湯葉日記

日記です

だめな季節

むかしから7月頭に向いてなくて、この時期がくると鬱っぽくなってしまう。見る夢のほとんどが悪夢だし、そのくせいちど寝ると10時間は起きない。


雨の音、というか雨があたる街の音を聞きながら眠っている。私の家の目の前は大通りで、朝方になると運送業者のトラックがたくさんやってくる。窓を閉めきっていても、トラックが濡れたアスファルトの上を走り抜けるシャーッという音が聞こえてくると、それで朝がきたことがわかる。クーラーをつける。


シーツを被ってうす暗い天井を見ている。晴れた日にはかならずカーテンの隙間から入ってくる透明のオーロラみたいな光が、雨の日には見えない。目をつぶる。長くて小さい音や短いけれど大きい音が代わる代わる聞こえて、そのたびにいま外を通っていったトラックの姿かたちを想像する。 


もういちど寝てしまおうとするけれど、壁の向こうからうっすらと聞こえる子どもの声で眠れない。隣の部屋の老夫婦は金曜日になると孫を呼びよせてマンションで遊ばせている。元気な子どもの声を聞いていると、この子もいつか梅雨がくるたびに鬱になる人間になるのではと考えてしまってくるしくなる。どうかならないでほしい。間違ってもフリーランスのライターなんか選ばないで。壁を叩かれた音で一瞬ビクッとする。

 

 


また天井を見ていたら、きのうの夢をとつぜん思い出す。夢のなかで私は怪我をしていて、二の腕にできたかさぶたを剥がそうとしていた。引っかいて半分くらい剥がしたら傷あとはもう薄い桃色になっていて、その表面に黒い点のようなものが並んでいるのが見える。

ほくろかな、とか思いながら虫眼鏡で見てみればそれは文字列で、しかも知っているひとの筆跡だった。ぎょっとして虫眼鏡が落ちて割れる。なんて書いてあったかも覚えているけれど、ほんとうになってしまったらこわすぎるからここには書かない。

 

 


雨。雨の音にいらだつ。窓に背を向けて寝返りをうつと、枕からきのうの夜つけた香水の匂いがする。森の奥の秘密の池に100年浮かんでいる蓮みたいな大好きな香りの香水なのだけど、調子のわるい日に嗅ぐと入水のイメージが頭から離れなくなってしまうので最悪。

雨は音も視界もにおいもまとめて世界の明瞭度を容赦なく引き上げるので、見て見ぬふりをしていたものごとの輪郭もだんだんくっきりとしてくる。ついてしまった嘘や執着、あらゆる種類のうしろめたさが私の内臓を冷やしてゆく。

 


つらさに体ぜんぶを掴まれてしまう前に、きのう行った新しい109のことを必死で思い出す。ピンク色の踊り場にかけられたハートの鏡、おジャ魔女どれみのコラボTシャツ、SPINNSでかかってた「どこまで行っても渋谷は日本の東京」、生田衣梨奈ちゃんのギャルコスプレ、葵プリちゃんのインスタ。

13歳でどきどきしながら歩いた渋谷はもうたぶんどこにもなくて、代わりに「GOOD VIBES ONLY」とか書かれたネオン看板が光る街に変わったけど、それはそれでわりと泣いちゃうほど美しかったこと。


そういうことにばかり意識を集中していると雨の音が聞こえなくなってきて、どうにか体を起こそうと思える。仕事の電話をかける必要があったことを思い出して、枕元に置いたチューハイを体をねじってひと口飲む。

 


夜になれば眠る口実ができるから、ほんとうははやく夜になってほしい。日が落ちてもしも眠くなかったら、109で買ったすいかの香りのグロスをつけて出かけようと思う。私の気分をどうこうできるのは私だけなので、グッドバイブスオンリーをかき集めて死にそうな7月を乗りきる。梅雨に負けない。

鳩と視線

強くなろうなんて人生で思ったことがない。けど、毎日は勝手に私のことを少しずつ強くしているみたいで、このごろは初めてのひとの前で文字を書いても手が震えたりしなくなった。

 

友だちもそうみたいだった。大学1年のとき、同じバンドのボーカルだった彼女はいつも豹柄のスキニーを履いていて、気丈で、こちらの軽いボケにツッコむときにだけ二人称が「おまえ」になった。私は彼女にそういうとき「おまえ」って呼ばれるのがわりと好きだったけど、男の子にそう言われるのは許せなかったから、なんでだろうとずっと考えていた。たぶん、彼女がそういうふうに私を呼ぶたびに、ちょっとだけ(いいんだよね?)みたいな目をするからだった。

