった」と話していると、パスタを買い忘れたことに気づく。
店内に走り、「パスタソースだけあるんです」と言うと店員さんが気の毒がってレジを開けてくれた。無事にパスタを買って戻る。

 


迎えに来てくださったオーナーさんの車に乗って、宿へと向かう。
どんな人なのか分からないので不安だったが、メッセージのやりとりで感じていたとおり親切な人だった。10分くらい車に揺られていると、道が蛇行し始めた。しだいに辺りが真っ暗になる。車のヘッドライトでしか前が見えなくなってきて、なんだかワクワクすると伝えると、オーナーさんが「怖くないならよかった」と笑ってくれた。

 


森の中を通っているのは揺れ方でわかった。やがて車がコテージに着くと、暗闇の中で入り口のドアだけが見えた。中に入ると、和室がふたつあった。
オーナーさんがどこに通じるかわからない扉を開けるたびに、『となりのトトロ』でメイが2階への階段を探すときはこんな気持ちだったろうと思った。静かで、小ぢんまりしていて、すばらしい宿だった。

 


オーナーさんが帰られたあと、「すばらしい」「どうしよう」「とりあえずお酒を」とお酒をあけた。アルコールによって無事に緊張がほぐれ、台所でポトフを作る。カセットコンロしかなくて火加減の調整が難しかった。パスタを茹でようとしたら麺の先が燃えたので、パスタソースで和えてごまかす。

テーブルに料理を並べると、なんとかそれらしくなった。夕食のあと、フルハウスのDVDを見つけてそれを見る。
彼はフルハウスを見たことがないと言うので、奥さんが亡くなっていて、3姉妹で、と人間関係をべらべら説明した。ジェシーおいたんはやはり恰好いい。

 


フルハウスが終わるころ、ふと思い立って、正面の障子を開けてみた。
そこはベランダだった。一歩外に出ると、真っ暗闇の中にうっすらと森が見える。彼も並んで外に出た。冷気がパジャマの裾から入り込んで体を冷やしてゆく。
上のほうが変に明るいなと思って顔を上げると、星が出ていた。ばら撒いたようにそこかしこで光っていて、写真に撮る気にすらなれなかった。美しいシーンを前にして口にする言葉はわざとらしい。私たちは馬鹿みたいに口を開けてそれを眺め、時どき「わあ」とだけ言った。

 

 

 

3~4時間ほどで目が覚めてしまった。しばらく同行者の寝息を聞いていたが、彼も起きた。鳥がチュンチュンと鳴いていたので早朝だとわかった。こういう場面をエスタブリッシュショットと言います、と大学のシナリオの授業で習ったのをふと思い出す。

シャワーを浴び、鼻歌を歌い、昨日のポトフの残りを食べる。長めの二度寝のあとで目を覚ますと、チェックアウトの時間が近づいていた。ベランダから外に出て、昨晩は見えなかったコテージの外観を初めて見る。
宿の予約をするときに写真で見たとおりの可愛らしい建物だった。走り回って写ルンですを使う。

 


10時。コテージを出て、近くのワイナリーまで歩くことにした。

「朝になったらきっとこの桜が綺麗ですよ」とオーナーさんに言われていたあたりを通りかかると、果たして立派な桜の木があった。出来すぎなのでは、と思うくらい、4月下旬だというのに満開だった。なんか今年はきみと3回くらい桜見てる気がする、と言うと、そうだねと彼が言った。

外はいつの間にかうっすらと汗をかくくらいに暑く、道の上には誰もいなかった。フィルターを強くかけたみたいに視野のすべてが鮮やかで、木々は初夏の色をしていた。彼は鞄を置いてシャツを脱いでいた。

 


県道を下ってゆく。振り返ると、コテージのある森がもうずいぶん遠くに見えた。昨日は見えなかったその姿を、種明かしされたみたいに眺める。

歩くにはやや過酷なルートだった。丘やら小川やらたんぽぽだらけの道を通るたび、ヒールの裏に草が貼りついていった。
途中、一瞬だけ田んぼの隣の住宅の脇を通ると、そこの主人がどうしてこんなところ、みたいな目をしてこちらを見た。綿毛を飛ばしたりしながら、なんとかワイナリーに着く。

 


