湯葉日記

日記です

創作のエネルギーとしての「不幸」や「病気」について

「傷つくことでしか創作できないやつには才能がない、ってボブ・ディランが言ってたよ」

大学2年の春、同じ専攻だったIちゃんが私に言った。

 

帰り道だった。脚本やキャッチコピーの授業を受けていた頃で、Iちゃんと私は、文章を書くときに何が強いモチベーションになるかという話をしていた。強い怒りとか悲しみみたいなものが原動力になる、というかそれしかならないやと私が言うと、Iちゃんは「それってどういうこと?」と聞いてきた。

殺意が湧くほどむかつくとか、どうしようもなく悲しいとか、そういう気持ちにまかせて文章を書いている、と私は話した。だから、人間関係うまくいかなくて気持ちがガタガタになったり、人に振り回されて傷ついたりしてるときがいちばん書けるんだよね。そう言うと、彼女は「しんどくない?」みたいなことを言った。

しんどいけどそういうときのほうが、書ける! と思ってテンションが上がること。なんならそういうモードに自分の心を固めておくために、自分から進んでしんどい状況を選んだりすること。青臭い、けど当時は真剣に思っていたことを素直に語ったら、Iちゃんがポンと言ったのが冒頭のひと言だった。

傷つくことでしか創作できないやつには才能がない。

その言葉を聞いて、反射的に笑った。笑うしかなかった。Iちゃんも私を傷つけようと思って言ったのではなく、キツめの冗談のつもりなのが口調でわかった。でも、当然ながらそれは図星で、あとからすごく落ち込んだ。

Iちゃんが後日「ごめん、あれボブディランじゃなかったかも。他の詩人かも」と律儀に訂正してくれたのも、出典わからないけど名言として残ってる言葉って逆に説得力あるじゃん、という感じで落ち込みを増長させた。

 

10代の頃、「傷つくこと」と引き換えにしか文章が書けなかった。当時の日記を読み返すと、毎日何かに触れては傷つき、ろくに見たこともない世間を仮想敵にしてキレまくっている。

やれバイトと部活が忙しすぎて寝る時間がないだの、近しいグループ内のいじめが幼稚に見えるだの、本気を出せばすぐに手を引けるような関係や状況に自分から首を突っ込むことで、悩みや不安を意図的につくりあげていた。
いちばんひどいのは、詳しくは書かないが恋愛の仕方だった。毎日どこかしら精神的に傷つけられるような恋愛は、創作意欲と恐ろしいほど相性がよかった。そういう恋愛にはまっていたとき、私は取り憑かれたように文章を書いた。

 
その癖は20歳を過ぎても治らなかった。社会人何年目かでさすがにおかしな恋愛はやめられた(結構かかった)が、定期的に来る「傷つけられた」気分は私をキーボードの前に向かわせた。
夜中にお酒を飲んだ勢いでガーッと書きあげる鬱屈とした文章は、不思議とたくさんの人に読まれた。そうでないときに書いた文章よりPVやリアクションが多いのは明らかだった。

 
自分は不幸な状態、病んでいる状態でないといい文章が書けないのだ、と思い込むようになるまで、そんなに時間はかからなかった。

失恋ショコラティエ』というドラマ化もした水城せとなさんの漫画を読んで、チョコ好きな元カノを振り向かせたいという怨念じみた熱量でショコラティエになってしまった主人公に泣くほど共感したし、アーヴィングの『村の誇り』という、結核は繊細な人だけがかかる神聖な病気だという19世紀初期の思い込みを具現化した小説を鵜呑みにし、結核にかかってみたいと考えたことすらある。

常に文章が書きたくなるような状況に身を置けるなら、それがどれくらいひどい環境でもいいのだという強迫観念じみたものがあった。
けれどそれは当然ながら日常生活とは噛み合わず、自分の心境を吐露するような文章を書いたあとは、疲れ果てて15時間くらい寝ないとやっていられない。15時間ぶっ続けで寝ると必ず金縛りにあった。

 

ある日、亡くなった雨宮まみさんのブログを読み返していたら、こんなエントリを見つけた。

短い、タイトルも特にない文章だ。けれど、一読してゾッとした。

つらいときには文章なんかいくらでも書ける。「刺さる」フレーズも書きやすい。自分が求めている言葉だからだ。 

 これはもうまさに、自分が毎日やっていることだったからだ。この文章を、

それを書けたとして、書けた先に「こんなのは間違ってる」と「こんなのはおかしい」と、言えるだろうかと思う。

という言葉で締める雨宮さんが好きだと思ったし、私も「こんなのは間違ってる」とそろそろ言わなくてはいけないことに、初めて気づいた。


さいきん自分が鬱っぽくなってきていることに思い至って、夜中に長文で「助けてくれ」みたいなことを書きたい気持ちをぐっとこらえ、『サブカル・スーパースター鬱伝』を読んだ。その中で、かつて不安神経症を患った菊地成孔氏がこんなことを語っていた。