こちらが爆笑すると彼女はほっとした顔をした。不安ならやめればいいのに、とも思ったけど、なんとなく、キーボードの子がいつも呼んでくれる「しほりん」と同じくらい、彼女の「おまえ」はうれしかった。

 

 

練馬には鳩が多くて、スタジオの帰りの電車を待つホームにも、やつらはよくクルッポクルッポと入ってきていた。

彼女は鳩をすごく怖がった。鳩が近くにくるたびにギャッと叫ぶので、私はホームの端まで歩いて何度もそれを追いやった。よく怖くないね、と言われたけど、私にはあんな小さくて呑気な鳥が怖い彼女のことが不思議だった。

 

電車のなかでは、決まってその日のスタジオで聴いた彼女の声を思い出していた。歌がすごくうまかったし、なにより、歌ってるときの彼女は無敵って感じの顔をしていて、それが大好きだった。

いちど、イントロでボーカルが絶叫する曲をコピーしたことがあるのだけど、歌い出す前は「叫び…?」「叫びに音程とかある?」とずっとオロオロしていた彼女が、曲が始まった途端にアンプが壊れるぐらいの音圧で叫んだのが忘れられない。20秒くらい絶叫は続いて、自分のギターの音が聴こえなくて笑っちゃったし、最高だからそのまま練馬区ごとぶっ壊してくれと本気で思った。

 

私が軽音部を辞めることになったとき、ほかのバンドメンバーや部長や慕っていた先輩の前では泣いたのに、彼女の前では泣けなかった。飲み会の席で隣りに座って、「ごめん」まで言った瞬間、彼女が先に泣き出したからだった。

泣き上戸の私が笑うしかなくなっちゃったくらい彼女は大声で泣いた。私はあなたがボーカルで幸せだったと伝えたらもっと泣いたので最後はずっと抱き合っていた。ほかの部員から見たらたぶん意味不明なテーブルだった。

 

部員はみんな優しいひとたちだったので彼女が孤立するようなことは絶対にないとわかっていたけど、もし、彼女が彼女なりに世界と対峙するために身につけていた豹柄や二人称やサディスティックなキャラが彼女そのものだと思われてしまったら、そして彼女自身がそれを自分だと思い込んでしまったらきっと辛いだろうなと思って、「これからも友だちでいてほしい」とだけしつこく伝えた。

 

 

それから8年経った。久しぶりに会った彼女は職場のひとに恋をしていた。

好きなひとの話をする彼女は可愛かった。0時あがりのシフトだからふざけてシンデレラと呼ばれているという話をしてくれて、「靴落としてったら探してくれますか? って聞いたら、新宿じゅう探すね、って言われた」とはにかみながら言う。

新宿じゅう探すね! 恋愛の最初期にしか飛び出ない語彙は、聞くだけで血管がカッと開く感じがする。私だって新宿じゅう探されたい。

 

彼女のこれまでの恋と比べても、なんかいまはすごく楽しそうだった。彼女がすこし前までよく会っていた、若干モラハラ感のするひととの縁が切れたっぽいのもほっとしたし、仕事も肌に合っているみたいだった。

あと私ね鳩怖くなくなったんだよね、と彼女は言った。いままでなんで怖かったのと聞くと、ちょっと考えたあとに「鳩より弱かったんだと思う…」と言う。

彼女はバンドのときとは違うフェミニンなロングヘアで、あのころよりずっとか弱そうだったし困ったみたいに眉を下げて笑う癖はそのままだったけど、生まれたてみたいにまぶしかった。

 

 

お茶をして、洋服を見てプリクラを撮った。

いまの彼女は自分に似合う服をよく知っていて、それは少しだけだけど私も同じだった。彼女はピンクベージュの、私は青緑っぽい、おそろいのワンピースを着てみたらどちらもよく似合った。「それで来た?」「それで来たでしょ」と言い合って試着室のカーテンを閉めたあと、鏡に映る自分を見てみたらほんとうにこれで来たみたいだった。

夏だからギャル服着たくない? という話になって、ギャル服ってどこ? セシルマクビーじゃない? というゼロ年代的感性でショッピングモールの端まで歩いた。

 

