湯葉日記

日記です

練馬の公園のベンチにさえ席順はある

大学名を早慶に変えると埋まってたはずの説明会の日程が全部○になるとか、あの子陰キャのくせに急に目頭切開してきたよねとか、地方に単身赴任してるお姉ちゃんが早く結婚しろって親に言われて病みかけてるとか、そういう話のなにもかもが一気に無理になった時期があって、家を出て授業に行くふりをしてずっと公園にいた。練馬の。大学4年のときだった。

 

マウンティングとかスクールカーストとか選民意識とかそういうのぜんぶ超いやと思ってそういうの気にしない人とだけ仲良くしてたのに、意外と一歩「外」に出るとそういうのはまだまだあって、絶望しかけていた。

 

 

自分がそんなシステムの中にいることを一時でも忘れたくて、ランチパックを買って練馬の駅の近くの公園のベンチで昼過ぎからボーッとしていた。

見ていたら、ふつうに座ってるだけで鳩がすごい寄ってきちゃうおじさんがいて、どういうしくみなんだろうあれ、動かないのがコツなのかとか思いながら時間をつぶすのは至福だった。

 

 

月、火、水と3日間公園にいたら気づいたことがある。

月曜、私がなんとなく時計台のそばのベンチに座って足を伸ばしていたら、こっちを見て「チッ」という顔をする女性がいた。60代くらいで、ひとりで来ているらしかった。

 

翌日、私が別のベンチでランチパック(ピーナッツ)を食べていたら、その60代女性がまた来て、きのう私がいたベンチに座った。彼女はこっちを見て、前日とは打って変わってニッコリほほえんだ。

 

水曜、その女性と、別の知り合いらしき女性がきのうと同じベンチで談笑を始めたときにようやく、「ああ、私が最初に座っちゃったのはあの人の席だったんだ」と思った。

そのまま2時間くらい本を読みながら公園にいたら、犬の散歩の人たちやお年寄り、ホームレスの人たちなどが入れ替わり立ち替わりやって来てはにこやかに会話をしているのに気づいた。

 

そうか、練馬の公園にもコミュニティはあって、コミュニティがあったら当然「席順」もあるんだな、とわかったのはそのときだった。

そのとき突然、高校生のときに河原で花火をしようとしたら、その河原に住んでいるらしき男の人が私たちのところに近づいてきて、「花火やるなら〇〇さんに許可とんないと」と説教をしてきたのを思い出した。

 

〇〇さん、は地域のそういう管理をしている人とかではなく、河原に住むホームレスの人たちのリーダー的な人だと彼は言った。

どうしてここにいない人に私たちが花火していいかどうかを決める権利があるんだ、だいたいこの河原は花火OKのルールじゃんと私は思ったが、あれはたぶん、独断でOKしてしまったら、声をかけてきた彼があとから「〇〇さん」に怒られるからだったんだろう。

 

 

 

どうやら私たちは人がたくさんいる場所で生きている限り、席順とか上下関係とかカーストとかそういうのから逃れられなくて、あーもう本当に馬鹿みたい、人を仕分けしてなにが楽しいの? と思うんだけど、たぶん無意識のうちに自分もそういうことをしている。

 

先週から行ってるジムにはヨガのプログラムがあって、私は最初にその教室に入ったとき、クラスを仕切ってるっぽい40代くらいの女性(教室に入ってくとみんなその人に「おはようございますー」と最初に言う)に「はじめて?」と聞かれ、異常に愛想よく振る舞ってしまった。たぶん、「この人に嫌われたらこのクラスに居づらくなる」という勘が働いたのだ。

 

結局私はそれじゃない、もうちょっと生徒同士が会話しない感じのサバついたクラスを選んで通うことにしたけれど、そのくらいの打算は私にもある。

 

 

 

そういうのすべてから逃れて生きていきたいけど人と会っちゃう限りは無理で、諦めて割り切るしかないんだよなと大学の頃ぶりに悩んでいた一昨日、好きなバンドのライブのライブビューイングがあった。

 

豪雨で中止になってしまったライブの振替公演のような立ち位置のライブビューイングで、中止にならなかった1日目の映像と、中止になってしまった2日目に演奏するはずだった曲の生ライブが合わせて配信された。

 

映画館で、ビールを飲みながら友達ふたりと並んで見た。左隣にはひとりで見にきている女性がいて、時折、彼女の席から「グスッ」と鼻をすする音が聞こえた。最初はそれを抑えるようにしていた彼女が、ライブ映像が進むにつれて、嗚咽する声やキャーという黄色い声を全開にしていくのが印象的だった。

反対側の隣に座っていた友達は、(彼女自身がよくそう喩えるのだけど)南国の鳥みたいな「ギャッ」「ゥグッ」という声を上げながら映像を見ていた。

 

