湯葉日記

日記です

食道がない

朝、手術室のある階に着くと、父が病室から出てくるところだった。のろのろと看護師さんのうしろを歩いていた父は私に気づくと「お、おう」と言った。どうやら手術着姿をひとに見られることに照れているのらしかった。
 
角を曲がるとき、鳥をつかまえるみたいにして別の看護師さんが父に手術用の帽子をかぶせた。うしろから母と私が「なんか手術って感じ」「手術って感じするよパパ」と声をかける。
 
手術室の前にくると父は立ち止まり、「行ってくるから」と右手を差し出して握手を求めてきた。突然のことだったので面食らって、右手に持っていたスマホを持ち替えようとして落としてしまった。拾うのにもたついて母が怒る。ごめんごめんと謝っているあいだに父は消えていた。
 
 
 
手術中の家族の待合室は6畳ほどの窓のない部屋で、長椅子にはすでに何組かの家族が座っていたのでしかたなくパイプ椅子に座った。食事などで短時間離れるのはいいけれど、基本的には手術が終わるまでここにいてくださいねと言いつけられていたので気持ちが暗くなった。ここで10時間近く待つかもしれないのかと思う。「正気か」とあとから入ってきた母が言う。
 
待合室には『手術室からこんにちは』というタイトルの学級通信みたいな紙が貼ってあり、そこでは手術室の機器やスタッフの紹介がされていて愉快だった。ひょっとするとこういうギミックが随所に隠れている病院なのではと一瞬期待して自販機に飲み物を買いにいったけれど、『手術室から~』以外におもしろいものはなにも見つからなかった。
 
待合室に戻ると部屋の空気があきらかに淀んでいて、いやだなあと思う。家族の手術を待つひとたちはみんなマスクをして暗い色の上着に身を包み、荷物を抱えながら床を見ていた。部屋にはテレビがあるのに誰もそのリモコンにさわろうとしないのも異様だった。「手術終わったらパパの食道の写メ撮らせてもらおっかな、ね」と私に耳打ちしてくる母の声だけが明るい。
 
 
 
食道がんの手術というのがどんなものなのか、私にはいまいちイメージできない。
母が受けた説明によると、食道を取り除き、胃も一部取り除き、残った胃を引き伸ばして食道の代わりにするのだという(父の胃も自分がそんなことになってびっくりしているだろう)。父のからだからは胃の機能がなくなってしまうので、手術後は体内で消化ができず、ごく少量ずつしか食べものを受けつけなくなる。
 
つらいだろうなと思ったが、同時に、父ならたぶん食道を失ったことを笑い話にしたがるとも思った。もしも手術後に切除した食道の写真を撮らせてもらえたら、それをラインのアイコンにしたりするんじゃないか。父本体にはもう食道がないから、食道の写真と組み合わせたらようやく父完全体になるなと考えていたら笑ってしまった。隣で「手術の説明聞いてるときねパパびびってたよ」と言う母は楽しそうで、こんな女たちに囲まれている父は気の毒だと思った。
 
 
 
2時間ほどして待合室の電話が鳴った。近くに座っていた女性が受話器をとり、「私です」と言って部屋から出ていった。そのひとの家族の手術が終わったみたいだった。そのあとも何度か電話が鳴り、家族たちが入れ替わっていった。
 
コンビニ行ってくる、と言って部屋を出た。乾燥で喉が痛かったし、どこでもいいから待合室以外の場所に行きたかった。コンビニではマスクとのど用のスプレーを探したのだけど、医療機関に市販の医薬品は売ってないよなと途中で気づいた。おかゆとウィッグと折り紙のコーナーが充実していた。
 
飴を買って待合室に戻ると若い男性がひとり増えていた。頭を時どき揺らして不安そうにしている。同い年くらいだろうか、お母さんかお父さんが手術中なのだろうか、心配だろうなと考えていたら、外から「おめでとうございます!」という声がした。そのひとは立ち上がって顔を押さえながらゆっくりと部屋を出ていった。待合室にいたひとたちが「赤ちゃん」「赤ちゃんだ!」と初めて声をあげる。
 
