湯葉日記

日記です

マジックミラー

新居の部屋のクローゼットの扉はセンターラインを引いたみたいに天井から床までが鏡張りになっていて、朝、その前で胡座をかいてメイクをしていたら、むかしマジックミラーのある店でバイトをしたことがあるのを思い出した。

2回ある。

 

 

1度目は大学4年生だった。就活もしていなかったし院に進学する予定もなく、卒業制作の文章を書く以外は酒を飲むくらいしかすることがなかった時期で、フラフラと飲み歩いては知り合いをつくり、その知り合いに教えてもらった店でまた飲み、ラムの種類だとかカクテルの名前の由来だとか、生意気でおよそ役に立たないことばかり夜な夜な覚えていった。

 

飲み屋に向かって繁華街の小道を歩いていたら声をかけられた。「お姉さんお願い、座ってジュース飲みながら漫画読んでるだけでいいから」。

 

新宿や渋谷を歩いているとたまにかけられる台詞だったので、無視して歩き続けた。それでもキャッチの男は歩幅を合わせてついてくる。「お願い、お願いします、ホントお願いします、お菓子も食べていいから」。

その様子があまりに切実だったので、思わず立ち止まった。その夜は別に酒なんか飲みたくなかったし、卒業制作にも行き詰まっていたし、なにより私は暇だった。キャッチの男はホッとした表情で、人気のないところに私を呼び、店の説明をした。

 

 

台湾マッサージのチラシがベタベタと貼られた狭いエレベーターを上がりながら、男が小声で「誰にもついてかなくていいんで、呼ばれたらたまーに出てっておしゃべりして」と言う。別の階で下りていった大学生くらいの男の子が、ドアが閉まる前、軽蔑するようにじろりとこちらを見たのを覚えている。

 

店は出会い喫茶だった。男性客が座るフロアの向かい側、5メートルほど先に女性客用のフロアがあって、女性客が座るほうだけ、壁がマジックミラーになっていた。

男性客が女性客を見て指名し、女性客がOKを出せば、小さなトークルームに通される。そこで外出OKかどうかを男女で話し合い、双方が合意すれば、店の外に出てデートをすることができる。だいたいそんなシステムだった。

 

男性客は利用するのに結構な金額がかかるのに対し、女性客の利用は無料だった。もしかしたら「登録料」みたいなものがあったのかもしれないが、私はサクラだったのでそのあたりはよく分からない。女性客がゼロだと男性客から料金をとれないしくみになっているらしく、店としては形だけでも女性に座っていてもらわなければいけなかった。だからサクラが必要だった。

 

マジックミラーの向こう側で漫画喫茶のような薄いジュースを飲み、カールを食べていると、時折店員から男性客が記入した紙を手渡された。「楽しくお喋りしましょう!」みたいなふつうのメッセージのこともあれば、稀に「この銀河系で君に逢えた奇跡  君の瞳に乾杯……」みたいなこともあった。

私はトークルームへの移動を拒み続け、1時間半ほどで店を出た。帰り際、キャッチの男に何度も礼を言われ、「よければまた」と言われた。

 

別の日、また同じ道でキャッチの男に会い、「30分だけ」と言うので30分行った。

 

そんな風にして、常連の飲み屋に行くまでの30分とか1時間をそこで潰すようになった。キャッチの男はいつでもいて、サザエさんのノリスケに似ているから仲間からはそう呼ばれているのだと名乗った。全然似ていなかったが、毎回律儀にエレベーターの下まで送ってくれて、わりにいい人だった。

3回目に店に行った帰り、ノリスケがバイトを提案してきた。好きなときに店に来てくれていい、その代わり時々はトークルームにも移動してほしい、いた時間の分だけ報酬を出す、という条件だった。

提示された金額は低かったが、高すぎないことにむしろ安心もした。私はノリスケに分かったと言い、それから週に1、2回くらいはその店に行った。

 

しばらくして、店は一部の熱心な男性の常連客と、援助交際の相手を探す女性客で成り立っているということに気づいた。トークルームに移動すると、開口一番「2万?」と指を2本立ててくる男性客もいた。「ふつうにおしゃべりしに来ただけなんで」と言うと不思議な顔をされた。

 

女性客がひとりもいないとき、こちら側のフロアは静かだった。店内の有線が途切れると、自分がジュースを啜る音と、男性客が鉛筆を走らせるカツカツという音だけが響いた。

マジックミラーの内側にいると、こちらからは見えないはずの視線を確かに感じることがあった。映画で見るような、獲物に赤いレーザーポインターが当てられるシーンのことを思い出し、あ、私いま値踏みされてる、と思った。

