湯葉日記

日記です

魔女について私が知っていること

覚えている限り人生最初の記憶はフィリピンパブのオーナーにブチ切れている母の姿で、バケツを持った彼女がそのなかの水をスーツ姿のオーナーに勢いよく浴びせかける様子を、私は2階の窓から見下ろしていた。まだ元気だった祖母が窓から母に向かってなにごとかを叫び、慌てて路地に走っていったのも記憶している。夏だった。
 
大人になってから、あれは地域のゴミ出しのルールを再三注意しても守らなかったオーナーとの口論の末の出来事だったというのを聞き、それにしたって水をかけることはないじゃないかと思った。私は真夜中に隣のパブから聴こえてくるカラオケの片言のいとしのエリーなんかが切なくてけっこう好きだったのだけど、その一件があったせいか、私が幼稚園を卒業するころにはお店がすっかり静かになってしまっていたのもちょっと淋しかった。フィリピンパブはそれからほどなくして潰れた。
 
 
 
母は苛烈としか言いようのない人間だった。だった、というかバリバリ健在なのでいまでもそうなのだけれど、私が思い出す主要な記憶のなかの母はキレているか魔女のような高笑いをしているかのどちらかだ。
 
魔女。といえば、母は私が小学校に上がるころまで、自分は魔女だと言い張っていた。
 
彼女は地球儀のなかには小さいサイズの人間が1億人住んでいるとか、コンクリートミキサー車のタンク部分ではラーメンが茹でられているとか、そういった必然性のまったくない嘘で私のことを困らせるのが好きだったし、私が幼かった時分にはちょうどモード系のファッションにはまっていて(母は時代によって没頭するファッションがコロコロ変わるひとだ)、ようやく伸びてきた3歳の私の髪の毛をマッシュボブにして黒しか着せてくれなかった。
 
からしたら母娘で黒服を着て東京を歩くのはクールだったかもしれないが、私は公園でなんども知らないひとに「坊っちゃん」と呼びかけられて心に深い傷を負ったし、シホちゃんのママ芸能人みたいね、と幼稚園の友だちのお母さんに言われるのは、誇らしい反面なんだかむず痒くもあった。
 
 
 
自意識が芽生えるのが比較的早かったから、幼稚園の卒園式で真っ黒の着物に赤い口紅をさして参列する母を自分の席からびくびくと見ていたころには、もうはっきりと「恥ずかしい」という感覚があった。母は私とはまるで似ていない端正な顔の持ち主だけれど、大きな口にほんのりと微笑みを湛えて私のほうを見る姿は美しいというより凄みを感じさせて怖かったし、学年が上がるにつれて語彙を身につけた同級生たちが母のことを呼ぶあだ名は「バブル」「元ヤン」「極道」などと徐々に過激になっていった。
 
私は私でそういういじられ方を楽しんでしまうロクでもなさがあり、フィリピンパブのオーナーとの一件などを中学の部活の先輩に話したときは、手を叩いて笑ってくれてうれしかったのを覚えている。
 
 
母は怒ると私に手をあげるひとだったけれど、その話はあまりひとにしたことがない。いちど、バイオリン教室の時間に家に帰らなかった私を母がバイオリンで殴ってきて弦がほとんど切れてしまったという話を仲のいい同級生にしたら、笑ってもらえると思ったのに、「えー……」と言ったきり相手が黙ってしまったので弱った。毒親、という言葉はまだない時代だったが、彼女が私に遠慮がちに伝えてきたのはおおよそそういう感じのことだった。高校卒業したらシホちゃん早くひとり暮らししたほうがいいと思う、と彼女は言った。
 
私はといえば、その当時こそ彼女の言葉をきっかけにしていろいろ思い悩んだりしたけれど(その日の日記は5ページ分くらい殴り書きされている)、いまとなってはまあそれでも母は母だよなと思う。母を全肯定しているといえば嘘になるし、強く憎んでいるといえばそれもまた違うのだが、半日買い物に付き合ったり台所に並んで料理をしたりするのは楽しいけど、夜遅くまで起きていて仕事の具合なんかをしつこく聞かれ馬鹿にされるのはちょっと勘弁してほしい、くらいのグラデーションでいる。
 
赤ん坊だったころ、小児喘息の治らなかった私に母が高知県の病院を探してきていっしょに入院してくれたり、その長期入院のおかげで友だちがまるでできなかった娘を不憫に思い『コジコジ』と『ちびまる子ちゃん』を全巻買い与えてくれたり、すべての病気が治るというなんらかのヤバげな水に手を出しかけて父と言い争いをした、などという話もひとから散々聞いているので、いや、だからというわけではないのだけど、母と縁を切るというようなことはちょっとありえない。そのあたりのきもちは自分でもうまく言えなくて、この話をするとなぜか決まって泣いてしまうのでこんなブログにコソコソ書いたりしている。
 
 
 
私は素直な子どもだったから、母が魔女だという嘘を小6くらいまで信じていた。
いちど、学校から帰ってきた私がクローゼットのなかにいる母にママ、と呼びかけたとき、彼女がふざけてそこから出てきてくれなかったことがある。クローゼットのなかからはたしかに母の声がしていて、あらおかえり、とはっきりと言われたのだけれど、着替えてるからちょっと待ちなさい、と言ったきり、声が途絶えた。
 
ママなにしてんの、としびれを切らした私がクローゼットの扉を開けると、そこに母の姿はなかった。呆気にとられて声も出せずにその場に立ち尽くしていると、私のうしろで母が「ここよ」と言った。そのときなにが起こったのか、母がいったいどんなトリックを使ったのか、あるいは使っていないのか、私にはいまだにわからない。
 
 
 
すこし前、終電を逃した赤羽の場末のバーで酒を飲んでいたとき、隣の席に座った年齢不詳の女性が私占いできるのよ、と言った。
 
彼女は初対面の相手の人相を見て、そのひとの本質をひと言で言い当てることができる、というようなことを呂律の回らない舌で喋った。誰もそれを本気にしているひとはいなかった(ように思う)が、その場はにわかに盛り上がって、俺も、じゃあ俺も、とみな彼女に占いをしてもらった。
 
姑息な成金、エロ河童、などと適当きわまりない占いの言葉が飛び交い、場が大笑いに包まれたころ、彼女が私を指さして言った。「あんたはやさしい魔女」。
 
やさしい魔女? 飲み屋のひとたちはどこかポカンとし、誰かが無責任に「あー」と言った。
あーじゃねえよと思ったけれど、やさしい魔女ならあまり怖くなさそうだし、うまく言えないが、ちょっとうれしい。