ライブを見ているうちに、「あ、生きててよかった」とナチュラルに思った。いま好きなバンドの歌に体を揺らしているこの時間はなによりも幸せで、この映画館にいる人たちみんながそれぞれのかたちで幸せを噛み締めていて、それは嗚咽だったり咆哮だったり南国の鳥だったりするけど、誰もそれをキモいとかうるさいとか思う人はいなくて(当たり前だ)、むしろ美しく、この瞬間がいつまでも続けばいいのになと思った。

 

 

ライブビューイングが終わったあと、映画館のあるパルコのカフェで鶏そぼろ丼を食べながら、もうひとりの友達が「音楽がね、好きなんだよね」と言って笑った。

わかる。音楽、いいよねえと思った。音楽に体を揺らす最高な瞬間は永遠には続かないんだけど、その瞬間だけがこの、なかなかにイヤな世界の中で、たしかに私たちを生かしているんだと思った。

忘れちゃいそうになるけど、それをずっと覚えていたい。

いつかくる最後のことをいつも考えている

大好きだったアーティストの舞台に初めて行った高1の夏休み、ひどい雷雨で帰りの電車が止まった。仕方なく、一緒に行った友達と劇場近くのマックに入って運転の再開を待った。

舞台は、正直に言えば期待していたほどには面白くなかった。それでも、憧れの人がついさっきまで通路を挟んで目の前のステージに立っていたという記憶は、私を興奮させるには十分だった。

舞台が明転した直後、手品のように現れた主演の彼が、最初の台詞を言う前にスッと短く息を吸い込んだこと。長袖の衣装のあいだから一瞬だけ見えた肌が真っ白で、照明に照らされた手首の血管がうっすらと緑色に浮き出て見えたこと。

そういった細かいことを友達にワーッとぶつけていると(すごいいい子だったので嫌がらずに全部聞いてくれた)、携帯にようやく運転再開の知らせが入った。傘が意味のないくらいの大雨に打たれながら下北の駅まで歩くと、改札前で駅員がスピーカーを持って乗客にこう呼びかけていた。

「雷雨のため臨時ダイヤで運行しております。次にくる電車も、本来のダイヤには載っていない列車でございます」

思わず、友達と顔を見合わせた。

「めっちゃ恥ずかしいこと言っていい? なんかいまのアナウンス魔法みたいじゃない?」と私が言うと、「思った! めっちゃ魔法!」と彼女が笑った。

時間の表示だけがぽっかり空いた電光掲示板を見ながら、今日みたいな夜が死ぬまで続けばいいけど、たぶん私は今日をいずれ思い出せなくなるんだろうな、と思った。

 

 

……という話をミクシィの日記に書いたのはもう10年前のことだ。私はいま、忘れかけている当時のことを、半年ぶりにログインしたミクシィに残されていた自分の文章と照らし合わせながらここに書いている。

当時の日記に、年上の友達から「臨時ダイヤごときで感動するとか、そういうの初めてなんだな」というコメントがついていた。

10年前の自分はそれに「そんくらい感動させてよ! 余韻余韻!笑」と返していて、若干イラついているのがにじみ出てしまっている返信で笑ったが、この日の私はたしかに「臨時ダイヤごとき」で感動したのだ。

 

 

5年前、10年前にはたしかに感じたことを、最近少しずつ忘れていく。

15歳くらいまで、自分の人生の最初の記憶はディズニーランドに一緒に行った「青山のおばさん」がシンデレラ城前でアイスクリームを私のベビーカーに落としてしまったことだと覚えていたけれど、いまはもうディズニーランドも、落ちたアイスクリームも、ついでに言えば「青山のおばさん」が何者だったのかも思い出せない。

思い出す回数が月に1回から半年に1回になって、1年に1回も思い出せなくなって、ついには忘れてしまう。それが嫌なので、なにか久々に思い出す出来事があると、「ああ、あの日のことを思い出すのは今日が人生で最後かもしれないな」といちいち想像して噛みしめる癖がついてしまった。

 

 

最後に母親におんぶをされたときのこともそうやって覚えている。小6で、本当はもうおんぶという歳でもなくて、母親にふざけ半分で重いよと自己申告しておぶってもらった記憶がある。

実家の玄関で母の背中によじり登りながら「これがたぶん、私が人生でされる最後のおんぶだろうな」と思ったら、うっかりすこし泣いてしまった。

月9ドラマの『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』に「私は新しいペンを買ったその日から、それが書けなくなる日のことを想像してしまう人間です」という台詞があったけれど、ああわかると思う。私はそうやって、いつかくる最後のことをいつも考えている。

 

 

もう見られない、と覚悟して見る光景はすべて美しい。2年前に別れた恋人と最後に会った日の夜、新宿西口の交差点を渡りながら見たビックエコーの看板は、人生で見たビックエコーのなかで一番きれいだった。コンタクトを外したときみたいに、雨でもないのにすべての色の光が丸く滲んで見えた。