病が深いほうが作品は作りだせるんでね。(※病を克服したことで)最初は創作性が失われたと思ってたんですよ。ところが活動を見ればおわかりのように、むしろ活発化してどんどん浮かんでくるのね。
ファン層もガラッと変わっちゃいましたからね。自分がストレートに病んでたときはファンもストレートに病んでる(笑)。治ってからはヘルシーさが僕にもファンにも共有的になってきて。

この文章をきょう読めて、よかったと思った。たぶん、病んでいないときや傷ついていないときでもいい作品をつくりだせるクリエイターは、彼の他にもたくさんいるだろう。
でも、「病みながらつくった作品」の生み出しやすさや気持ちよさを知っている人がこれを語ってくれるのは、いまの自分にとっては大きな希望だった。

もちろん、病んでいるときだって書く。病んでいるとき、不幸のどん底にいるときにしか書けないものは確実にあるし、叫びのような文章が、同じ気持ちになったことのある人をたしかに救うことも知っている。

 

けれど、そうでないときも、自分を奮い立たせながら書こうと思う。時間がかかっても、PV数15とかでも、書きたいことはたくさんある。毎日が平凡だから、いまが幸せだからといって文章が書けなくなるなんていうのは、怠惰な私の思い込みに過ぎなかった。

彼氏が私を口説いた店3選

ここ一年で印象的だったデートを振り返ろうとしたら飲み食いしたもののことばかり書きたくなってしまい、図らずも「酒呑みカップルにおすすめの店3選」的記事になってしまった。せっかくなのでそのままの(ニュアンスの)タイトルで公開します。

 

【赤羽】丸健水産

赤羽で昼から飲もうという話になり、ポカリスエットを2本抱えてバスに乗った。

待たせていた友人は駅近のバルでアヒージョかなにかをつまみに飲んでいて、会うなり「よーし馬鹿みたいに飲むぞ」と言った。私も飲むぞと言って、何店か回って実際に馬鹿みたいに飲み食いした。

 

途中入った居酒屋でレモンの乗ったからあげが出てきたとき、友人がちらりとこちらを見るなり「レモンが、ありますね」と言った。

カルテットだ、と笑いそうになったが、こちらもベロベロに酔っていたのでなにも答えずレモンをむしりとり、ダーッっとあらゆるからあげに絞った。

怒られるかと思った。が、友人は「あ~!」と笑っていた。

 

この何日か前の夜、カルテットの収録に出くわした。

仕事帰り、表参道で通行止めになっている道があって、聞けばカルテットの撮影だという(あとから振り返ると、6話のクドカン大森靖子ちゃんのシーンだった、たぶん)。

友人とトラックで囲まれた道の向こうをちらちら見ながら、早足で交差点を渡った。渡りながら、「すごいね」と話した。自分たちが夢中で毎日夜遅くまで感想を話し合ってるドラマの撮影に、目の前で会うとは思わなかった。

 

最後におでんを食べて帰ろう、と並んだのが「丸健水産」だった。

人気の立ち呑みおでん屋で、赤羽で飲むなら絶対に行きたいと思っていたところだ。酔いで冷えた体をさすりながら店の壁に目をやると「泥酔した人はお断り」という張り紙がしてあって、一瞬ヒッっと思った。

「私泥酔ではないよね」と確認すると、友人は「泥酔だよ。いますぐこの列から出ろ」と言った(出なかった)。

 

立ったまま大根をかじり、もち巾着をハフハフ言いながら食べる。

山芋のアレルギーがあるので、練り物は念のためと思って手を付けないでいたら、友人が「ほら、おもちと大根食べな」と自分のを私にくれた。

友人はスタミナ揚げやらつみれやら、練り物だらけになった自分のお皿を嬉しそうに見ていた。いいやつだな、と思った。

 

カップ酒を50cc残しておでんのだしで割ってもらう、というだし割り(アル中の発想だ)がここの名物で、50円払ってだしを入れてもらった。

「飲みものが好きなんだよな」としみじみとした顔で友人が言うので、そんなくくり方あるかよと思った。だし割りは、飲みすぎて舌が馬鹿になったんじゃないかと疑うくらいおいしくて、「今年いちばん幸せだわ」と口に出してしまった。実際、幸せだった。

 

後日、友人が赤羽育ちの職場の先輩にこの日の話をしたところ、「ド素人のコースだな」と一笑されたらしい。

 

 

【渋谷】GOOD MEALS SHOP

「きみと結婚したいと思ってるんだよね」と言われて言葉が出てこなかった。

静かなお店じゃなかったらたぶん爆笑していたが、客はほぼ私たちしかおらず、いい感じの音楽が低いボリュームで流れていたので、絶句するしかなかった。

 

そもそも付き合っていなかった。「ほぼ付き合ってる状態」とかでなく、完璧に付き合っていなかった。そう言うと、友人は「きみはたぶんこれからも誰かと付き合うし、もしかしたら僕もそうなったりするのかもしれないけど、ずっと結婚したいと思ってる」みたいなことを言った。

友人がマッチングアプリを入れていて、たまにマッチングした人と会っているのも聞いていた。でももうほんとつまんない、LINEしても実際にごはん食べに行ってもつまんないよ失礼だけど、と何度も言っていたので、なんだかんだ言って誰かしらと付き合うんだろうなとなんとなく思っていた。