セシルマクビーINGNIみたいになってて、別にもうギャル服じゃなかった。きわどいオフショルとかミニのタイトスカートとか、私たちの思うあのころのギャル服はもうたぶん、東京のどこにもなかった。

代わりに入った靴屋で、彼女は淡い色のサンダルを買った。すごい、似合うよなんてわざわざ言わなくても彼女はそれを知っていたけど、それでも気が済まないから世界一似合うよと言った。

 

 

雨のなかを帰った。電車で彼女とのプリクラを見返すとうれしくなった。プリクラは平成が終わるときに冗談で撮り出したらほんとうに楽しくなってきて普通に趣味になってしまったのだけど、なにがそんなに楽しいのかいまでもよくわからない。ただ、撮ったのを忘れていた写真が急にポケットから出てきたりすると、カメラロールのなかからそれを見つけたときよりもずっとうれしい。

 

プリクラとスマホを握って改札までの道を歩いていると、すれ違うひとと目が合う。背筋を伸ばしてみるとニットの生地が背中にあたってくすぐったい。すれ違うひとにちょっと微笑まれた気がして、横に崎陽軒の赤い看板が見えて、ああ世界、美しいなと急に思う。呼吸を止めてしか浅草線までの改札を歩けなかった高校生の私に、もう駅怖くないよ、足震えないよと呼びかけてみる。

 

強くなることが鈍感になることと同じだと思い込んでいたころ、なにもかも怖くて嫌いなままで大人になりたいと本気で思っていた。 いろんなものが怖くなくなってきているのを自分に許せるようになったのは最近のことだ。恋バナとか試着とかプリクラとかひとの視線とか、もうそんなにびびらないし、好きだって思えるときもある。

動く歩道の上を歩きながら、自分のヒールの音がファの#なことに気づいて、 その音から始まる歌を思い出して、気持ちよくなる。

 

 

1-1-1

1-1-1なんて住所は馬鹿みたいで忘れようがなかった。魔法のカードみたいな装飾が全面にあしらわれた真っ黒の玄関扉を見たとき、やっぱりここだという気持ちが確信に変わった。
 
扉をふたつ隔てた向こうでなにか喋っている母が見える。父はその隣で吹き抜けに植えられたでかい木を見あげている。父はいちど病気をしてからずいぶん無口になった。
 
不動産業者が私を呼んでいる気配がした。けれど彼女の声は彼女の足元の絨毯にぜんぶ吸い込まれてしまって、うまくここまで届かない。
 
 
****
 
 
そのひとがラインで送ってくるのは決まってゴルフか寿司の写真だった。
まれにゴルフゴルフ寿司、や寿司寿司ゴルフ、の日もあるけれど、基本的には交互にゴルフ寿司ゴルフが3日置きくらいでやってくる。それに「いいな~」と返信するのが私の役目だった。
 
自称縄師ということ以外、彼がなにをしているひとかはまるで知らなかったし興味がなかった。Facebookでは誕生日に友人たちから「社長」と呼ばれていたのでたぶん社長だったのだろう。
 
フグの白子の写真の次に、とつぜん東京タワーが送られてきた夜がある。
「どこのゴルフ場?」と聞くと、そのひとは「いまからこない?」と言った。
 
 
 
 
エレベーターを降りたらパーティーだった。
テーブルの上には寿司とピザとフルーツといろんなひとの名刺がばらばらに並べられて、誰かが割れたワイングラスを踊りながら片付けていた。窓からは写真より赤い東京タワーが見えた。
 
パーティーの主催の女性は、私が大学で脚本の勉強をしていると言うと喜んだ。
わたし脚本家よ、という彼女の書いたドラマはたしかに私も知っていた。だから連れてきてくれたのかと謎社長に聞くと、彼は「あんた脚本家だったの?」と心底驚いた顔をしていた。
 
 
ひとに酔ってしまって2階のロフトから下を見ていた。
ビリヤード台の端でなにかを巻いて吸っているひとが見えて、あ、と思うと、
 
「見ちゃだめだよ」
と彼がうしろから私の目を覆った。
その手がゆっくりと口まで下りてきて、近づいてきた顔が耳元で「こういう店なんだよ」と言う。
 
ドラッグのことなのかその行為のことなのかはわからなかったけれど、なにも言わずに顔を手で追い払った。
彼はつまらなそうに電話でタクシーを呼んだ。
 
 
****
 
 
子どもの頃、2回追突事故に遭っている。
1度目は3歳だった。冬の高速道路の上で、雪用のタイヤに替えていなかった車が滑り、スピンした。
車は高速道路の端にぶつかって止まり、乗っていた母も友人も私も無事だったけれど、母はいまだに「あんたはあのとき強く頭を打ったからこうなった」と言う。
 