外を見ると保育器のなかに本当に小さな子どもがいた。産声は聞こえないけれど生きているのがわかった。しばらくして同じ方向からもういちど「おめでとうございます!」が聞こえた。同じお父さんがこんどは走っていく。「双子?」「双子だ!」「三つ子かもしれない!」と待合室が沸いた。みんな笑っていた。私は泣きそうになってしまって、母に話しかけられる前にトイレに駆け込んだ。
 
 
 
ところで私たち親子はなかなか呼ばれない。
すこし仕事をしたかったから、母に車の鍵を借りた。「音楽を聴きたかったらブレーキ踏んでからスタートを押すと画面がつく」と説明されたので「ブレーキって?」と聞くと怒られた。しかたなくひとりで駐車場まで歩いていったけれど、母の車がどれなのかわからない。車ってだいたいみんな同じかたちをしている。また怒られるのはいやなのでラインで「ナンバーなんだっけ」と聞いたらなぜか車種で返ってきた。わからないから車種でググって色の記憶を頼りに車を見つけた。
 
運転席に座るのは生まれてはじめてだった。「ブレーキ」と調べて出てきた画像を頼りにブレーキを踏んでスタートボタンを押すと、母が言っていたとおりにカーナビの画面がついた。
 
周りに機械のボタンがたくさんあるのがいやですぐに後部座席に移る。前の夜は自分の咳と怖い夢のせいで何度も起きてしまっていたから、横になったら猛烈に眠くなった。いいや寝てしまおう、と思った。ぜったいに怖い夢を見ないでくれ、いま見たら怖いからと自分に祈る。iPhoneをカーステにつないでラジオを流し、そのまますこしだけ寝た。
 
 
 
ラインの音で起きて待合室に戻ると、母はもういなかった。受付に行くと面談室という部屋を案内された。ドアを引くと、母よりも先にプレートの上に置かれた臓器のようなものが見えた。
 
「おおお」と思わず言ってから部屋に入ると母と外科医がいた。知らない先生だった。母が「食道と胃の一部だって」と先生より先に父の臓器を私に紹介した。父の食道は大きいベーコンみたいに引き伸ばされて四隅を画鋲で留められていた。その下にはジップロックに入った胃の一部もあった。
 
いまはまだお父さんはICUにいます、麻酔をかけたままでいるけれど、このあと容態が安定してきたら麻酔を切らすので覚醒するはずですと先生は説明してくれた。手術は9時間近くに及んだはずだったから、ありがとうございます、本当にありがとうございますと何度も言った。先生の手は手袋をしていたせいか、砂糖菓子の表面みたいに白くにごって乾燥していた。この手が、この手で! と思った。
 
母は先生に「食道の写メ撮ってもいいですか?」と聞いていたけれど、「だめです。個人情報なので」ときっぱりと断られていた。たしかにものすごく個人情報だ。
 
 
 
夜になりかけていて、待合室にはもう誰もいなかった。
帰り際、10分間だけICUに立ち寄らせてもらうと、父はいろんなチューブをくっつけられて半開きの目で寝ていた。目やにで瞳がどろっとしていた。母と私は「すごい」「すごいね」「寝てるからなんもできないね」と言い合った。よく見ると首や脇腹に貼られたガーゼの下に縫ったばかりの跡があった。
 
私もいちど胸を手術したことがある。そのときは怖がっているところを見られたくなくて、付き添おうかと言う家族にこないでほしいと頼んだ。けれど手術が終わったあとに「いまから病院に迎えにいきます」と連絡をくれたひとがいて、そのひとは歩けない私を支えて帰り道を送ってくれた。自分が不安だからきたのとそのひとはなんども言うので、うれしくて泣いてしまって胸の縫い傷に激痛が走った。そのとき、きっと母も父も不安だからきたかったのだと初めて思った。私はばかだった。
 
母は一瞬だけ父の顔に近づくと、「よくがんばった」と言っておでこを撫でた。母は不安からようやく解放された顔をしていて、それを見ていたら私の不安も徐々に解けていった。「赤羽のすしざんまい行って帰ろう」と母が言った。
 
 
 
きょう、来週にはICUを出られそうだと母からラインがあった。胃が食道になってしまった父の声はぼそぼそして聴きとりづらいらしい。麻酔で眠っていたときの記憶があるかどうか、会ったらまず父に聞きたい。