その時間が過ぎると、誘われたトークルームのカーテンの中で2本とか3本の指が立てられ、それを笑いながら振り払う。

何人かの男性客と会話をして店を出ると、いつも恐ろしく肩が凝っていた。

 

 

 

2度目はその翌年だった。

就活をしなかったツケはすぐに回ってきて、私は短期間のイベントバイトでどうにか食い繋いでいた。

ある日、バイトの求人サイトを見ていたら、時給3000円を謳うガールズバーを見つけた。嘘だろ、と思ったら嘘だった。面接に行き、システムを聞いてみたらキャバクラだった。「体験入店だけしていきますか?」と聞かれ、もういいやそれでもという気になってハイと言った。

ラミネート加工された200の名前シートの中から本名に近い源氏名と、できるだけ露出の少ない衣装を選び(とはいえバニーガールだった)、店のある地下への階段を下りた。

 

客席はオーセンティックなバーのような長いカウンターと小さな個室いくつかでできていて、カウンターの正面は大きな鏡になっていた。その裏にある待機室に回ると、そこも鏡だった。しばらくすると女の子たちが出勤してきて、私は「体入のしいちゃん」と紹介された。れいかさんだったかるいさんだったか、ラ行から始まる名前の女の子ふたりがよろしくねと言った。

ふたりと共に待機室に入ると、れいかさんは鏡に顔を近づけてメイクを始め、系列店にヘルプで入ったら最悪だった、という話をした。「しいちゃんもマジで○○店は行っちゃだめだからね」と言いながら、彼女は手についたマスカラを壁にかかっていた誰かの衣装で拭いた。

 

酔った客と話すことは苦痛だったが、それ以上に、接客のターンが1回終わるたび、店長に「次はもうちょっと体くっつけてみて」とか「モエ飲みたいですって言ってあげて」と言われることが嫌だった。

私は「もっと飲みたい」とか「ボトル入れて」とか、果物が目の前にあっても「あーん」とか言えなかった。客の手に手も重ねられなかった。

体験入店とは言え浮いているのは明らかで、ビールを注ぎにキッチンに行くたび、ボーイが不安げな顔で「大丈夫?」と聞いてきた。「ほんとにだめだったらこっち見てね、助けに行くから」と言う彼は優しかった。

 

妙に意地になって、それから何度か出勤した。

何人かの内気そうな客には気に入られたが、多くの客との会話は噛み合わなかった。ある客は「大学時代に通ってたスクールカウンセラーの先生と話し方が同じ」と言った。黙ってチェンジを指示されたこともある。

 

売上の高い女の子のひとりは、薬剤師だった。上京して職場に近い三軒茶屋でひとり暮らしを始めたが、薄給に奨学金の返済が重なり、どうにも首が回らなくなってここで働いている、と教えてくれた。

待機室の鏡を見ながら、体育座りでよく話した。店はガールズバーを名乗り始める前は風俗店だったらしく、その頃は客側の鏡がマジックミラーになってたんだよと教えてくれたのも彼女だった。彼女が前の店にも長くいたのかどうかは聞かなかった。

「こんなとこずっといちゃだめなんだけど」と彼女が言っていたのをいまでもたまに思い出す。名前も知らない彼女の目は寝不足で濁っていた。

 こんなとこずっといちゃだめなんだけど。

 

 

私が店を辞めた翌日、丸の内線に乗っていたら、前日に店で接客した男性が向かいのシートに座っていた。作り話みたいだけれど本当の話だ。

彼は同僚らしき人と仕事の話をしていた。 左手には、前日にはなかった指輪があった。

電車を降りるとき、「5年彼女いないって言ってたじゃん」と声をかけようかと一瞬だけ思ったが、当然そんなことはしない。最後まで目は合わなかった。

 

 

あれから何年か経った。

出会い喫茶の煙草臭いエレベーターや、ガールズバーの天井の冗談みたいなミラーボールのことは、もう忘れかけている。待機室の女の子たちが黒人のあれは本当にでかいとかどこのホストがいいとか話していたことは、不思議と忘れられない。

 

最近、新居の部屋の奥にベッドを置いたら、朝最初に見るのがクローゼットの扉の鏡に映る寝起きの自分になってしまった。

鏡越しの素顔の自分を見ていると変な気持ちになる。衝立かなにかで鏡を隠してしまおうか、この頃は迷っている。