湯葉日記

日記です

残るのは言葉だけだ

このところ何もかもがだめだった。部屋の外に出るのが億劫でたまらなくて、自分宛ての公共料金のハガキののりを剥がすのすら怖かった。

気分を強制的に変えようと湘南乃風を聴いてみたけれど、「マジで最高 心解放」という歌詞でさらにもうだめになってしまって、ほかに方法がないからキッチンの奥にしまっておいた酒ばかり飲んだ。
アルコールに依存するのは2年前にやめたはずなのに、ああけっこう経ってんのに何も成長してないなあ、と酔いがさめてからうんざりした。酔ってソファで眠り、目が覚めると泣いていた。

 


なんでこうなんだろうと思って、10代の頃の日記を開いてみて納得した。16歳の私は2008年の7月6日に「このまま何もできないままで死んでいく」と綴り、17歳の私は翌年の7月6日に「何ひとつできない、もう駄目だ」と綴っていた。18歳の私にいたってはなぜか保健室にいた。

つまりは、そういうバイオリズムなのだ。どういうわけか、私は毎年この時期は「何もかもだめ」になるようにできているのだ。
そう思ったらすこしだけ安心した。電気のスイッチのたくさん並んだパネルを前にして、そうか、ここ押したらお風呂場が点くのか、とわかったときのような気持ちになった。

 


10年のあいだ日記を書き続けていると人に言うと、けっこうびっくりされる。え、毎日ですか? と聞かれる。
ルールは2つだけあって、「サボってもいい」というのと、「絶対に嘘を書かない」というのだ。「サボってもいい」から、しれっと1週間くらい間があくこともある(ただ、しんどいときは日記を書くようにしているので、書いていないときは元気なときだ)。

その日の出来事よりもむしろ、体調がどうだったとか人と何を喋っただとかを記録している。だから日記を見返すと、その頃の自分が何を考えていたかとか、何が辛かったかとかがおおよそわかる。

前例があるということはいわば自分でアップデートしてきた自分の説明書があるということなので、気分や体調が急変することがあっても、そこまで慌てずに対処できる。書き続けることは、自分の心の動きのデータベースに情報を蓄積することでもある。

 


私は日記に限らず、人にもらった手紙やメールも、馬鹿じゃないのかというくらい読みかえす。こう言われて嬉しかったとかこう言われて嫌だったとか、そういうのは頻繁に読みかえすのでもう大体覚えてしまった。

どんな言葉にも有効期限はある。それは目には見えないので時どき勘違いしてしまいそうになるけれど、「これからも仲良くしてね」や「またすぐに会おう」や「好きだよ」はあくまで過去の私に対する言葉であって、いまの私に宛てたものではない。

ただひとつわかるのは、“その日の自分”は相手にそう言ってもらえるような人間だった、ということだ。そして“その日の自分”は、幸運なことにいまの自分の中にもいる(のだけど、それがあんまり遠い日の出来事だと、なかなかいまの自分とは結びつかないから厄介だ)。

 


当たり前だけど、いまはどんどん過去になって、言葉はどんどん古くなっていく。
もしも私の好きな人が(今日の私のように)「もう何もかもだめだ」と感じて過去の言葉に救いを求めることがあったなら、その日にめくる日記の中に、読みかえすメールの中に、できるだけ新しい私の言葉があってほしい。傲慢だけどそう思う。

そのためには、好きだということを手を抜かずに、できるだけアップデートしながら伝え続けなきゃいけない。
人と人はいつかはばらばらになってしまうから、それが明日でもいいように、できるだけ本心に近い言葉で愛を語っておきたい。結局、人も気持ちも消えたあとに残るのは、言葉だけなのだから。