ちょっと前に仕事でその交差点を通りかかったとき、あの夜の新宿が綺麗だったことをふと思い出して、「あ、忘れかけてる」と思った。今日これを書き終えたら、私はたぶんもうあの日のことを思い出さない。

客のいない店の店主は

写真を撮るためにそこに置かれた物の位置を替える、みたいなことを今年は極力しないようにしたいと友人が何年か前に言っていた(もしかすると言ったんじゃなくてツイートしてたのかもしれない。記憶が曖昧)。ああいいなと思って、たまに写真を撮ることがあるとその言葉を思い出す。

 

もちろん取材の仕事なんかで人やものを撮るときは、写さなければいけないものと写してはいけないものがはっきりしている、のでガサゴソと名刺やらパイプ椅子やら中途半端に開いたカーテンやらを端に追いやって“写真用の画”を作ることになる。その行為自体はたぶん正しい。

 

ただ、その正しさのコードをプライベートの生活空間にも持ち込んでしまうことが時どきあって、そういう自分の振る舞いに気づくと「だせえ」と思う。パイプ椅子的なものや中途半端に開いたカーテン的なものを徹底的に排除した先にある風景は、彩度が高く、非現実的で、うらさみしい。

 

 

 

 

高校生のときにブックオフで見つけた、いまで言うZINEのような小冊子(なんでそんなものが五反田のブックオフに売っていたのか)に、シュペルヴィエルの『場所を与える』という短い詩が載っていた。訳は中村真一郎氏。

 

君はちょっと消えて、風景に場所を与えたまえ。
庭は大洪水以前のように美しくなるだろう。
人間がいなくなれば、さぼてんはまた植物に戻るだろう。
君を逃れようとする根方に、何も見てはいけない。
眼も閉じたまえ。
草を君の夢の外に生えさせたまえ。
それから君はどうなったか見に戻ればいい。

 

正直、その冊子に載っていたほかの文章はあまり覚えてないが、この詩だけは記憶に残った。初めて読んだ瞬間、喉の奥のほうから言語化しきれないうれしさと驚きがせり上がってきてちょっとブルッとしたくらいだった。

“草を君の夢の外に生えさせたまえ。”

“それから君はどうなったか見に戻ればいい。”

 

 

 

 

すこし前、人との待ち合わせまで時間が空いて都心をブラブラしていたら、雑居ビルの立ち並ぶ裏通りに喫茶店の看板を見つけた。その書体やイラストの感じからたぶんいい店だろうとあたりをつけ、階段を上った。

 

録音スタジオのような重いドアを引きながら、あ、もしかするとジャズ喫茶かもしれないと思ったのが先か、音楽が聞こえたのが先か覚えていない。

視線のむこうに、店のど真ん中のテーブルに腰かけて新聞を読む店主がいた。客はひとりもおらず、ただ爆音でジャズがかかっていた。年配の店主は、何時間も前からその爆音の弾に当たり続けていたような険しい顔でこちらを見て、組んでいた足を下ろし、新聞を閉じた。

 

カウンターでコーヒーを飲みながらずっとどきどきしていた。絵のようなシーンを壊してしまった罪悪感と、店に相応しい客かどうかカウンター越しに審査されているのではないかという緊張感で手が震えた。座った席の目の前にはレコードが積まれていて、店主の顔はそれきり一度も見えなかった。

 

コーヒーを飲み終えたとき、怒られるかもしれないと思いながらも「美味しかったです」と伝えた。店主がちょっと相好を崩して「また」と言ってくれたので、ああ怒ってなかったんだ、と思った。 重いドアを肩で押して、店を出た。

 

 

 

待ち合わせ場所にはまだ誰も来ていなかった。

店でかかっていた曲をSpotifyで探していたらふと、あの店主はいま、人のいなくなった店の真ん中のテーブルに戻ってふたたび新聞を広げているところなんじゃないか、という考えが頭をよぎった。

 

夜にさしかかる街の下で、客のいない店にいまこの瞬間も立ち続けて(あるいは座り続けて)いる無数の店主たちのことを思った。想像の中のその光景はどれも美しかった。

 

亀のいる家

実家の匂いというものに初めて気づいた。1ヶ月ぶりに帰ったら、小学校のときに友達の家の玄関で感じたようなビミョーな違和感があって、靴を脱ぎ終えて初めて「あ、これがこのうちの匂いだったのか」と気づいた。手を洗ったり夫と話したりしていたら違和感は少しずつ小さくなっていって、やがて消えた。一瞬の出来事だった。どの家にもその住宅特有の匂いがあるということに気づくのは、他人の家に招かれたときだけだと思っていた。

 

実家の庭、とはっきり言いきっていいのか分からない、しいて言うなら庭、的なスペース(子どもの頃、揺らすと音楽が鳴る小さいブランコが置いてあった)を通って玄関のドアを開けるまでの10秒あまりのあいだに、物置き、牛乳の配達箱、名前を知らない花の鉢植えが一直線に目の端を通り過ぎ、ひとつひとつに対して律儀に「ああそうだった、そうだった、そうだった」と思った。