2度目はふつうの道路で、急発進した車にうしろから当たられたのだった。
ナンバーがゾロ目の黒塗りのベンツからサングラスをかけた母が降りていくと、相手はびびって車の前で土下座した。私はそのとき大人が土下座するのを初めて見たから、その光景がドラマみたいに思えてしまって変だった。
 
 
いちど、母に「どうしてああいう車乗るの。友だちにシホちゃん家ヤクザの親玉って噂されてるんだけど」と聞いたことがある。
母は「次に事故ったときに死ぬ確率が下がる」と笑ったあと、まっすぐに私を見て言った。
 
「できるだけ強そうにしてなさい」
 
 
****
 
 
タクシーのなかで、「脚本だけじゃ食ってけないからあんな店やってるんでしょ」と彼は言った。
夜の首都高から見える景色はキラキラで可愛い。
シートベルトをぎゅっと握って、彼が座っている右側だけ追突されればいいのに、と思う。
 
 
 
部屋に着くと彼はやべ、と言い、「ごめん東棟だ。もうひとつの部屋行ってくる」と靴を履いた。
 
「東棟?」
「そう。ここが西棟。いまから行くのが東棟」
 
ついてっていい? と聞くと、彼は酔った顔でうなずいた。
 
「なんで2個あんの?」
「東はコンビニが真下だけど、西は東京タワーがすごい綺麗に見えるから」
 
 
****

 

 
不動産業者が部屋のドアを開けると、父はうわっと一瞬嫌そうな声を出した。
なによ、と母が言うと、「やりすぎじゃない?」と半笑いになっている。
スーパーラグジュアリーなんとかタイプのお部屋です、と業者の女性が言った。
 
女性の説明にうなずく母を長い廊下の端から見ながら、「どう思う?」と父が言う。
 
「私が住むわけじゃないから」
「パパたちがここに住むってイメージできる?」
「でもさ癌センターも近いよ」
 
父はうーんと唸って、それから黙った。
カウンターキッチンに立った母が窓を見て、「あら素敵じゃない」ととつぜん大きな声を出した。
窓の外を見て、ここは西棟だ、と思った。
 
 
 
****

 

 
ドアを開けると、鏡の向こうみたいにすべてが正反対の配置の部屋があった。
すごい、と笑いながら一歩足を踏み出すと、私の足になにかが当たった。
それがミキハウスの小さな靴だと気づいたとき、一瞬で血の気が引いた。
 
静かにしててね、と彼が靴を脱ぐ。
足元に転がる赤い靴を揃えながら、いまが帰るときだと突然、けれどはっきり思った。
 
「私帰るよ」
「え? いまゴムとってくるよ」
「いいよ。帰るよ」
 
踵を返してドアを閉めると、彼がふらつきながら追いかけてくる。
 
「帰んの?」
「帰るよ」
「ほんとうに言ってんの?」
 
立ち止まって、ほんとうに言ってるよと言った。
 
「好きだよ」
「ありがとう。私は一生あなたのことは好きにならない」
 
早口で言ってからびっくりした。
本音というのはこんなに嘘みたいに聞こえるものなのだと、私はそのとき初めて気づいた。
彼はそっかあと笑って、「タクシーチケット持ってくるね」と西棟に向かった。
 
 
 
酔った彼が外から窓ガラスにキスをしてきていた。
なにも言わない運転手とミラー越しに目が合って、「早く出してください」と言う。
運転手がナビに打ち込んだ住所を見て、もう二度とくることのない自分の現在地を知った。1-1-1。
 
 
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母の運転する車に乗っている。
助手席で父は寝ていて、胸元に内見でもらった大量のパンフレットを抱えている。
 
母がちらりとこちらに目をやって、
「ねえ、あんたむかし高速の上でスピンしたの覚えてる?」
 
そんなむかしのこと覚えてるわけない、と私は言う。

もうどこかわからない駐輪場

真夏だけに着る黒いワンピースは熱を吸ってぎらぎらと光っていた。
足の裏が痛い。天ぷら、ステーキハウス、蟹料理の看板を立て続けに見送って、私たちはそれでも歩き続けていた。
 