 

クラフトジンを何杯か飲んだ。京都のドライジンの「季の美」がおいしくていい気分だった。友人はお酒にめっぽう強いが、珍しく彼も酔っていた。

カウンター席からは向かいのビルのベランダが見えた。友人と並んで窓の外を眺めていると、仕事の休憩で一服しにきた人が外に出てきて、ぼんやりと屋上のほうを見ながら煙草を吸っていたりした。その何人かとたまに目が合った。

 

帰り道、渋谷駅は工事をしていて騒々しかった。

ホームへの階段を下りていく友人を見送ろうとしたら、彼がくるっとこちらを向いてなにか言った。ズダダダダダダダという工事の音に消されて聞こえなかったので「なに!」と叫ぶと、「次会ったら手つないでいい!?」と叫び返された。中学生かよと笑った。

(※ぐるなび見つからなかったのですが、行ったのは渋谷店です)

 

【恵比寿】おじんじょ

夏、「おいしいレモンサワーが飲みたい」と口癖のように言っていたら、彼が店を見つけてくれた。人気店のようで、着く頃にはもう店の中はいっぱいだった。

こちらでお願いします、とテラス席に通される。テラス席、というか外の席で、椅子が地面と店の入り口の傾斜に跨っているのでガタガタした。入り口の暖簾に顔を撫でられながらもずく酢を食べた。扇風機の風が心地よかった。

 

店員が手早く運んでくる料理で狭いテーブルはすぐにいっぱいになった。ポテサラをひと口食べるなり、彼が「うわあ」と言う。「えっなにおいしい。ポテサラおいしい」。たしかにおいしかった。レモンサワーも何種類もあって、当然のようにおいしかった。

通りを眺めながらレモンサワーを飲んでいると、店員同士が呼びかけ合う声がたまに聞こえた。「ビップさんポテサラです」「ビップさん煮込みです」と言っている気がしたので気になっていたが、彼が「ここVIPさんって呼ばれてない?」と言うので確信した。

 

VIPか、と思って改めてテーブルをよく見ると、テーブルだと思っていたそれは小ぶりな冷蔵庫だった。冷蔵庫か、私たちVIP席なのに冷蔵庫の上で飲んでるのかと思った。翌日この店で撮った写真を見返したら全部笑っていた。

晩酌屋おじんじょ
〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西2-2-10 西牧ビル1F
4,000円(平均)

 

 

番外編

入籍する日にちを決めて、その日の夜はちょっといいとこでごはんを食べようという話になった。

「いいからその日は全部任せとけ」と大口を叩き、店を探した。サプライズで花束を贈ろうと思って、花屋さんも探し、レストランの人とも結構念入りに打ち合わせした。

 

決めていた日の前々日、私が高熱を出した。インフルエンザの検査が陰性だったときは安心して泣きそうになったが、もう何をどうやっても2日間で治すぞ、という気でいた。実際になんとか1日で熱は下がり、体調も徐々に回復してきた。

 

が、今度は前日、彼が高熱を出した。私の風邪をうつしたのかと思ったが、どうやらノロウイルスのようだった。翌日は朝から動くつもりだったので、予定の一部をキャンセルした。

 

当日になって、夜はお互いになんとか動ける状態だった。それぞれに水を1本ずつ持ち、ルルのど飴を舐めながら向かった。住宅地の中の一軒家レストランを選んでしまったので、恐ろしいほど遠かった。駅の階段で息を切らしながら「おなかすいてる?」と聞くと、「まったくすいてない」と言う。私もすいていなかった。

 

レストランは料理も店構えも本当にすばらしかったが、向かい合って座った彼の目がしだいに死んでゆくのが見てとれ、ああこれはとっとと婚姻届出して早く帰ろう、と思った。

デザートで花束を出してもらった。抱えきれないくらいの花束がいい、という私のリクエストのせいで、派手で、大きなやつだった。彼は「えええ」と言った。

写真を撮ってもらった。お互いに顔色も悪く、この日のためにと思って買ったPerfumeの衣装みたいなスカートは、アングル的に1ミリも写っていなかった。

 

花束と残りのワインを引きずるようにして市役所へ向かい、速やかに届けを出し、タクシーで帰った。

 

きょうの朝、起こされてベッドから顔を出すと、「ちょっとそこで待っててね、そこにいてね」と夫が言う。

部屋の外からなにやらガサガサ聞こえるのでまさかと思っていると、大量のバラの花束を持って入ってきた。「増えちゃったよ」と爆笑した。

きょう届くよう予約してくれていたのだと聞いて、じゃあきのうマジかよって思ったでしょと言うと、「マジかよって思った」。

 

大量の花束を抱えて夫に写真を撮ってもらった。バラに埋もれて横になっていると、棺桶の中みたいだと思った。

「家中の穴の空いた容器は使い果たした、もう花器がない」と母親に電話すると、「バケツとかゴミ箱洗って包装紙巻いて活けなさい」と言うのでその通りにした。

いま、家じゅうが冗談みたいに花だらけになっている。

マジックミラー

新居の部屋のクローゼットの扉はセンターラインを引いたみたいに天井から床までが鏡張りになっていて、朝、その前で胡座をかいてメイクをしていたら、むかしマジックミラーのある店でバイトをしたことがあるのを思い出した。

