湯葉日記

日記です

いつか忘れてしまっても

熱を出すたびに思い出すことがある。

それは1997年の夏の日で、私は幼稚園の先生の膝に頭を乗せて寝ている。カトリックの幼稚園だったから先生たちの半分くらいはシスターで、ひめゆり組のR先生もそうだった。

教室の窓からは園庭で走り回る子どもたちが見えた。ひどく暑い日で、私は高熱を出して、引き伸ばされた紙みたいにぐったりとしていた。R先生が私の顔を覗き込もうと背を屈めると、ベールの落とす影で暑さは少しだけましになった。

 

「しほちゃん、しほちゃん」。私の髪を撫でながら、R先生は泣いていた。 真夏の外遊びで発熱して教室に担ぎ込まれた5歳の私は内心、また熱か、と思っていた。私は体調を崩すことに慣れている可愛げのない子どもで、一方のR先生は気が弱く、心清らかで、新任だった。

慌てきった様子のR先生は、母親が私を迎えに来るまでの間、朦朧としている私に語りかけ続けた。「いい子のあなたがいなくなったら、先生はとっても悲しいのよ。お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。

 

帰り道、母親が運転する車の中で、私はくすぐったい気持ちだった。R先生の話をすると、母親は「そりゃ自分の幼稚園で園児に死なれたら嫌でしょう」と笑った。「あんたね、そんな熱じゃ死なないわよ」。

月に1度は高熱を出す5歳児を毎回律儀に心配するほど、親というのは暇ではない。母親は私に冷えピタを貼ってベッドに下ろすと仕事に戻っていった。

 

それからというもの、熱を出して家にひとりでいると(多くの場合は心配した父が早めに帰ってきたけれど)、私はR先生の言葉を反芻するようになった。 「あなたがいなくなったら、お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。 小学校に上がっても、10代を迎えても、その言葉は耳から離れなかった。

 

大人になった私に、ひょんなきっかけで手紙をくれた人がいた。 私はその人のことを尊敬していて、いつまでも仲良しでいたいと思っていたし、そのつもりだった。 手紙の中にはこんなフレーズがあった。 「この手紙を読んであなたはいまうれしい気持ちになってくれていると思うのだけど、その気持ちがずっと続きますように。いつか消えてしまっても、それが栄養となって、あなたの新しい一歩をつくる支えとなっていきますように」。

初めて読んだとき、まるでいつか私がその人のことを忘れてしまうみたいだ、なんでこんな寂しいことを書くのだろう、と思った。そんなはずはないのに。

時間が経ち、さまざまなことが重なった結果、その人とはあまり会えなくなってしまった。 手紙を開いたときの嬉しかった気持ちを、私はいつまで覚えていられるだろうと時どき考える。たぶん忘れないはずだ、けれど、絶対という自信はない。 ただ、「いつか消えてしま」うことまで許容してくれたその手紙のことは、死ぬまで忘れないと確信している。

 

きょう、気に入ったブログがあるから読んで欲しいと友人に言われて、この文章を読んだ。

ここに、事故に遭って病院にかつぎこまれながらも奥さんに「大好き」と言う人が出てくる。万一のことを意識して、なんて理由ではなく、それは奥さんのためであり、自分自身の治癒のためでもあるのだ。

「大好きな人に大好きと言われると、身体の苦痛は減る」のだという。だから彼は、熱を出すたびに、身体に不調をきたすたびに、大好きな人に「大好き」と伝え、同じように返事をもらう。

このブログを教えてくれた友人は、少し前に身近な人を亡くしている。いままでありがとう、と亡くなる直前に本人に伝えたのはきっと無駄ではなかった、と友人は言った。 そして私は友人と、これまで自分が伝えてきた言葉や人にかけられてきた言葉は、きっと何らかの(具体的な効用として)役に立っている、という話をした。このブログの言葉を借りるなら、“解熱剤”みたいに。

 

言葉は呪いだ。私はR先生の言葉を忘れないように、13歳のときに同級生に言われた悪口も、飲み屋で隣り合わせた人から言われた下品な言葉も、ずっと忘れないだろう。 たとえ気持ちは思い出せなくなっても、言葉は私に残るだろう。刺繍みたいに縫いとめられて、常に自分の目につくところにあるだろう。私はそれを含めて自分と呼ぶし、他人はそれを見て私だと思う。

だから私は、できるだけ、自分の好きな言葉をいちばん上に縫いとめて、いちばんよく見えるところに置くのだ。私のために。私と関わる人のために。いつか忘れてしまうその日のために。