湯葉日記

日記です

嫌いと言わせてくれ

武田百合子という随筆家がいる。作家・武田泰淳の妻で、寡作ではあったけれど根強いファンの多い人だ。

私もそのひとりで、彼女のエッセイをたびたび読み返す。たとえば、ロシア滞在記「犬が星見た」の中のこんな一節。

 

(寺院にあった石像を見て)「簡単なところがキライ。しわしわやひだひだがないからね。もっとくわしくまじめに丁寧にやってもらいたい」


最初に読んだとき、笑った。同行者に「モダン彫刻がわからないんだな」と言われても、彼女はあっけらかんとこう答える。「そうね。モダンでなくても、埴輪やこけしもわからない。どこがいいのかわからない」。

 


大学のとき、観た舞台の感想を聞いてきた先輩に「よくわかんなかったです」と答えたら、「そういうのよくないよ」と言われたことがある。
彼は「それが本当に誰にもわからないんじゃなくて、自分がまだそれを『わかる』と感じられるくらいに成長してないのかもしれないじゃん。いまは嫌い、ってだけなんだよ」と言った。私はそういうものかあ、と思って「すみません」と答え、それ以来しばらく「嫌い」とか「わからない」とか「つまらない」と言わないようにしていた。

 


それから学年が変わり、広告系の授業の課題で商品のキャッチコピーを考えることになった。
あれこれ考えて出したコピーを(どんなだったか忘れちゃったけど)、講師は褒めてくれた。その理由が、「キミはべらんめえみたいなのがいいよね。好き嫌いがハッキリしてて気持ちいい」。

たしかに、私が授業で書く作文やコピーや企画はすべてそういった(つまり嫌いなやつはこっち来んなみたいな)ものだったのだ。日常会話では「嫌い」と言わないことを意識していただけに、迂闊だった。そして、「自然に何かを考えて発言しようとすると、私はこうなってしまうのだ」と初めて自覚した。

 


それからというもの、私は「嫌い」「つまらない」的発言をさほど抑えなくなった。特に親しい人の前では、ちゃんと「おいしくない」「わからない」「馬鹿にされてるような気がする」とか言うようにしている(もちろん、私が嫌いなものを愛している人の前では必要以上の批判はしない。それは最低限のマナーなので)。

「いまは嫌い、ってだけなんだよ」とあのとき先輩は言ったけれど、「いまは嫌い」をきちんと残す以上に大切なことなんてあるのか?って思う。
「いまは好き」ももちろん同じだ。人の好き嫌いなんて気分や環境や経験で簡単に変わる。その一瞬の、たとえば今日の「好き」や「嫌い」をきちんと発して残しておくことが、未来の自分に対する責任のような気がしている。