目の前のドアを開けたらとどめを刺されるという予感がしていたが、開けるしかなかった。

果たしてその向こうには私が完璧に知っているレイアウトの玄関があって、私の鼻はどこかよその家の匂いを感じとっていた。リビングから出てきた母に「なんかお香焚いてる?」と聞こうかすごく迷って、聞かなかった。

 

 

2階に上がると亀は私の部屋で寝ていた。

亀のことは引っ越しが決まった春から何度も新居に連れていこうとしているのに、父が毎回それらしい理由(ヒーターがいらない季節になってからのほうがいい、雨の日じゃないほうがいい、きょうは調子悪そうだから元気なときのほうがいい)をつけて渋るので仕方なく実家に置いていた。

私が水槽に近づくと、亀はビクッとして首を引っ込めた。ただいま、とか元気か、とか言ってしばらく私が水槽の前でじっとしていても、亀はこちらをまっすぐに見て黙っていた。

父が部屋に入ってきて「水汚いだろ」と言った。こいつ飼い主のことを忘れてやがる、と私が言うと、父は本気なのか冗談なのか分からない深刻なトーンで「そう……」と噛みしめるように言った。

体の水を拭いて亀をフローリングの上に乗せると、少しだけキョトンとしてから歩き出す。フローリングには3ヶ月前にはなかったシミがついていた。

夫が2階に上がってきて「あ、のろ」と言った。私も思い出したように「のろ」と名前を呼んだ。

のろはどちらの声も無視してベッドの下の暗がりに歩いていった。

 

 

1階の台所に降りていって亀の話をしても、母は興味のない素振りだった。アイスコーヒー用のガムシロップとミルクを探していたので、それらが入った小さいポットを棚から出して盆に載せた。

あーありがとう持ってって、と母に言われて盆を持ち上げたが、考えてみれば父、母、夫、私の誰もふだんコーヒーにガムシロップは入れない。「──ちゃんはこれいらないと思う」と私が夫の名前を言うと、それでも一応置いときなさいと母は言った。

大雨に関するニュースを4人で見ているあいだ、リビングのテーブルの上には「一応」のガムシロップとミルクがずっと置かれていた。いつ棚にしまうか考えた挙げ句、私きょうはガムシロ入れよっかななどと言って自分で使った。

知らなかったけれどガムシロ入りのコーヒーはまずい。

 

 

たぶん、1ヶ月という微妙な期間がよくなかったのだと思った。1週間ぶりとかなら普通に「おう、ただいま」ってなるし、半年とか1年ぶりならそれはそれで腹を決めて、知らぬ間に模様替えされた部屋だとか帰省らしい顔をする自分だとかに淋しくなったりすればいいのだ。1ヶ月はものすごく中途半端だった。最悪だった。

 

 

むかし、母と世間話をしていたとき、「練馬のおばさんが」と言われて「練馬のおばさんってなんで練馬に住んでるだけで練馬のおばさんって呼ばれてるの、かわいそう」と言ったことがあった。「おばあちゃんの2番目の妹さんが、とか4番目の妹さんが、とかいちいち言うほうがおかしいでしょう」と母に言われて確かにそうだとも思ったが、だからって練馬の家がとか蒲田の家がとか言うのはなんか変な感じがしたのだった。

 

きょう、夫と住む家に帰ってきてから用事を思い出して実家に電話をかけた。母と話しながら「家に、あ、ええとうちじゃなくてそっちの、──の家に」と自然と口に出たのは実家のある街の名前だった。

ああ確かにこの言い方は便利だ、と思った。電話を切ってからワンワン泣いた。

「iPhoneやばいですね」

酔って落としたり踏んづけたりを繰り返していたらiPhoneの画面がいよいよバキバキに割れ、電話中に突如音量がめちゃくちゃになったり、画面の灯りが一日中消えず夜その明るさでうなされたりするようになってしまった。

半年に1度くらいのペースで訪れている出張先の島のクライアントのおじさんが「あらら~、見るたびにひどくなるねえ、ウフフ」と毎回楽しそうにするのでどこまでひどくなるか試してみたい気持ちも強かったのだが、さすがにあと半年待っていたら昔のケータイみたいに半分に折れてしまうんじゃないかという気がして(それくらいひどいバキバキだった)、そうなったらそうなったでより一層楽しそうな「ウフフ」が聞けるだろうなあとも思いつつ、断腸の思いでiPhoneを買い替えた。

 

 

電話の開通を待っているとき、平日の昼間で暇だったからか、あるいは私がいかにも暇そうだったからか、ビックカメラのお兄さんに人生相談をされた。

契約書類に書かれた私の生年月日を見てから敬語が心なしかぎこちなくなったので、たぶん彼のほうが2,3歳年下だったと思う。明示はしなかったがおそらく新卒で売り場に入ったようで、本部にいる先輩らしき人に何回か電話で確認をしながら手続きをしていた。「在宅で仕事してる方って職場の連絡先の欄どうすればいいんですかね」とおそるおそる先輩に尋ねる彼は、クーラーの効いた売り場で一人うっすら汗をかいていた。

