創作のエネルギーとしての「不幸」や「病気」について
「傷つくことでしか創作できないやつには才能がない、ってボブ・ディランが言ってたよ」
大学2年の春、同じ専攻だったIちゃんが私に言った。
帰り道だった。脚本やキャッチコピーの授業を受けていた頃で、Iちゃんと私は、文章を書くときに何が強いモチベーションになるかという話をしていた。強い怒りとか悲しみみたいなものが原動力になる、というかそれしかならないやと私が言うと、Iちゃんは「それってどういうこと?」と聞いてきた。
殺意が湧くほどむかつくとか、どうしようもなく悲しいとか、そういう気持ちにまかせて文章を書いている、と私は話した。だから、人間関係うまくいかなくて気持ちがガタガタになったり、人に振り回されて傷ついたりしてるときがいちばん書けるんだよね。そう言うと、彼女は「しんどくない?」みたいなことを言った。
しんどいけどそういうときのほうが、書ける! と思ってテンションが上がること。なんならそういうモードに自分の心を固めておくために、自分から進んでしんどい状況を選んだりすること。青臭い、けど当時は真剣に思っていたことを素直に語ったら、Iちゃんがポンと言ったのが冒頭のひと言だった。
傷つくことでしか創作できないやつには才能がない。
その言葉を聞いて、反射的に笑った。笑うしかなかった。Iちゃんも私を傷つけようと思って言ったのではなく、キツめの冗談のつもりなのが口調でわかった。でも、当然ながらそれは図星で、あとからすごく落ち込んだ。
Iちゃんが後日「ごめん、あれボブディランじゃなかったかも。他の詩人かも」と律儀に訂正してくれたのも、出典わからないけど名言として残ってる言葉って逆に説得力あるじゃん、という感じで落ち込みを増長させた。
10代の頃、「傷つくこと」と引き換えにしか文章が書けなかった。当時の日記を読み返すと、毎日何かに触れては傷つき、ろくに見たこともない世間を仮想敵にしてキレまくっている。
やれバイトと部活が忙しすぎて寝る時間がないだの、近しいグループ内のいじめが幼稚に見えるだの、本気を出せばすぐに手を引けるような関係や状況に自分から首を突っ込むことで、悩みや不安を意図的につくりあげていた。
いちばんひどいのは、詳しくは書かないが恋愛の仕方だった。毎日どこかしら精神的に傷つけられるような恋愛は、創作意欲と恐ろしいほど相性がよかった。そういう恋愛にはまっていたとき、私は取り憑かれたように文章を書いた。
その癖は20歳を過ぎても治らなかった。社会人何年目かでさすがにおかしな恋愛はやめられた(結構かかった)が、定期的に来る「傷つけられた」気分は私をキーボードの前に向かわせた。
夜中にお酒を飲んだ勢いでガーッと書きあげる鬱屈とした文章は、不思議とたくさんの人に読まれた。そうでないときに書いた文章よりPVやリアクションが多いのは明らかだった。
自分は不幸な状態、病んでいる状態でないといい文章が書けないのだ、と思い込むようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
『失恋ショコラティエ』というドラマ化もした水城せとなさんの漫画を読んで、チョコ好きな元カノを振り向かせたいという怨念じみた熱量でショコラティエになってしまった主人公に泣くほど共感したし、アーヴィングの『村の誇り』という、結核は繊細な人だけがかかる神聖な病気だという19世紀初期の思い込みを具現化した小説を鵜呑みにし、結核にかかってみたいと考えたことすらある。
常に文章が書きたくなるような状況に身を置けるなら、それがどれくらいひどい環境でもいいのだという強迫観念じみたものがあった。
けれどそれは当然ながら日常生活とは噛み合わず、自分の心境を吐露するような文章を書いたあとは、疲れ果てて15時間くらい寝ないとやっていられない。15時間ぶっ続けで寝ると必ず金縛りにあった。
ある日、亡くなった雨宮まみさんのブログを読み返していたら、こんなエントリを見つけた。
短い、タイトルも特にない文章だ。けれど、一読してゾッとした。
つらいときには文章なんかいくらでも書ける。「刺さる」フレーズも書きやすい。自分が求めている言葉だからだ。
これはもうまさに、自分が毎日やっていることだったからだ。この文章を、
それを書けたとして、書けた先に「こんなのは間違ってる」と「こんなのはおかしい」と、言えるだろうかと思う。
という言葉で締める雨宮さんが好きだと思ったし、私も「こんなのは間違ってる」とそろそろ言わなくてはいけないことに、初めて気づいた。
さいきん自分が鬱っぽくなってきていることに思い至って、夜中に長文で「助けてくれ」みたいなことを書きたい気持ちをぐっとこらえ、『サブカル・スーパースター鬱伝』を読んだ。その中で、かつて不安神経症を患った菊地成孔氏がこんなことを語っていた。
病が深いほうが作品は作りだせるんでね。(※病を克服したことで)最初は創作性が失われたと思ってたんですよ。ところが活動を見ればおわかりのように、むしろ活発化してどんどん浮かんでくるのね。
ファン層もガラッと変わっちゃいましたからね。自分がストレートに病んでたときはファンもストレートに病んでる(笑)。治ってからはヘルシーさが僕にもファンにも共有的になってきて。
この文章をきょう読めて、よかったと思った。たぶん、病んでいないときや傷ついていないときでもいい作品をつくりだせるクリエイターは、彼の他にもたくさんいるだろう。
でも、「病みながらつくった作品」の生み出しやすさや気持ちよさを知っている人がこれを語ってくれるのは、いまの自分にとっては大きな希望だった。
もちろん、病んでいるときだって書く。病んでいるとき、不幸のどん底にいるときにしか書けないものは確実にあるし、叫びのような文章が、同じ気持ちになったことのある人をたしかに救うことも知っている。
けれど、そうでないときも、自分を奮い立たせながら書こうと思う。時間がかかっても、PV数15とかでも、書きたいことはたくさんある。毎日が平凡だから、いまが幸せだからといって文章が書けなくなるなんていうのは、怠惰な私の思い込みに過ぎなかった。