2回ある。

 

 

1度目は大学4年生だった。就活もしていなかったし院に進学する予定もなく、卒業制作の文章を書く以外は酒を飲むくらいしかすることがなかった時期で、フラフラと飲み歩いては知り合いをつくり、その知り合いに教えてもらった店でまた飲み、ラムの種類だとかカクテルの名前の由来だとか、生意気でおよそ役に立たないことばかり夜な夜な覚えていった。

 

飲み屋に向かって繁華街の小道を歩いていたら声をかけられた。「お姉さんお願い、座ってジュース飲みながら漫画読んでるだけでいいから」。

 

新宿や渋谷を歩いているとたまにかけられる台詞だったので、無視して歩き続けた。それでもキャッチの男は歩幅を合わせてついてくる。「お願い、お願いします、ホントお願いします、お菓子も食べていいから」。

その様子があまりに切実だったので、思わず立ち止まった。その夜は別に酒なんか飲みたくなかったし、卒業制作にも行き詰まっていたし、なにより私は暇だった。キャッチの男はホッとした表情で、人気のないところに私を呼び、店の説明をした。

 

 

台湾マッサージのチラシがベタベタと貼られた狭いエレベーターを上がりながら、男が小声で「誰にもついてかなくていいんで、呼ばれたらたまーに出てっておしゃべりして」と言う。別の階で下りていった大学生くらいの男の子が、ドアが閉まる前、軽蔑するようにじろりとこちらを見たのを覚えている。

 

店は出会い喫茶だった。男性客が座るフロアの向かい側、5メートルほど先に女性客用のフロアがあって、女性客が座るほうだけ、壁がマジックミラーになっていた。

男性客が女性客を見て指名し、女性客がOKを出せば、小さなトークルームに通される。そこで外出OKかどうかを男女で話し合い、双方が合意すれば、店の外に出てデートをすることができる。だいたいそんなシステムだった。

 

男性客は利用するのに結構な金額がかかるのに対し、女性客の利用は無料だった。もしかしたら「登録料」みたいなものがあったのかもしれないが、私はサクラだったのでそのあたりはよく分からない。女性客がゼロだと男性客から料金をとれないしくみになっているらしく、店としては形だけでも女性に座っていてもらわなければいけなかった。だからサクラが必要だった。

 

マジックミラーの向こう側で漫画喫茶のような薄いジュースを飲み、カールを食べていると、時折店員から男性客が記入した紙を手渡された。「楽しくお喋りしましょう!」みたいなふつうのメッセージのこともあれば、稀に「この銀河系で君に逢えた奇跡  君の瞳に乾杯……」みたいなこともあった。

私はトークルームへの移動を拒み続け、1時間半ほどで店を出た。帰り際、キャッチの男に何度も礼を言われ、「よければまた」と言われた。

 

別の日、また同じ道でキャッチの男に会い、「30分だけ」と言うので30分行った。

 

そんな風にして、常連の飲み屋に行くまでの30分とか1時間をそこで潰すようになった。キャッチの男はいつでもいて、サザエさんのノリスケに似ているから仲間からはそう呼ばれているのだと名乗った。全然似ていなかったが、毎回律儀にエレベーターの下まで送ってくれて、わりにいい人だった。

3回目に店に行った帰り、ノリスケがバイトを提案してきた。好きなときに店に来てくれていい、その代わり時々はトークルームにも移動してほしい、いた時間の分だけ報酬を出す、という条件だった。

提示された金額は低かったが、高すぎないことにむしろ安心もした。私はノリスケに分かったと言い、それから週に1、2回くらいはその店に行った。

 

しばらくして、店は一部の熱心な男性の常連客と、援助交際の相手を探す女性客で成り立っているということに気づいた。トークルームに移動すると、開口一番「2万?」と指を2本立ててくる男性客もいた。「ふつうにおしゃべりしに来ただけなんで」と言うと不思議な顔をされた。

 

女性客がひとりもいないとき、こちら側のフロアは静かだった。店内の有線が途切れると、自分がジュースを啜る音と、男性客が鉛筆を走らせるカツカツという音だけが響いた。

マジックミラーの内側にいると、こちらからは見えないはずの視線を確かに感じることがあった。映画で見るような、獲物に赤いレーザーポインターが当てられるシーンのことを思い出し、あ、私いま値踏みされてる、と思った。

その時間が過ぎると、誘われたトークルームのカーテンの中で2本とか3本の指が立てられ、それを笑いながら振り払う。

何人かの男性客と会話をして店を出ると、いつも恐ろしく肩が凝っていた。

 

 

 

2度目はその翌年だった。

就活をしなかったツケはすぐに回ってきて、私は短期間のイベントバイトでどうにか食い繋いでいた。

ある日、バイトの求人サイトを見ていたら、時給3000円を謳うガールズバーを見つけた。嘘だろ、と思ったら嘘だった。面接に行き、システムを聞いてみたらキャバクラだった。「体験入店だけしていきますか?」と聞かれ、もういいやそれでもという気になってハイと言った。