 

機種変のときって店員さんいろいろ書かなきゃいけなくて大変ですよね、という話が世間話になり、最終的に進路相談になった。北海道から上京してきたという彼は爽やかなスポーツ青年風だったが「人と話すのが苦手で」と言うので、一緒一緒、と盛り上がった。彼がiPadにペンで何かを書き込んでいるとき、その手がすこし震えているのには気づいていた。

「僕なんて世間のことまだまだ何も分からないので」と彼は何度も言った。

分からないというのは怖いことだよなと思う。私もまだ世間のことなんて何ひとつ分からないから毎日怖い。彼にとっていまカウンター越しに話をしている私が「世間」に見えてないといいと思い、必要以上に世間らしくなく振る舞った。

転職しようか迷っているという話のあとはちょっと手持ち無沙汰になってしまい、詳しくもないのに「サッカー見るんですか」と聞いて「あ、見ないです」と返された。

 

 

 

iPhoneやばいですね」というのは会話のひと言目としてちょうどよかったようで、わりにいろんな人にiPhoneをきっかけに声をかけられた。先々週渋谷で飲んで、終電の埼京線に乗っていたときもそうだった。

 

目の前に立った若いサラリーマンが、私のiPhoneを指さして突如「やばいですね」と言った。めくれ上がっている基盤を見せて「ここが夜中にフワッと光る」と言うと彼は笑って、「飲みの帰りですか」と言った。

もう一杯どうですかみたいな感じではなく、ただ世間話がしたいといった雰囲気だったので、自然と会話は続いた。実家から会社に通っているが、ギリ都心まで1時間で行けてしまう距離なので家を出るタイミングが分からないと彼は話した。

 

会話が途切れてボーっとしていたら、「変なこと聞いていいですか」と訊かれた。うわ、なんだよと思ったので微妙な顔で頷いたら、「自分がすごく尊敬してた人が、実は尊敬するに値しない人物だったって気づいたらお姉さんどうしますか」と言う。

隣で音楽を聴いていた大学生らしき若者が顔を上げてちらっと私たちを見た。

面食らったが、酔っていたので言葉だけはすらすら出た。聞くと、会社に新卒のときからずっと尊敬していた男の先輩がいるが、その先輩が「尊敬するに値しない人物」だということにここ数日で気づかされたという話だった。なんでそれに気づいたのか、尊敬するに値しないというのはどういうことかについては教えてくれなかった。

「ショックだったんだよねえ」と彼は笑いながら言った。

その先輩に認めてもらうために仕事をしていたフシがあるので、一気にモチベーションが湧かなくなってしまったという。お姉さんは尊敬してる先輩いる? と言われてフリーランスだと話すと、俺の友達にもいるけどフリーの人って大変だよね、でも毎日人と関わらなくていいのはいいなあと笑った。

端から端までぜんぶ尊敬できる人なんてたぶんいないんじゃないの、と私が適当なことを言うと、「そうかあ」と言って彼はちょっと下を向いた。

私も昔、神さまみたいに思ってた人がいたけど、よく考えたらその人は普通に人間だったけどなんだかんだ好きだよ、と早口で言った。彼は「あー分かる、神さま」と言ってもっと下を向いた。

 

電車を降りるとき、酔いから来る妙な連帯感に背中を押されるようにして、「仕事頑張ってね、私も頑張る」などとのたまった。彼は「うん、頑張る。お姉さんも頑張って」と言って、「またね」「iPhone直しなね」と肩を叩きあって別れた。

 

 

これを書くまで彼の言葉なんてすっかり忘れていたが、結果的に私はその翌週ビックカメラを訪れてiPhoneを直した。新しいiPhone8は電話中に急にスピーカーモードにならないし、カメラのフォーカスも完璧に合う。

ただ、これから先は15分だけ自分の話を誰かに聞いてほしい人が終電に乗っていても、たぶん私には話しかけてくれないんだろうなと思う。

 

 

創作のエネルギーとしての「不幸」や「病気」について

「傷つくことでしか創作できないやつには才能がない、ってボブ・ディランが言ってたよ」

大学2年の春、同じ専攻だったIちゃんが私に言った。

 

帰り道だった。脚本やキャッチコピーの授業を受けていた頃で、Iちゃんと私は、文章を書くときに何が強いモチベーションになるかという話をしていた。強い怒りとか悲しみみたいなものが原動力になる、というかそれしかならないやと私が言うと、Iちゃんは「それってどういうこと?」と聞いてきた。

