湯葉日記

日記です

客のいない店の店主は

写真を撮るためにそこに置かれた物の位置を替える、みたいなことを今年は極力しないようにしたいと友人が何年か前に言っていた(もしかすると言ったんじゃなくてツイートしてたのかもしれない。記憶が曖昧)。ああいいなと思って、たまに写真を撮ることがあるとその言葉を思い出す。

 

もちろん取材の仕事なんかで人やものを撮るときは、写さなければいけないものと写してはいけないものがはっきりしている、のでガサゴソと名刺やらパイプ椅子やら中途半端に開いたカーテンやらを端に追いやって“写真用の画”を作ることになる。その行為自体はたぶん正しい。

 

ただ、その正しさのコードをプライベートの生活空間にも持ち込んでしまうことが時どきあって、そういう自分の振る舞いに気づくと「だせえ」と思う。パイプ椅子的なものや中途半端に開いたカーテン的なものを徹底的に排除した先にある風景は、彩度が高く、非現実的で、うらさみしい。

 

 

 

 

高校生のときにブックオフで見つけた、いまで言うZINEのような小冊子(なんでそんなものが五反田のブックオフに売っていたのか)に、シュペルヴィエルの『場所を与える』という短い詩が載っていた。訳は中村真一郎氏。

 

君はちょっと消えて、風景に場所を与えたまえ。
庭は大洪水以前のように美しくなるだろう。
人間がいなくなれば、さぼてんはまた植物に戻るだろう。
君を逃れようとする根方に、何も見てはいけない。
眼も閉じたまえ。
草を君の夢の外に生えさせたまえ。
それから君はどうなったか見に戻ればいい。

 

正直、その冊子に載っていたほかの文章はあまり覚えてないが、この詩だけは記憶に残った。初めて読んだ瞬間、喉の奥のほうから言語化しきれないうれしさと驚きがせり上がってきてちょっとブルッとしたくらいだった。

“草を君の夢の外に生えさせたまえ。”

“それから君はどうなったか見に戻ればいい。”

 

 

 

 

すこし前、人との待ち合わせまで時間が空いて都心をブラブラしていたら、雑居ビルの立ち並ぶ裏通りに喫茶店の看板を見つけた。その書体やイラストの感じからたぶんいい店だろうとあたりをつけ、階段を上った。

 

録音スタジオのような重いドアを引きながら、あ、もしかするとジャズ喫茶かもしれないと思ったのが先か、音楽が聞こえたのが先か覚えていない。

視線のむこうに、店のど真ん中のテーブルに腰かけて新聞を読む店主がいた。客はひとりもおらず、ただ爆音でジャズがかかっていた。年配の店主は、何時間も前からその爆音の弾に当たり続けていたような険しい顔でこちらを見て、組んでいた足を下ろし、新聞を閉じた。

 

カウンターでコーヒーを飲みながらずっとどきどきしていた。絵のようなシーンを壊してしまった罪悪感と、店に相応しい客かどうかカウンター越しに審査されているのではないかという緊張感で手が震えた。座った席の目の前にはレコードが積まれていて、店主の顔はそれきり一度も見えなかった。

 

コーヒーを飲み終えたとき、怒られるかもしれないと思いながらも「美味しかったです」と伝えた。店主がちょっと相好を崩して「また」と言ってくれたので、ああ怒ってなかったんだ、と思った。 重いドアを肩で押して、店を出た。

 

 

 

待ち合わせ場所にはまだ誰も来ていなかった。

店でかかっていた曲をSpotifyで探していたらふと、あの店主はいま、人のいなくなった店の真ん中のテーブルに戻ってふたたび新聞を広げているところなんじゃないか、という考えが頭をよぎった。

 

夜にさしかかる街の下で、客のいない店にいまこの瞬間も立ち続けて(あるいは座り続けて)いる無数の店主たちのことを思った。想像の中のその光景はどれも美しかった。