ラミネート加工された200の名前シートの中から本名に近い源氏名と、できるだけ露出の少ない衣装を選び(とはいえバニーガールだった)、店のある地下への階段を下りた。

 

客席はオーセンティックなバーのような長いカウンターと小さな個室いくつかでできていて、カウンターの正面は大きな鏡になっていた。その裏にある待機室に回ると、そこも鏡だった。しばらくすると女の子たちが出勤してきて、私は「体入のしいちゃん」と紹介された。れいかさんだったかるいさんだったか、ラ行から始まる名前の女の子ふたりがよろしくねと言った。

ふたりと共に待機室に入ると、れいかさんは鏡に顔を近づけてメイクを始め、系列店にヘルプで入ったら最悪だった、という話をした。「しいちゃんもマジで○○店は行っちゃだめだからね」と言いながら、彼女は手についたマスカラを壁にかかっていた誰かの衣装で拭いた。

 

酔った客と話すことは苦痛だったが、それ以上に、接客のターンが1回終わるたび、店長に「次はもうちょっと体くっつけてみて」とか「モエ飲みたいですって言ってあげて」と言われることが嫌だった。

私は「もっと飲みたい」とか「ボトル入れて」とか、果物が目の前にあっても「あーん」とか言えなかった。客の手に手も重ねられなかった。

体験入店とは言え浮いているのは明らかで、ビールを注ぎにキッチンに行くたび、ボーイが不安げな顔で「大丈夫?」と聞いてきた。「ほんとにだめだったらこっち見てね、助けに行くから」と言う彼は優しかった。

 

妙に意地になって、それから何度か出勤した。

何人かの内気そうな客には気に入られたが、多くの客との会話は噛み合わなかった。ある客は「大学時代に通ってたスクールカウンセラーの先生と話し方が同じ」と言った。黙ってチェンジを指示されたこともある。

 

売上の高い女の子のひとりは、薬剤師だった。上京して職場に近い三軒茶屋でひとり暮らしを始めたが、薄給に奨学金の返済が重なり、どうにも首が回らなくなってここで働いている、と教えてくれた。

待機室の鏡を見ながら、体育座りでよく話した。店はガールズバーを名乗り始める前は風俗店だったらしく、その頃は客側の鏡がマジックミラーになってたんだよと教えてくれたのも彼女だった。彼女が前の店にも長くいたのかどうかは聞かなかった。

「こんなとこずっといちゃだめなんだけど」と彼女が言っていたのをいまでもたまに思い出す。名前も知らない彼女の目は寝不足で濁っていた。

 こんなとこずっといちゃだめなんだけど。

 

 

私が店を辞めた翌日、丸の内線に乗っていたら、前日に店で接客した男性が向かいのシートに座っていた。作り話みたいだけれど本当の話だ。

彼は同僚らしき人と仕事の話をしていた。 左手には、前日にはなかった指輪があった。

電車を降りるとき、「5年彼女いないって言ってたじゃん」と声をかけようかと一瞬だけ思ったが、当然そんなことはしない。最後まで目は合わなかった。

 

 

あれから何年か経った。

出会い喫茶の煙草臭いエレベーターや、ガールズバーの天井の冗談みたいなミラーボールのことは、もう忘れかけている。待機室の女の子たちが黒人のあれは本当にでかいとかどこのホストがいいとか話していたことは、不思議と忘れられない。

 

最近、新居の部屋の奥にベッドを置いたら、朝最初に見るのがクローゼットの扉の鏡に映る寝起きの自分になってしまった。

鏡越しの素顔の自分を見ていると変な気持ちになる。衝立かなにかで鏡を隠してしまおうか、この頃は迷っている。

詩とバスマット

私がかつて想像した25歳の私はひとりだった。

結婚も特定の相手との交際もしておらず、友達は少なく、都内に独り暮らししていて、時どき演劇や食事のために外出する。

そういうことになる予定だった。

 

 

高1のときにミクシィを通じて舞台のチケットを譲ってくれた30歳の美しいお姉さんがいて、彼女は私の将来のロールモデルだった。ワンレンの黒髪ボブで猫を飼ってて、独身で、SM写真のモデルをしていた。

初めて会ったときに「なんか作り話みたいなプロフィールでしょ」と言われたのを覚えている。下北の本多劇場の前で。枯れた声は前の日にバーで飲みすぎたからだと言う。

 

小雨で、入場列に並ぶお姉さんはグレーのカーディガンを肩にかけていて、その隙間から細い二の腕が見えた。ちょっと出来すぎた光景だと思ったけど、ある程度歳を重ねた美しい人というのは常に美しくあることを自分に課している人だというのが分かりかけてきていた年頃だったので、素直に「綺麗すぎて緊張します」とだけ伝えた。

彼女は劇場の中で、無造作に積まれたパイプ椅子や関係者からの仰々しい花輪を背景にしても、その都度その都度きちんと自ら発光しているように見えた。

 

 

私は、自分もいつかああなれると思っていた。

好きなバンドのギタリストより好きな人が現れるわけがないという確信もあったし、なによりも、日常感のあるもの、つまりハレとケでいうケにあたるものすべてをまとめて毛嫌いしていたので、そう思い込むのも無理はなかった。

