残り全部バケーション
ウソみたいな本当の話をする。
私の父は7人きょうだいの下から2番目で、彼の実家はちいさな神社だった。らしい。
らしい、というのは私が神社だった実家を見たことがないからで、それはなぜかと言うと、気の強いいちばん上のお姉さんが若いときにぶっ壊してしまったからだ。
姉はハタチくらいのころ親(つまり私のおじいちゃん)と大喧嘩して、お供え物をおじいちゃんに向かって投げだしたらもう後に引けなくなったらしく、「なにが神よ!」みたいなテンションで鳥居からお稲荷さんまで、神社的なものすべてをこなごなにしてしまったらしい。
……すごいよね。だいたい鳥居って何で壊すんだろう? 業者でも呼んだんだろうか。
それから何十年か経って、いちばん上のお兄さんが病気で亡くなった。次の年に、そのひとつ下のお姉さん(つまりは神社をこなごなにしてしまったお姉さん)が亡くなった。お兄さんとおんなじ病気で。
何年か経ってお兄さんが亡くなり、またその下のお兄さんが亡くなり、父より年上のきょうだいはほとんどいなくなってしまった。
みんな、同じ歳で死んだ。
小心者の父はびびりまくって、長いこと吸っていた煙草をやめ、半年に一度精密な健康診断を受けるようになった。
家族で初詣に行くと、きまって父はお稲荷さんの前で5分も10分も頭を下げていた。鳥居をくぐって戻ってくると、「許してもらわなきゃいけないから」と冗談っぽく、けれど見たことないくらい真剣な目で言った。
そして数年前の冬、父はきょうだいが死んだ「その歳」を迎えた。
幸いなことに、病気らしい病気はひとつも見つからなかった。彼は1年を健康に過ごし、何事もなく次の年の誕生日を迎えた。私と母はゲラゲラ笑って、よかったねえ死ななくて、と口々に言った。
父が誕生日を迎えてから数日後、私は父と父の友人と3人でお酒を飲んでいた。酔った父がウトウトし始めると、父の友人が「しほちゃんこれ」と言ってこっそり携帯の画面を見せてくれた。
それは、父が誕生日、友人や仕事仲間にあてて送ったというメールだった。
「僕がこうやって◯歳まで生きられたのはひとえに皆さんのおかげです。◯歳で死ぬと思っていた人生設計は崩れてしまったので、余生を精いっぱい楽しもうと思います」。
赤い顔でメール画面を覗き込んで、よかったよねえ、本当によかったよ、しほちゃん残して死ねないってお父さんずっと言ってたんだよ、とその人は言った。
父が机に突っ伏して寝ているのを確認してから、私は自分のスマホでメール画面を撮って、それからすこしだけ泣いた。
私はずっと、自分は27くらいで死ぬんだと思っていた。
カート・コバーンもジャニス・ジョプリンもジミヘンもみんな27で死んでしまったし(私ロッカーじゃないけど)、卒業文集の「急に死にそうな人」ランキングも1位だったし、なんか変な腫瘍とか見つかって半年くらいでコロッと死んじゃうんじゃないかな、と。
当然私は鳥居を壊したりはしてないんだけど、でも漠然と、静かにそう思い込んでいた。
だから、ひとつ前のnoteに書いた検査を受けたとき、医師に「たぶん良性なんですけど…」と言われて「あ、死、きたな」と反射的に思った。それであんな暗い日記を書いた。
結論から言うと、腫瘍はあった。悪性ではないけど放っておくと大きくなってしまう腫瘍ということで、左胸を切ることになった。
ただ、その腫瘍は、医師の言葉を借りるなら「とっちゃえばそれで終わり」らしい。もしまた再発することがあったら、悪性でない限り「またとればいい」らしい。ワニワニパニック的な感じですね。
何が言いたいかというと、つまり私は、まだ死なない。
死なないんですよ。
きのう誕生日を迎えて、私は24歳になった。
たくさん……ではないけれど何人かの大切な人たちが、おめでとう、と言ってくれた。すごく嬉しかった。
「死と隣り合わせであることは、性格だ」と言った人がいる。「生のために死を想うのは、死と仲の良い性格の人なのだ」と。
私はたぶん、どちらかというと「死と仲の良い」側の人間なのだと思う。何を見ても何を聴いても、どれだけ幸せでも、美しくても、気持ちよくても、感情がメーターのいちばん上に近づけば近づくほど強く死を意識する。
でもそれは、私がものすごく生きたいということなのだ。何言ってるかよく分かんないかもしれないけど、でもとにかくそういうことなのだ。
「余生を精いっぱい楽しむ」と書かれた父のメールを見て、伊坂幸太郎の『残り全部バケーション』という小説のタイトルを思い出した。
すべての人生がバケーションだ。
だから私は、24歳も好き勝手生きる。自分のために。「生きてて」って言ってくれる人のために。
最後に虫武一俊さんの好きな短歌を。
生きていくことをあなたに見せるときちょうど花びらでも降ればいい