湯葉日記

日記です

もうどこかわからない駐輪場

真夏だけに着る黒いワンピースは熱を吸ってぎらぎらと光っていた。
足の裏が痛い。天ぷら、ステーキハウス、蟹料理の看板を立て続けに見送って、私たちはそれでも歩き続けていた。
 
梅田での仕事までの空き時間だった。
二日酔いの体を阪急電車のシートに預けていたらいつの間にか烏丸に存在していた私たちは、にぎやかな駅を抜け、大通りをふたつ越え、五条を目指していた。
いまどこにいるんでしょうねと言い合いながら、Google Mapを見ずに歩いた。
 
 
日差しが両腕を焼く。早く無敵になりたくて、通りの途中のローソンでアイスと発泡酒を買った。
食べるそばからアイスが溶けていくので手がベタベタになった。手を洗いたい、というか水に手を浸したら気持ちがいいだろうなと思って、「水にさわりたい」と急に言った。
 
「あーわかる、水にさわりて~」と言われてうれしくなる。
鳥になりたいとか一生恋人でいたいとかじゃない生理的な欲求への共感は嘘がない気がして、されると私はすぐにうれしくなってしまう。
 
 
「歩けば楽しい」と看板に書かれた細い通り道があって、楽しいほうがいいと思ってそこで曲がった。誰ともすれ違わないのをいいことに発泡酒をガンガン飲みながら歩く。
 
古いアパートの前で彼が唐突に立ち止まり、「ちょっと俺いっかい様子見てきていいすか?」と言った。
反射で爆笑してしまって酒がちょっとこぼれる。見てきて見てきて、と言いながら自分も入った。
 
 
すべての自転車が詰め放題の袋の野菜みたいに停められている駐輪場だった。
いちばん奥の自転車の上では蚊じゃない小さい虫が4,5匹、屋根の隙間から漏れた光に照らされてぐるぐると回っていた。
 
一歩進むと、自転車たちのうしろの地面に彼が座っていた。
少し手前に自分もしゃがみ込む。日陰に入ると、錆ときのうのビジネスホテルのシャンプーが混じった夏っぽい匂いがした。
 
 
すごくベタに高校のときの話をした。
彼は18のときに実家がなくなってしまったから、駐輪場にくると実家のことを思い出すという。
 
「俺たぶん高校のときにあなたがクラスにいてもなんの関心も持たなかった」と言われて笑ってしまった。
 仮にそうだったらなんか暗いやついるぞって思われてたんだろうな、いま仕事でこの人と会えてよかったなと思ったとき、
「だからいま仕事で会えてよかったですよね」と彼が言った。
 
「ほんとにね」と言いながらパトカーのサイレンが聞こえて、絶対自分たちなわけないのにちょっとびびる。発泡酒のプルタブをいじるのをやめて、しばらく通りのほうを見ていた。
 
 
駐輪場はさすがにすぐ出た。
いくつかの公園を抜け、寝具店の店先の鉢植えの写真を撮り、日差しに目をやるたびに好きなひとのことを思い出したりしながら、鴨川の裏の小さな流れにたどり着く。
 
木々の緑の下で川面がきらめいているのを見たとき、私はこの数秒をいつまで覚えていられるんだろうと思った。なんかわかんないけれど、駐輪場のことは忘れない確信があったから。
 
「生まれ変わったらこの川のきらめきになりたい」と彼が言った。
笑うところかちょっと迷ったけれど笑わなかった。