当時の日記を読み返すと「嫌いなもの…女子高生、男子高生、言葉の通じない子ども、“小市民的幸福”というおぞましい言葉」とか書いてあってなかなかに仕上がっている。当時付き合っていた人がいたら2ちゃんでスレ立てされていたと思うが、当然いなかった。

 

 

だから、15歳の自分が夢想した25歳の自分なら、こたつに入って彼氏とピザを食べながら新居のごみの分別方法をググったりはしなかったはずなのだ、絶対に。

洗濯機がまだ届かない洗面所で化粧を落として、顔を拭きながら「そうかあ」と思う。

なにがそうかあなのかはよく分からないけれど、淋しいとか悔しいとか諦めたとかではなく、ただ、「そうかあ」。

 

 

 

新居から実家まではバスが早いが、その日は終バスを逃してしまったので、地下鉄の駅で降りた。

環八通り沿いを乗換駅に向かって歩きながら、ふと出来心で、実家までの徒歩ルートを調べてみる。45分。

お酒も残っていた。後先を考えずに歩き出して、すぐに楽しくなってくる。

 

 

日曜夜の環八通りを走るのはほとんどが大きなトラックで、その巨体がアスファルトの上をグゴゴゴと音を立てて通り過ぎていくのを見ていた。トラックもすれ違う自転車も犬を散歩させる人もいなくなると、辺りは静かだった。

 

携帯を握る手が冷えてきた頃、自販機でコーヒーを買った。いつかの朝、道玄坂を歩きながら「コーヒーとトレンチが似合うね」と言われたことがあったのを思い出して少しいい気分になった。コーヒーをカウチのポケットに突っ込んでまた歩く。

 

指先が温かいだけでどこまでも歩ける気がした。暗いトンネルを早足で抜けると、通っていた小学校のあった赤羽駅に繋がる交差点が見えた。通学バスで6年間窓から見続けたルートを徒歩でなぞると、自分がスローモーションの中にいるみたいに思えて変だった。

 

歩きながら考えていたのは、洗濯機が届くまでのあいだに使うタオルとバスマットを実家から多めに持っていこう、ということだった。忘れられない舞台や詩のワンフレーズについてではなかった。

彼氏や家族や新居に持っていく亀のことを考えるたびに、足が少し速くなったり遅くなったりした。私は冬の街灯の下でもはやひとりにはなれなかった。

 

 

広いガレージのある家の前を通ったときに、ハイヒールの踵が大きな音で響いた。コツ、コツ、コツという音が山びこのように小さく残響する。昔から人のいない夜中に歩くのが好きだったのは、この音を聞けるからだと不意に思い出した。

 

公園の水道のホースの写メを撮ったり、iPodでナイトフィッシングイズグッドをリピートで聴いたりしながら1時間かけて歩いた。遠くに月が滲んで見えた。

 

私は真夜中特有の淋しさをめいっぱい浴びて有頂天になったり、バスマットのことを考えたりを交互に繰り返していた。たぶん、というか確実に、これから先は後者のことを考える割合が少しずつ増えていくのだろうと思った。それを淋しいとは感じなかった。

もしも向かい側から15歳の自分が歩いてきたら、いまの私に気づいてくれるだろうか。

真夜中に浴衣を洗う

亡くなった祖母の部屋に入るのは久しぶりだった。物置と化した和室には仏壇とふたつの大きな箪笥、古い姿見などが並んでいて真夏でもやけにうすら寒く、昔からそこは夜ひとりで入るにはすこし怖い部屋だった。

箪笥の引き出しを1段ずつ開けながら「もしかしたら上の部屋かもしれない」と母が言う。「なんでこの時間なのよ、もっと早く言いなさいよあたし昨日聞いたでしょう」

部屋の隅で三角座りしてビールを飲んでいた私は、すいません、と言う。その声がかすれていたのでもう一度言い直す。姿見に映る自分はあまりに情けなく、子どもじみて見えた。

 

昔から家族には自分の話ができなかった。
小3のとき、母に「同じクラスのまみこちゃんが通学バスの席を絶対に譲ってくれない」という相談をしたことがある。母はそれを「まみこちゃんに直接言えばいいじゃない。なんで自分ばっか座るのって怒ればいいでしょう」と一笑し、隣で聞いていた父は「言えないんだよな、しほはそういうことが言えないんだ。そういう子なんだ」と気の毒がった。

9歳の私は、自分が求めているのがアドバイスではなく共感だと気づけるほど賢くなかった。賢くなかったので「ちくしょう。かわいそうにって言ってくれよ身内なら」と怒りの矛先を両親に向けた。私はいつしか家で自分の話をしなくなり、自分の殻に閉じこもり、そこから出ないままで大人になってしまった。
こんな人間でも20歳になれば自動的に大人とみなされるなんてシステムは狂っている。成人してから5年経つけれど、たぶん私はいまでもまみこちゃんを怒れない。

 