殺意が湧くほどむかつくとか、どうしようもなく悲しいとか、そういう気持ちにまかせて文章を書いている、と私は話した。だから、人間関係うまくいかなくて気持ちがガタガタになったり、人に振り回されて傷ついたりしてるときがいちばん書けるんだよね。そう言うと、彼女は「しんどくない?」みたいなことを言った。

しんどいけどそういうときのほうが、書ける! と思ってテンションが上がること。なんならそういうモードに自分の心を固めておくために、自分から進んでしんどい状況を選んだりすること。青臭い、けど当時は真剣に思っていたことを素直に語ったら、Iちゃんがポンと言ったのが冒頭のひと言だった。

傷つくことでしか創作できないやつには才能がない。

その言葉を聞いて、反射的に笑った。笑うしかなかった。Iちゃんも私を傷つけようと思って言ったのではなく、キツめの冗談のつもりなのが口調でわかった。でも、当然ながらそれは図星で、あとからすごく落ち込んだ。

Iちゃんが後日「ごめん、あれボブディランじゃなかったかも。他の詩人かも」と律儀に訂正してくれたのも、出典わからないけど名言として残ってる言葉って逆に説得力あるじゃん、という感じで落ち込みを増長させた。

 

10代の頃、「傷つくこと」と引き換えにしか文章が書けなかった。当時の日記を読み返すと、毎日何かに触れては傷つき、ろくに見たこともない世間を仮想敵にしてキレまくっている。

やれバイトと部活が忙しすぎて寝る時間がないだの、近しいグループ内のいじめが幼稚に見えるだの、本気を出せばすぐに手を引けるような関係や状況に自分から首を突っ込むことで、悩みや不安を意図的につくりあげていた。
いちばんひどいのは、詳しくは書かないが恋愛の仕方だった。毎日どこかしら精神的に傷つけられるような恋愛は、創作意欲と恐ろしいほど相性がよかった。そういう恋愛にはまっていたとき、私は取り憑かれたように文章を書いた。

 
その癖は20歳を過ぎても治らなかった。社会人何年目かでさすがにおかしな恋愛はやめられた(結構かかった)が、定期的に来る「傷つけられた」気分は私をキーボードの前に向かわせた。
夜中にお酒を飲んだ勢いでガーッと書きあげる鬱屈とした文章は、不思議とたくさんの人に読まれた。そうでないときに書いた文章よりPVやリアクションが多いのは明らかだった。

 
自分は不幸な状態、病んでいる状態でないといい文章が書けないのだ、と思い込むようになるまで、そんなに時間はかからなかった。

失恋ショコラティエ』というドラマ化もした水城せとなさんの漫画を読んで、チョコ好きな元カノを振り向かせたいという怨念じみた熱量でショコラティエになってしまった主人公に泣くほど共感したし、アーヴィングの『村の誇り』という、結核は繊細な人だけがかかる神聖な病気だという19世紀初期の思い込みを具現化した小説を鵜呑みにし、結核にかかってみたいと考えたことすらある。

常に文章が書きたくなるような状況に身を置けるなら、それがどれくらいひどい環境でもいいのだという強迫観念じみたものがあった。
けれどそれは当然ながら日常生活とは噛み合わず、自分の心境を吐露するような文章を書いたあとは、疲れ果てて15時間くらい寝ないとやっていられない。15時間ぶっ続けで寝ると必ず金縛りにあった。

 

ある日、亡くなった雨宮まみさんのブログを読み返していたら、こんなエントリを見つけた。

短い、タイトルも特にない文章だ。けれど、一読してゾッとした。

つらいときには文章なんかいくらでも書ける。「刺さる」フレーズも書きやすい。自分が求めている言葉だからだ。 

 これはもうまさに、自分が毎日やっていることだったからだ。この文章を、

それを書けたとして、書けた先に「こんなのは間違ってる」と「こんなのはおかしい」と、言えるだろうかと思う。

という言葉で締める雨宮さんが好きだと思ったし、私も「こんなのは間違ってる」とそろそろ言わなくてはいけないことに、初めて気づいた。


さいきん自分が鬱っぽくなってきていることに思い至って、夜中に長文で「助けてくれ」みたいなことを書きたい気持ちをぐっとこらえ、『サブカル・スーパースター鬱伝』を読んだ。その中で、かつて不安神経症を患った菊地成孔氏がこんなことを語っていた。

病が深いほうが作品は作りだせるんでね。(※病を克服したことで)最初は創作性が失われたと思ってたんですよ。ところが活動を見ればおわかりのように、むしろ活発化してどんどん浮かんでくるのね。
ファン層もガラッと変わっちゃいましたからね。自分がストレートに病んでたときはファンもストレートに病んでる(笑)。治ってからはヘルシーさが僕にもファンにも共有的になってきて。

この文章をきょう読めて、よかったと思った。たぶん、病んでいないときや傷ついていないときでもいい作品をつくりだせるクリエイターは、彼の他にもたくさんいるだろう。
でも、「病みながらつくった作品」の生み出しやすさや気持ちよさを知っている人がこれを語ってくれるのは、いまの自分にとっては大きな希望だった。

