湯葉日記

日記です

亀のいる家

実家の匂いというものに初めて気づいた。1ヶ月ぶりに帰ったら、小学校のときに友達の家の玄関で感じたようなビミョーな違和感があって、靴を脱ぎ終えて初めて「あ、これがこのうちの匂いだったのか」と気づいた。手を洗ったり夫と話したりしていたら違和感は少しずつ小さくなっていって、やがて消えた。一瞬の出来事だった。どの家にもその住宅特有の匂いがあるということに気づくのは、他人の家に招かれたときだけだと思っていた。

 

実家の庭、とはっきり言いきっていいのか分からない、しいて言うなら庭、的なスペース(子どもの頃、揺らすと音楽が鳴る小さいブランコが置いてあった)を通って玄関のドアを開けるまでの10秒あまりのあいだに、物置き、牛乳の配達箱、名前を知らない花の鉢植えが一直線に目の端を通り過ぎ、ひとつひとつに対して律儀に「ああそうだった、そうだった、そうだった」と思った。

目の前のドアを開けたらとどめを刺されるという予感がしていたが、開けるしかなかった。

果たしてその向こうには私が完璧に知っているレイアウトの玄関があって、私の鼻はどこかよその家の匂いを感じとっていた。リビングから出てきた母に「なんかお香焚いてる?」と聞こうかすごく迷って、聞かなかった。

 

 

2階に上がると亀は私の部屋で寝ていた。

亀のことは引っ越しが決まった春から何度も新居に連れていこうとしているのに、父が毎回それらしい理由(ヒーターがいらない季節になってからのほうがいい、雨の日じゃないほうがいい、きょうは調子悪そうだから元気なときのほうがいい)をつけて渋るので仕方なく実家に置いていた。

私が水槽に近づくと、亀はビクッとして首を引っ込めた。ただいま、とか元気か、とか言ってしばらく私が水槽の前でじっとしていても、亀はこちらをまっすぐに見て黙っていた。

父が部屋に入ってきて「水汚いだろ」と言った。こいつ飼い主のことを忘れてやがる、と私が言うと、父は本気なのか冗談なのか分からない深刻なトーンで「そう……」と噛みしめるように言った。

体の水を拭いて亀をフローリングの上に乗せると、少しだけキョトンとしてから歩き出す。フローリングには3ヶ月前にはなかったシミがついていた。

夫が2階に上がってきて「あ、のろ」と言った。私も思い出したように「のろ」と名前を呼んだ。

のろはどちらの声も無視してベッドの下の暗がりに歩いていった。

 

 

1階の台所に降りていって亀の話をしても、母は興味のない素振りだった。アイスコーヒー用のガムシロップとミルクを探していたので、それらが入った小さいポットを棚から出して盆に載せた。

あーありがとう持ってって、と母に言われて盆を持ち上げたが、考えてみれば父、母、夫、私の誰もふだんコーヒーにガムシロップは入れない。「──ちゃんはこれいらないと思う」と私が夫の名前を言うと、それでも一応置いときなさいと母は言った。

大雨に関するニュースを4人で見ているあいだ、リビングのテーブルの上には「一応」のガムシロップとミルクがずっと置かれていた。いつ棚にしまうか考えた挙げ句、私きょうはガムシロ入れよっかななどと言って自分で使った。

知らなかったけれどガムシロ入りのコーヒーはまずい。

 

 

たぶん、1ヶ月という微妙な期間がよくなかったのだと思った。1週間ぶりとかなら普通に「おう、ただいま」ってなるし、半年とか1年ぶりならそれはそれで腹を決めて、知らぬ間に模様替えされた部屋だとか帰省らしい顔をする自分だとかに淋しくなったりすればいいのだ。1ヶ月はものすごく中途半端だった。最悪だった。

 

 

むかし、母と世間話をしていたとき、「練馬のおばさんが」と言われて「練馬のおばさんってなんで練馬に住んでるだけで練馬のおばさんって呼ばれてるの、かわいそう」と言ったことがあった。「おばあちゃんの2番目の妹さんが、とか4番目の妹さんが、とかいちいち言うほうがおかしいでしょう」と母に言われて確かにそうだとも思ったが、だからって練馬の家がとか蒲田の家がとか言うのはなんか変な感じがしたのだった。

 

きょう、夫と住む家に帰ってきてから用事を思い出して実家に電話をかけた。母と話しながら「家に、あ、ええとうちじゃなくてそっちの、──の家に」と自然と口に出たのは実家のある街の名前だった。

ああ確かにこの言い方は便利だ、と思った。電話を切ってからワンワン泣いた。