湯葉日記

日記です

1-1-1

1-1-1なんて住所は馬鹿みたいで忘れようがなかった。魔法のカードみたいな装飾が全面にあしらわれた真っ黒の玄関扉を見たとき、やっぱりここだという気持ちが確信に変わった。
 
扉をふたつ隔てた向こうでなにか喋っている母が見える。父はその隣で吹き抜けに植えられたでかい木を見あげている。父はいちど病気をしてからずいぶん無口になった。
 
不動産業者が私を呼んでいる気配がした。けれど彼女の声は彼女の足元の絨毯にぜんぶ吸い込まれてしまって、うまくここまで届かない。
 
 
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そのひとがラインで送ってくるのは決まってゴルフか寿司の写真だった。
まれにゴルフゴルフ寿司、や寿司寿司ゴルフ、の日もあるけれど、基本的には交互にゴルフ寿司ゴルフが3日置きくらいでやってくる。それに「いいな~」と返信するのが私の役目だった。
 
自称縄師ということ以外、彼がなにをしているひとかはまるで知らなかったし興味がなかった。Facebookでは誕生日に友人たちから「社長」と呼ばれていたのでたぶん社長だったのだろう。
 
フグの白子の写真の次に、とつぜん東京タワーが送られてきた夜がある。
「どこのゴルフ場?」と聞くと、そのひとは「いまからこない?」と言った。
 
 
 
 
エレベーターを降りたらパーティーだった。
テーブルの上には寿司とピザとフルーツといろんなひとの名刺がばらばらに並べられて、誰かが割れたワイングラスを踊りながら片付けていた。窓からは写真より赤い東京タワーが見えた。
 
パーティーの主催の女性は、私が大学で脚本の勉強をしていると言うと喜んだ。
わたし脚本家よ、という彼女の書いたドラマはたしかに私も知っていた。だから連れてきてくれたのかと謎社長に聞くと、彼は「あんた脚本家だったの?」と心底驚いた顔をしていた。
 
 
ひとに酔ってしまって2階のロフトから下を見ていた。
ビリヤード台の端でなにかを巻いて吸っているひとが見えて、あ、と思うと、
 
「見ちゃだめだよ」
と彼がうしろから私の目を覆った。
その手がゆっくりと口まで下りてきて、近づいてきた顔が耳元で「こういう店なんだよ」と言う。
 
ドラッグのことなのかその行為のことなのかはわからなかったけれど、なにも言わずに顔を手で追い払った。
彼はつまらなそうに電話でタクシーを呼んだ。
 
 
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子どもの頃、2回追突事故に遭っている。
1度目は3歳だった。冬の高速道路の上で、雪用のタイヤに替えていなかった車が滑り、スピンした。
車は高速道路の端にぶつかって止まり、乗っていた母も友人も私も無事だったけれど、母はいまだに「あんたはあのとき強く頭を打ったからこうなった」と言う。
 
2度目はふつうの道路で、急発進した車にうしろから当たられたのだった。
ナンバーがゾロ目の黒塗りのベンツからサングラスをかけた母が降りていくと、相手はびびって車の前で土下座した。私はそのとき大人が土下座するのを初めて見たから、その光景がドラマみたいに思えてしまって変だった。
 
 
いちど、母に「どうしてああいう車乗るの。友だちにシホちゃん家ヤクザの親玉って噂されてるんだけど」と聞いたことがある。
母は「次に事故ったときに死ぬ確率が下がる」と笑ったあと、まっすぐに私を見て言った。
 
「できるだけ強そうにしてなさい」
 
 
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タクシーのなかで、「脚本だけじゃ食ってけないからあんな店やってるんでしょ」と彼は言った。
夜の首都高から見える景色はキラキラで可愛い。
シートベルトをぎゅっと握って、彼が座っている右側だけ追突されればいいのに、と思う。
 
 
 
部屋に着くと彼はやべ、と言い、「ごめん東棟だ。もうひとつの部屋行ってくる」と靴を履いた。
 
「東棟?」
「そう。ここが西棟。いまから行くのが東棟」
 
ついてっていい? と聞くと、彼は酔った顔でうなずいた。
 
「なんで2個あんの?」
「東はコンビニが真下だけど、西は東京タワーがすごい綺麗に見えるから」
 
 
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不動産業者が部屋のドアを開けると、父はうわっと一瞬嫌そうな声を出した。
なによ、と母が言うと、「やりすぎじゃない?」と半笑いになっている。
スーパーラグジュアリーなんとかタイプのお部屋です、と業者の女性が言った。
 
女性の説明にうなずく母を長い廊下の端から見ながら、「どう思う?」と父が言う。
 
「私が住むわけじゃないから」
「パパたちがここに住むってイメージできる?」
「でもさ癌センターも近いよ」
 
父はうーんと唸って、それから黙った。
カウンターキッチンに立った母が窓を見て、「あら素敵じゃない」ととつぜん大きな声を出した。
窓の外を見て、ここは西棟だ、と思った。
 
 
 
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ドアを開けると、鏡の向こうみたいにすべてが正反対の配置の部屋があった。
すごい、と笑いながら一歩足を踏み出すと、私の足になにかが当たった。
それがミキハウスの小さな靴だと気づいたとき、一瞬で血の気が引いた。
 
静かにしててね、と彼が靴を脱ぐ。
足元に転がる赤い靴を揃えながら、いまが帰るときだと突然、けれどはっきり思った。
 
「私帰るよ」
「え? いまゴムとってくるよ」
「いいよ。帰るよ」
 
踵を返してドアを閉めると、彼がふらつきながら追いかけてくる。
 
「帰んの?」
「帰るよ」
「ほんとうに言ってんの?」
 
立ち止まって、ほんとうに言ってるよと言った。
 
「好きだよ」
「ありがとう。私は一生あなたのことは好きにならない」
 
早口で言ってからびっくりした。
本音というのはこんなに嘘みたいに聞こえるものなのだと、私はそのとき初めて気づいた。
彼はそっかあと笑って、「タクシーチケット持ってくるね」と西棟に向かった。
 
 
 
酔った彼が外から窓ガラスにキスをしてきていた。
なにも言わない運転手とミラー越しに目が合って、「早く出してください」と言う。
運転手がナビに打ち込んだ住所を見て、もう二度とくることのない自分の現在地を知った。1-1-1。
 
 
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母の運転する車に乗っている。
助手席で父は寝ていて、胸元に内見でもらった大量のパンフレットを抱えている。
 
母がちらりとこちらに目をやって、
「ねえ、あんたむかし高速の上でスピンしたの覚えてる?」
 
そんなむかしのこと覚えてるわけない、と私は言う。