もちろん、病んでいるときだって書く。病んでいるとき、不幸のどん底にいるときにしか書けないものは確実にあるし、叫びのような文章が、同じ気持ちになったことのある人をたしかに救うことも知っている。

 

けれど、そうでないときも、自分を奮い立たせながら書こうと思う。時間がかかっても、PV数15とかでも、書きたいことはたくさんある。毎日が平凡だから、いまが幸せだからといって文章が書けなくなるなんていうのは、怠惰な私の思い込みに過ぎなかった。

彼氏が私を口説いた店3選

ここ一年で印象的だったデートを振り返ろうとしたら飲み食いしたもののことばかり書きたくなってしまい、図らずも「酒呑みカップルにおすすめの店3選」的記事になってしまった。せっかくなのでそのままの(ニュアンスの)タイトルで公開します。

 

【赤羽】丸健水産

赤羽で昼から飲もうという話になり、ポカリスエットを2本抱えてバスに乗った。

待たせていた友人は駅近のバルでアヒージョかなにかをつまみに飲んでいて、会うなり「よーし馬鹿みたいに飲むぞ」と言った。私も飲むぞと言って、何店か回って実際に馬鹿みたいに飲み食いした。

 

途中入った居酒屋でレモンの乗ったからあげが出てきたとき、友人がちらりとこちらを見るなり「レモンが、ありますね」と言った。

カルテットだ、と笑いそうになったが、こちらもベロベロに酔っていたのでなにも答えずレモンをむしりとり、ダーッっとあらゆるからあげに絞った。

怒られるかと思った。が、友人は「あ~!」と笑っていた。

 

この何日か前の夜、カルテットの収録に出くわした。

仕事帰り、表参道で通行止めになっている道があって、聞けばカルテットの撮影だという(あとから振り返ると、6話のクドカン大森靖子ちゃんのシーンだった、たぶん)。

友人とトラックで囲まれた道の向こうをちらちら見ながら、早足で交差点を渡った。渡りながら、「すごいね」と話した。自分たちが夢中で毎日夜遅くまで感想を話し合ってるドラマの撮影に、目の前で会うとは思わなかった。

 

最後におでんを食べて帰ろう、と並んだのが「丸健水産」だった。

人気の立ち呑みおでん屋で、赤羽で飲むなら絶対に行きたいと思っていたところだ。酔いで冷えた体をさすりながら店の壁に目をやると「泥酔した人はお断り」という張り紙がしてあって、一瞬ヒッっと思った。

「私泥酔ではないよね」と確認すると、友人は「泥酔だよ。いますぐこの列から出ろ」と言った(出なかった)。

 

立ったまま大根をかじり、もち巾着をハフハフ言いながら食べる。

山芋のアレルギーがあるので、練り物は念のためと思って手を付けないでいたら、友人が「ほら、おもちと大根食べな」と自分のを私にくれた。

友人はスタミナ揚げやらつみれやら、練り物だらけになった自分のお皿を嬉しそうに見ていた。いいやつだな、と思った。

 

カップ酒を50cc残しておでんのだしで割ってもらう、というだし割り(アル中の発想だ)がここの名物で、50円払ってだしを入れてもらった。

「飲みものが好きなんだよな」としみじみとした顔で友人が言うので、そんなくくり方あるかよと思った。だし割りは、飲みすぎて舌が馬鹿になったんじゃないかと疑うくらいおいしくて、「今年いちばん幸せだわ」と口に出してしまった。実際、幸せだった。

 

後日、友人が赤羽育ちの職場の先輩にこの日の話をしたところ、「ド素人のコースだな」と一笑されたらしい。

 

 

【渋谷】GOOD MEALS SHOP

「きみと結婚したいと思ってるんだよね」と言われて言葉が出てこなかった。

静かなお店じゃなかったらたぶん爆笑していたが、客はほぼ私たちしかおらず、いい感じの音楽が低いボリュームで流れていたので、絶句するしかなかった。

 

そもそも付き合っていなかった。「ほぼ付き合ってる状態」とかでなく、完璧に付き合っていなかった。そう言うと、友人は「きみはたぶんこれからも誰かと付き合うし、もしかしたら僕もそうなったりするのかもしれないけど、ずっと結婚したいと思ってる」みたいなことを言った。

友人がマッチングアプリを入れていて、たまにマッチングした人と会っているのも聞いていた。でももうほんとつまんない、LINEしても実際にごはん食べに行ってもつまんないよ失礼だけど、と何度も言っていたので、なんだかんだ言って誰かしらと付き合うんだろうなとなんとなく思っていた。

 