またもや人は少ない。見学の申し込みをしたあと、順番がくるまでの時間にワインの試飲をしすぎてしまう。「きみはコップ1杯に注ぐ量がすこし多いと思う」とやんわり彼にたしなめられる。

ガイドのお姉さんの説明を聞き、ワインができるまでのDVDを見る。10分弱の映像。なぜか後半にだけあらゆるシーンでテロップが入ってきて、そればかり気になってしまう。
見終わったあと小声でそれを伝えると、「フォントがWordにデフォルトで入ってるやつだったよね」と彼が言う。

 


ワインを貯蔵している樽の前で、「この樽の中のワインをひとりで飲みきろうと思ったら、毎日1本飲んでも130年かかります」とお姉さんが言い、まばらな見学者がワッと沸いた。2回生まれ変わっても飲める! とみんなではしゃぐ。

足が棒のようだったので、小諸駅まではタクシーを使った。この旅で初めてのタクシーだった。景色が窓の外を通り過ぎるスピードに驚く。早送りの映像を見ている気分だった。

 


小諸駅に着いて、昼食をとれる場所を探す。
街じゅうに貼られた俳句のコンテストの受賞作を見ながら、「これは保護者が書いてる」「いまいち」などと品評して歩いた。揚げ饅頭を買って半分ずつ食べる。
スナックの並ぶ通りを歩きながら、楽しくて思わず「楽しい!」と連呼してしまう。日曜日で休みの店が多く、結局、昼食を小諸でとるのは諦めた。

 


再びしなの鉄道に乗る。ボックス席に座ったら眠くなってきてしまい、しばらくウトウトした。起きたら中軽井沢だった。「きみが寝てる間に車窓から馬が見えたよ」と彼に言われる。この2日間、あらゆる同じ景色を見てきたのに、私だけ見られなかった光景があるというのはすこし癪だった。

中軽井沢の駅を出て歩いていると、横からいい匂いがした。小さなレストランがあったので、迷わずに入る。何を食べても美味しい店だった。「やっぱり美味しい匂いをさせるお店は美味しい」と彼が得意気に言う。テラス席は風が強く、飛ばされたおしぼりを何度か回収しに行った。

店を出て、橋を渡り、「ムーゼの森」に向かう。

 


道中、ものすごく人懐こい猫とものすごく警戒心の強い犬を飼っている家の前を通りかかった。猫が私と彼の足元を行ったり来たりしている間、犬はずっと吠えていた。

迷いながらもムーゼの森に着き、絵本の森美術館に入る。ミュージアムショップの扉を開けるなり、目の前に『ねないこだれだ』が見えてウワッとなる。彼は姪と甥のために、私は自分のために、ポストカードやステッカーなどを買い漁る。

絵本が自由に読める展示室には誰もいなかった。椅子を並べて、昔読んだ絵本をぱらぱらとめくった。母親が林明子の絵が好きで、私はそればかり読まされて育ったのだった。

『とん ことり』や『あさえとちいさいいもうと』を読み、すこし泣く。『かいじゅうたちのいるところ』も、『ずーっとずっと だいすきだよ』も『100万回生きたねこ』も、当然のように泣いてしまう。天国的な時間。

 


ムーゼの森を出て、バス停で市バスを待った。「いい旅行だった」と言おうとして、帰るまでが旅行だと訂正する。

バスは遅れながらもきちんとやってきた。軽井沢駅まで熟睡する。起きて、今度は高速バスのバス停まで歩く。ぎりぎりでなんとか乗れる。

帰りのバスというのは例外なく、夜みたいに静かだ。寝てもいいよと彼が言うが、起きたときに街並みががらりと変わっているあの感じを味わうのが淋しいので、我慢して起きている。すこしずつ、すこしずつ窓の外から山が消えてゆき、建物が増えてゆくのをじっと見届ける。

江古田を通り過ぎ、中野を通り過ぎ、灯りが増え、新宿に着いた。22時だった。

 


新宿を歩きながら、人の声だらけだと思った。キャッチも、キャッチ禁止を訴える街頭テープも、私たちを取り囲むあらゆるものがうるさかった。ひとりになりたいとずっと思っていたけれど、そうじゃなくて私は静かな場所に行きたかったのだ、と急に気づいた。小諸の夜が、ものすごく遠い日の出来事のように思えた。