母があ、と声をあげた。「これだ」
白地に紺の模様が入った浴衣を広げながら、「どう? 好きそう?」と聞く。

「うん。たぶんなんでも着ると思うけど、まあでもあんまりそれは似合わないかもしれない。柄が派手だし」
「じゃあなんでもじゃないじゃない」

母はその奥からもう1枚別の浴衣を出す。さっきの白よりも控えめな、グレーと白のあいだくらいの色だった。そっちがいい、と受けとる。

 

 

洗面台に水をためていると、祖母の部屋のほうから箪笥を閉める音がした。なにを話そう、と焦る。身内相手にこんなに焦るのか。こんなことってあるのか。洗剤を溶かして浴衣をつける。ぐいっと押すとすこしだけ水が汚れる。母が洗面所に歩いてきて、「ついでにこれも洗って」ともう1枚の浴衣をよこす。「うん」


「こないだ西武行ったら、呉服コーナーで若い子たちが熱心に浴衣選んでたわよ。男の子も」
「男子はなかなか持ってないよ浴衣」
「だから貸すんでしょ?」
「うん」
「あんたは前にユニクロで買ったやつ着てくの?」
「いやそっちじゃないほうにする。あとユニクロで浴衣買ったって絶対にか、かれ、あした来る子に言わないで」

押し洗いをしながらビールを飲む。酔っていないと話せなかった。

「なんで昨日言わないのよ」
「ほんとすいません」
「あんた自分で着付けできないくせに」
「いや、YouTubeとか見ればまあできるけど、あなたはプロみたいなもんだし」

母はむかし着物のモデルをしていたので、和服を着るのも着せるのもうまい。私が着るついでに彼にも、という話になるのは自然だった。

「いいけど、その子初対面で『はい脱いで』ってなるわよ」
「ウケる」

1枚を洗い終えて、干す。もう1枚を水につけると、途端にぶわっと色が落ちた。藍色の水の中で浴衣を揉む。

「花火終わったらうち戻ってきて着替える?」
「そうする。うちに服置いてかないと荷物増えちゃうし」
「じゃあついでに帰りお酒飲んでく? お酒飲む子?」

飲む子だよ、と答える。

「お酒強いしわりとなんでも好きだよ。金沢のときも日本酒買って飲んだし、……ていうか金沢あれだった、写真撮ってくださいってすごい頼まれて、いやその子優しそうだから分かるんだけど、美術館でも兼六園でも頼まれてて」

いざ話し始めたら結構楽しくなる。好きな人について話すのだから楽しくて当然なのだ。
ふうん、と母が相槌を打つ。私は浴衣を洗っているので母の顔は見えない。

「金沢その子と行ったの? 春に手紙送ってきた子?」
「前者イエス、後者ノー」
「なるほど」


考えてみると、あまりにいろんなことを話さずにきた。話さないままこの歳になってしまった。私が昔いじめられていたことも、どんなバイトをしてたかも、なんでいまライターになったかも、母は知らない。私が死ぬほど好きなものや嫌いなもののこと、そのいくつかを手に入れ、いくつかは手に入れられなかったことも、たぶん知らない。
けど別にいい。あした家に呼ぶのがとても好きな子だということだけ知っていてくれればいい。


「いい子だよ」
「うんまあ、あんたがやっと連れてくるんだからそうでしょう」

 

水をすすいで振り向くと、母はもういなかった。私は2枚の浴衣を並べて干して、洗面所の灯りを消した。

のどぐろとプール

夜行バスを下りると朝だった。
にやにやしながら「ここはもしかして金沢なのではないか」と言うと、同行者も「オッもしかして金沢なのではないか」と乗ってくれたので、幾度もそれを繰り返す。
飽きるまでやろうと思っていたが、彼が「まだテンションがそこまでじゃないから」とやんわりそれを制した。

駅前のスパに寄った。女湯には部活の県大会かなにかで来たらしい女子高生のグループがいて、備えつけの扇風機のコンセントを抜いて携帯を充電していた。
いくつになっても運動部の女子高生は年上に思える、という話をむかし友人にしたことがあるが、文芸部だった子しかわかってくれなかったのを思い出す。

壁を向いて湯船に浸かった。お湯が信じられないくらいぬるい。ぬるい、というか冷たい。
一刻も早く出たかったが、つい女子高生たちの反応が気になって、彼女たちが入ってくるまで待ってしまった。やがてひとりが湯に足をつけて「待って、ありえん」と言ったので満足して出た。

 


真夏日だった。
金沢駅から市バスに乗った我々は首からカメラを下げ、ボストンバッグを抱え、右手にことりっぷを持っていて、観光客のコスプレをしてるみたいだった。

金沢城公園に寄る。目の前に広がる一面の緑が、入っていい芝生なのかいけない芝生なのかいまいちわからない。
やがて外国人のグループがためらいなく芝生の上を歩いて横切ったので、「よしきた」と思って芝生に寝転んだ。寝転んだまま「我々はどこへ行くのか」と同行者に聞くと、「魚を食べる」と言うので頷いた。

すぐ近くの近江町市場に向かう。
市場の呼び込みは元気がよすぎて劣等感を刺激されるのであまり得意じゃない。借りてきた猫のように回転寿司を食べた。アジ、平目、のどぐろ。「のどぐろは美味しい」と記憶領域にインプットするように同行者がつぶやいた。