梅田での仕事までの空き時間だった。
二日酔いの体を阪急電車のシートに預けていたらいつの間にか烏丸に存在していた私たちは、にぎやかな駅を抜け、大通りをふたつ越え、五条を目指していた。
いまどこにいるんでしょうねと言い合いながら、Google Mapを見ずに歩いた。
 
 
日差しが両腕を焼く。早く無敵になりたくて、通りの途中のローソンでアイスと発泡酒を買った。
食べるそばからアイスが溶けていくので手がベタベタになった。手を洗いたい、というか水に手を浸したら気持ちがいいだろうなと思って、「水にさわりたい」と急に言った。
 
「あーわかる、水にさわりて~」と言われてうれしくなる。
鳥になりたいとか一生恋人でいたいとかじゃない生理的な欲求への共感は嘘がない気がして、されると私はすぐにうれしくなってしまう。
 
 
「歩けば楽しい」と看板に書かれた細い通り道があって、楽しいほうがいいと思ってそこで曲がった。誰ともすれ違わないのをいいことに発泡酒をガンガン飲みながら歩く。
 
古いアパートの前で彼が唐突に立ち止まり、「ちょっと俺いっかい様子見てきていいすか?」と言った。
反射で爆笑してしまって酒がちょっとこぼれる。見てきて見てきて、と言いながら自分も入った。
 
 
すべての自転車が詰め放題の袋の野菜みたいに停められている駐輪場だった。
いちばん奥の自転車の上では蚊じゃない小さい虫が4,5匹、屋根の隙間から漏れた光に照らされてぐるぐると回っていた。
 
一歩進むと、自転車たちのうしろの地面に彼が座っていた。
少し手前に自分もしゃがみ込む。日陰に入ると、錆ときのうのビジネスホテルのシャンプーが混じった夏っぽい匂いがした。
 
 
すごくベタに高校のときの話をした。
彼は18のときに実家がなくなってしまったから、駐輪場にくると実家のことを思い出すという。
 
「俺たぶん高校のときにあなたがクラスにいてもなんの関心も持たなかった」と言われて笑ってしまった。
 仮にそうだったらなんか暗いやついるぞって思われてたんだろうな、いま仕事でこの人と会えてよかったなと思ったとき、
「だからいま仕事で会えてよかったですよね」と彼が言った。
 
「ほんとにね」と言いながらパトカーのサイレンが聞こえて、絶対自分たちなわけないのにちょっとびびる。発泡酒のプルタブをいじるのをやめて、しばらく通りのほうを見ていた。
 
 
駐輪場はさすがにすぐ出た。
いくつかの公園を抜け、寝具店の店先の鉢植えの写真を撮り、日差しに目をやるたびに好きなひとのことを思い出したりしながら、鴨川の裏の小さな流れにたどり着く。
 
木々の緑の下で川面がきらめいているのを見たとき、私はこの数秒をいつまで覚えていられるんだろうと思った。なんかわかんないけれど、駐輪場のことは忘れない確信があったから。
 
「生まれ変わったらこの川のきらめきになりたい」と彼が言った。
笑うところかちょっと迷ったけれど笑わなかった。

催眠術がとける日

自分は陽気だ陽気だと言い聞かせていたら最近、ほんとうに陽気みたいな感じになりつつある。
 
去年の夏に会ったのが最後の人と久しぶりに会うことになったとき、あの夏の自分がすごい笑う人だったのかそうじゃなかったのかがいまいち思い出せなくて、レバーを串から外して皿に並べたりしながら20分くらい様子見してしまった。
私たちの席にどこかからとつぜん爪楊枝が飛んできたとき、反射的に爆笑してしまって、そこからはしかたないので腹をくくって陽気の人になった。
その日から3週間くらい経ったのに、依然として陽気でいる。
 
 
 
むかし、たぶん小6のとき、深夜番組に出ていた芸人が「自分、ピーマン好きになる催眠術かかりっぱなしで生きてるんですよ」と言っていてエエッとなった。
その芸人はほんとうはピーマンを口に含むだけで泣いてしまうほどピーマンが苦手なのに、プロの催眠術師に催眠術をかけられたおかげで、それからずっとピーマン好きだと錯覚しているという。
 
聞いた瞬間、めっちゃ怖くて泣いた。催眠というものがそもそもかかりっぱなしで生きていけるものなのだと、できるなら知りたくなかった。
ピーマンだからまだ穏やかだけれど、それが仮に二足歩行ができる催眠術とかだったらどうなるんだろう。
 