クラフトジンを何杯か飲んだ。京都のドライジンの「季の美」がおいしくていい気分だった。友人はお酒にめっぽう強いが、珍しく彼も酔っていた。

カウンター席からは向かいのビルのベランダが見えた。友人と並んで窓の外を眺めていると、仕事の休憩で一服しにきた人が外に出てきて、ぼんやりと屋上のほうを見ながら煙草を吸っていたりした。その何人かとたまに目が合った。

 

帰り道、渋谷駅は工事をしていて騒々しかった。

ホームへの階段を下りていく友人を見送ろうとしたら、彼がくるっとこちらを向いてなにか言った。ズダダダダダダダという工事の音に消されて聞こえなかったので「なに!」と叫ぶと、「次会ったら手つないでいい!?」と叫び返された。中学生かよと笑った。

(※ぐるなび見つからなかったのですが、行ったのは渋谷店です)

 

【恵比寿】おじんじょ

夏、「おいしいレモンサワーが飲みたい」と口癖のように言っていたら、彼が店を見つけてくれた。人気店のようで、着く頃にはもう店の中はいっぱいだった。

こちらでお願いします、とテラス席に通される。テラス席、というか外の席で、椅子が地面と店の入り口の傾斜に跨っているのでガタガタした。入り口の暖簾に顔を撫でられながらもずく酢を食べた。扇風機の風が心地よかった。

 

店員が手早く運んでくる料理で狭いテーブルはすぐにいっぱいになった。ポテサラをひと口食べるなり、彼が「うわあ」と言う。「えっなにおいしい。ポテサラおいしい」。たしかにおいしかった。レモンサワーも何種類もあって、当然のようにおいしかった。

通りを眺めながらレモンサワーを飲んでいると、店員同士が呼びかけ合う声がたまに聞こえた。「ビップさんポテサラです」「ビップさん煮込みです」と言っている気がしたので気になっていたが、彼が「ここVIPさんって呼ばれてない?」と言うので確信した。

 

VIPか、と思って改めてテーブルをよく見ると、テーブルだと思っていたそれは小ぶりな冷蔵庫だった。冷蔵庫か、私たちVIP席なのに冷蔵庫の上で飲んでるのかと思った。翌日この店で撮った写真を見返したら全部笑っていた。

晩酌屋おじんじょ
〒150-0021 東京都渋谷区恵比寿西2-2-10 西牧ビル1F
4,000円(平均)

 

 

番外編

入籍する日にちを決めて、その日の夜はちょっといいとこでごはんを食べようという話になった。

「いいからその日は全部任せとけ」と大口を叩き、店を探した。サプライズで花束を贈ろうと思って、花屋さんも探し、レストランの人とも結構念入りに打ち合わせした。

 

決めていた日の前々日、私が高熱を出した。インフルエンザの検査が陰性だったときは安心して泣きそうになったが、もう何をどうやっても2日間で治すぞ、という気でいた。実際になんとか1日で熱は下がり、体調も徐々に回復してきた。

 

が、今度は前日、彼が高熱を出した。私の風邪をうつしたのかと思ったが、どうやらノロウイルスのようだった。翌日は朝から動くつもりだったので、予定の一部をキャンセルした。

 

当日になって、夜はお互いになんとか動ける状態だった。それぞれに水を1本ずつ持ち、ルルのど飴を舐めながら向かった。住宅地の中の一軒家レストランを選んでしまったので、恐ろしいほど遠かった。駅の階段で息を切らしながら「おなかすいてる?」と聞くと、「まったくすいてない」と言う。私もすいていなかった。

 

レストランは料理も店構えも本当にすばらしかったが、向かい合って座った彼の目がしだいに死んでゆくのが見てとれ、ああこれはとっとと婚姻届出して早く帰ろう、と思った。

デザートで花束を出してもらった。抱えきれないくらいの花束がいい、という私のリクエストのせいで、派手で、大きなやつだった。彼は「えええ」と言った。

写真を撮ってもらった。お互いに顔色も悪く、この日のためにと思って買ったPerfumeの衣装みたいなスカートは、アングル的に1ミリも写っていなかった。

 

花束と残りのワインを引きずるようにして市役所へ向かい、速やかに届けを出し、タクシーで帰った。

 

きょうの朝、起こされてベッドから顔を出すと、「ちょっとそこで待っててね、そこにいてね」と夫が言う。

部屋の外からなにやらガサガサ聞こえるのでまさかと思っていると、大量のバラの花束を持って入ってきた。「増えちゃったよ」と爆笑した。

きょう届くよう予約してくれていたのだと聞いて、じゃあきのうマジかよって思ったでしょと言うと、「マジかよって思った」。

 

大量の花束を抱えて夫に写真を撮ってもらった。バラに埋もれて横になっていると、棺桶の中みたいだと思った。

「家中の穴の空いた容器は使い果たした、もう花器がない」と母親に電話すると、「バケツとかゴミ箱洗って包装紙巻いて活けなさい」と言うのでその通りにした。

いま、家じゅうが冗談みたいに花だらけになっている。