 


観光スポットはどうやらすべてバスで回れてしまうらしい、ということに気づいてすこしだけ残念だった。21世紀美術館にも呆気なく着いた。

展示の中には、けっこう好きなものと、まるでわからないものと、ものすごく嫌いなものが混在していた。ものすごく嫌いなものの話をしたいけれど、書いているそばからむかついてきてしまうので割愛する。美術をばかにしやがって。

ダミアン・ハーストのことはただの牛のホルマリン漬けおじさんだと思っていたのだけど、蝶が一面に埋め込まれたハート型の絵画を見ていたら、あ、綺麗と思った。
高校のとき「死んだらダミアン・ハーストの絵に埋め込まれたい」と言っていた知り合いがいたのを思い出して、絵の前でしばしぼんやりした。

 


スイミング・プールの周りには人だかりができていた。
カップルはだいたい彼女がプールのなかに入って、彼氏が上からそれを撮影している。上と下では互いの声が聞こえないので、撮影に苦心している人も多そうだった。
水面をのぞき込むと、プールの下にいる人たちの顔がゆらゆらと歪んで見えた。システム的には飼っている亀の水槽とほぼ同じだ。これが私が7年も夢に見続けていたプールなのか、と思うと、すこしだけ期待外れのような気もした。
振りかえるなり、同行者が「なにこれどうなってるのすごい」と言った。ちょっと嬉しかったが、きみはスイミング・プールも知らずに金沢に来たのか、と偉そうに説教する。いいから下におりろ上から撮ってやるから、と背中を押した。

 


プールの上でカメラを持って構えていると、見覚えのあるシルエットがプールのなかを横切った。彼がスマホを構えているのに気づいて、アレッと思う。写真撮ってくださいって頼まれたのか、頼まれたんだろうな。ていうかプールのなかの人同士で撮り合ってもただの水色の部屋の写真になっちゃうんじゃないのか。
撮影する彼を上からパシャパシャと撮っていたら、にわかに楽しくなってきた。いい日だ、と急に思った。

旅行記その0

夜行バスの中でこれを書いている。
旅行に、と言われていくつか候補を出し合っていたら、そういえば私は7年くらいにわたって金沢に行きたかったのだと思い出した。なので金沢、と言った。

高校のころ、ロクにしなかった受験勉強の合間にも日記だけは律儀につけていたので、毎日ちまちまと書き足していた「受験が終わったらしたいことリスト」が受験が終わるころには60個くらいになっていた。そのいちばん最初に書いたのがたしか「金沢に行く」だった。

理由は明白で、当時読んだオズマガジンかなにかに21世紀美術館のプールの中で微笑むモデルさん(二眼レフを下げている)が載ってて、「アートな週末」的なキャッチコピーがついてたのを見て、健全な女子高生的感性で「絶対行く!」となったのだ。

とはいえ18歳の私には友達がとても少なく、というかそもそも人と旅行に行ける協調性がなかったので、机に向かうたびに時おりオズマガジンを開いては、あの光のプールの中にいる自分を思い描いた。そこに行きたいというよりもたぶん、そこに一緒に行ける人を探していた。

 


旅行の準備をしはじめたのは、夜行バスに乗りこむ当日、つまり昨日だった。
修学旅行以来、人と2泊以上の旅をしたことがなかった私は緊張していた。ボストンバッグにドライヤーやら本やら虫よけスプレーやらを詰めこみながら、「楽しいんだろうか」と急に不安になった。

一緒に行く人が、よく「緊張しそうな場にはノーパンで行くといいよ。なにをしててもいや自分ノーパンじゃんって思えて馬鹿馬鹿しくなるから」と言っていたので、それを応用して真夏にしか着ないスパンコールがじゃらじゃらついたロングワンピを持っていくことにした。これで生真面目な顔をしようとしても「いやこんなスパンコールついてるじゃん自分」って思える。何事も工夫だ。
「亀を頼む」と母に伝えると、「あんた平気で2日3日エサあげないくせによく言うわよ」と呆れられた。

 


仕事を終え、東京駅に向かう。
ボストンバッグを抱えて乗る地下鉄はいつもよりも狭く思えた。キャスター付きのバッグを引いているサラリーマンや親子連れを見て、この人たちもそれぞれに旅の途中なのだと不意に思った。

夜行バスの消灯時間は早かった。
周りがみんな寝静まったあともなんだか眠れなくて、そういえば私は幼稚園のときのお泊まり会でも眠れなかったなと思い出した。同級生が寝て、部屋の灯りが消え、先生たちが隣の部屋でミーティングを始めてもなお眠れなかった。

隣に座る同行者に「なんでこんな人がいるのにみんな静かなのか」と小さな声で聞くと、うん、そうだねと頷かれた。バスがトンネルに入るときだけ、カーテンの隙間から線のように光が入ってきてその横顔を照らした。

やがて夜が深くなってくると、隣の席から伸ばした私の足を荷物のように抱えて彼は寝た。私もそれからすこしだけ眠った。