何日か経った日の夜、夢のなかにピーマンの芸人が出てきた。
催眠術師にパチンと指をならされた次の瞬間、歩き方がわからなくなって顔から地面に倒れた彼を見て松っちゃんが笑っていた。
 
 
 
ここ数週間、コンビニのレジで「アッ……箸イラナッ…ス…」とか言ってないし、お酒がなくても人と喋れている。
えっ怖と思う。
たぶんまたすぐにどこかで無理スイッチが入って無理になると思うのだけど、仮にこれ、半年とか1年そうならないままだったらどうなるんだろう。
「乗り越えた人」みたいな顔してむかしのこととか喋るんだろうか。想像するとおぞましい。
 
 
いちど泳げるようになったらずっと泳げるとか、いちど働けたらずっと働けるとか、わりと嘘だと思う。
対岸にさえ着いてしまえばもうこちら岸に用はないみたいな顔してる人たち、みんな怖くないのかすごく不思議だ。
 
不意に大きめの「パチン」がきて、生というばかげた催眠術がとける日のことをずっと考えている。
ずっとその予行演習をしている。顔から倒れないように。

生活のためのメモその1

Evernoteでつけていた生活のためのメモがだいたい半年分溜まった。

生活のためのメモというのは、日々暮らすなかで「こうしたほうが生活がちょっとよくなる」と思ったことを覚えておいて、iPhoneでちまちま打っていたメモのことだ。

ずっと溜めていたら増えてきたので、せっかくなのでブログに載せておく。

 

 

買っておくといいもの 

 

どこでもベープ 120日用

春がきたら部屋で最初の蚊を見る前にamazonで買う

 

アイスの実

普段はそんなに好きじゃないと思うけど飲んで帰ってきたときに冷凍庫にあるとうれしい

 

・バナナ4、5本

あらゆるスムージーの底に入れる

 

・コンタクト

クーポンの日を待っていても消費リズムが合わないので待たずに買う

 

・冷凍ほうれん草

万能

 

・プレーンヨーグルト(加糖)

健康に留意している気になれる

 

 

覚えておくといいこと

 

・安いホットケーキミックスでホットケーキを焼いてもおいしくならない
 
・笑顔で謝ると相手によってはけっこう嫌な顔をされる
 
トイザらスのサイトでおもちゃのコスメを見るとたのしい(※)

トイザらスのサイトでおもちゃのコスメを見てから本物でメイクするとときめく
 
・知らない人たちが自撮りしようとしているのを近くで見ていると「撮ってくれますか」となってしまうのでじっと見ない

・フォントで迷ってもとりあえず書き出したほうがいい
 
・灯油のトラックの音楽が悲しいので近所に来たらイヤホンをする
 
・涙は塩水なので泣いた跡をそのままにしておくと肌が荒れる
 
・まぶたが痙攣するときは我慢しないで寝たほうがあとあといい
 
・ゲームで使う名前をしほりんに設定しているとオンライン対戦で恥ずかしい
 
・この人のこういうとこ好きだなと思ったら急でもその場で言ったほうがいい
 
・ルンバが動いているときソファに私が座ってしまうとソファのたわみで通れなくなったルンバが尻の下で死ぬ
 
・剥くのが面倒な柑橘(※)は食べないので買わない
(※……はっさく、伊予柑夏みかん
 
・これ言ったら失礼かなと迷ったら言わない
 
・ちょっと面倒でも折り畳み傘を持っていくとあとあといい
 
・弱っているときにアイドルソングを聴かない
 
・リアル脱出ゲームはちょっと高いかなと思うけど行くとすごいたのしい
 
・実家に帰るときはコンタクトいらないかなと思っても念のため持っておくと泊まれる
 
あずきちゃんの話は通じないのでしない
 
・呼び込みくんの話は通じないのでしない
 
・話しているとき相手の後ろを見ると理由がなくても相手は気になるのでしない
 
・電車で苦しくなったら真上か真下を向くと周りから人がやや減る
 
・一度見ると通知が消えるSNS(※)のメッセージは見たら返す

(※DM、Messenger)

 
・花見とカラオケは率先して楽しんだほうがあとあといい

・ソファで寝ていたら元号が発表されていたので次の改元のときは起きておく
 
 
 
 
また増えたら書く。

知らない人とパフェを食べた日

赤の他人とロイヤルホストでパフェを食べたことがある。

 

ログインすることがめっきり減ったミクシィを久しぶりに開いたその日、受信箱に知らない人からメッセージが届いていた。

突然ごめんなさい、驚かないでくださいという短い前置きのあと、メッセージはこう続いた。

 

心の準備はいいでしょうか? つまり、見ず知らずの俺たちですが、一緒に芝居を観に行きませんか?というお誘いなのです。

 

送り主はハルヤというハンドルネームの男性で、35歳だといった。知り合いの俳優から彼が出演する芝居のチケットを2枚譲り受けたが、公演はわずか2日後で誘えそうな友人がいない。試しにミクシィで芝居好きな人を探してみたところ、私を見つけたのでこのメッセージを送っている、という。

文章の最後に、『凄い金魚』という芝居のタイトルと、劇場の場所、開演時間が添えられていた。

 

一読して怪しいメッセージだと思ったが、その唐突さと、「はっきり言って芝居がおもしろいかはわかりません。つまらないかもしれません」という言葉の率直さが妙に気になり、いいですよ行きましょうと返事を書いた。

「近年まれに見る奇跡っていう感じです」という返信がすぐに来て、私たちは土曜日にその芝居を観に行くことになった。

 

 

待ち合わせにやってきたハルヤことスダさんは、想像していたより童顔で小柄だった。20代に見えますね、と私が言うと、シホさんも20代に見えるよと彼が言った。

 

とはいえ、スダさんと並んで歩くと私は明らかに子どもだった。もし知人に会ったら、シホさんのことは芝居好きな親類だと紹介させてほしい、というようなことを劇場の階段を上がりながら言われて、それを快諾した。

関係者受付の前を通るときはちょっとソワソワしたが、特に誰にも何も言われないまま私たちは席についた。

 

芝居の内容は正直あまり覚えていない。当時の日記を見返しても、その日の話はどこにも残っていない。

誰かの葬式を舞台にした一幕ものだったような気がするけれど、出演者全員が黒い服を着ていたからそんな風に覚えているだけなのかもしれない。

ただ、記憶が間違っていなければ、「人間が人工的に作りあげた哀れな観賞魚」と金魚のことを呼ぶシーンがあった。ちょうど金魚を使ったインスタレーションなんかが流行っていた時期だったので、その台詞だけが後々まで印象に残った。

 

終演後、出演者に見送られながら劇場をあとにするとき、スダさんが気まずそうに「演劇部に入っているいとこで……」と私のことを説明しているのが聞こえた。なんだか申し訳なくなって物販で脚本を1部買い、勉強になりました、と毒にも薬にもならない感想を伝えた。

 

 

いちど自己紹介しようか。駅の近くのロイヤルホストで、向かい合ったスダさんは真面目な顔でそう言った。

「いとこのシホです」

「演劇部の?」

うなずくと、それきりもう彼はなにも詮索してこなかった。演劇部のシホさんはなに食べる? と聞かれて、チョコレートパフェを注文した。

 

広告制作会社で働いているとスダさんは言った。コマーシャルとか作ってるんですかと尋ねると、コマーシャルの10倍地味な仕事想像してみて、実際はその想像の10倍地味だからと言う。

私が頼んだパフェが運ばれてくると、よくそんなでかいの食えるねと笑われた。その顔が若干、昔憧れていた俳優に似ていることに気づいてからは目が見られなくなった。

会話は少なく、スダさんはコーヒーを飲みながらずっとドリンクバーの方向を見ていた。意味不明な夜だと思った。

 

どうして私にメッセージくれたんですか。帰り際、たまらなくなって尋ねると、「演劇と、あとスガシカオが好きだってプロフィールに書いてたから」とスダさんは言った。

スガシカオ

スガシカオ好きなんですかと聞くと、「斜陽」が特に好きだよと言って、その曲を何フレーズか口ずさんでくれた。

ああ、いいですよね斜陽。いいよね、それに「19歳」も好き。

 

その言葉を聞いて少し迷って、私もうすぐ19歳なんです、と白状した。

スダさんはさして興味もなさそうに、「そうなんだ、本当はもう少し下かと思った」と言ってちょっと笑った。

 

 

日付が変わる前に家に帰った。親はもう寝ていたが、劇場でもらったチラシは念のためゴミ箱に捨てた。

スダさんとはそれから一度も会っていないけれど、ロイヤルホストの前を通ることがあると、ごくまれにあの日のことを思い出す。