湯葉日記

日記です

新潟旅行記(1日目)

 風邪をひいて、しばらくのあいだずっとベッドにもぐって『おさるのジョージ』のアニメを見ていた。見すぎたせいで熱が下がってからも話題がそればかりになってしまう。けさも「ピスゲッティさん家の猫のニョッキがね」「レンキンスさんが畑につくった巨大迷路がね」などとぶつぶつ言いながら旅の準備をする。

 私を見送るとき、パートナーは「することがなくなったら最悪、チョコザップに行くといい」と言った。彼は仙台へのひとり旅行で初日に牛タンを食べたら手持ち無沙汰になってしまったらしく、ホテルの下のチョコザップで筋トレをして翌日の朝に帰ってきたことがある。帰宅するなり「東京にはない器具がいっぱいあったよ」とほくほくした顔で伝えてきたのでその日は彼のことをチョコザップくんと呼んでいた。自分はチョコザップにはなるまいと誓って家を出る。

 

 新潟駅は大規模な工事をしていて、出たい出口からまったく出られない。駅ビルのなかを上ったり降りたりして彷徨っていたら巨大なちいかわのモニュメント3体に出会い、しばらくそれらを遠くから見つめていたらハチワレの奥のほうに探していた出口が見える。なんだこれ、と呆然としながらそちらに歩いていき、そういえばちいかわのエンディングが『ひとりごつ』というタイトルだったのかなり渋かったよなと唐突に思う。

 

 荷物をホテルに置いてNIIGATA LOTSへ。夜にポルノグラフィティのファンクラブ限定ライブがあるのだった。かなりひさびさのライブハウスツアーで、行ければどこでもいいやと思って申し込んだらLOTSが当たってさすがに驚いてしまった。

 キャパ700ほどなので会場はかなりぎゅうぎゅうで、みんなぶつからないよう遠慮してスペースを空けるものだから、開演前の時点で客がうしろのドアから溢れていた。あるお客さんから「うしろの方入れてないので、もうすこし前行きませんか」と周囲のひとたちに声がかかる。前行ってください、でなく前行きませんか、という言葉の選びかたにちょっと感激してしまう。全員が入れたころ客電が落ちる。

 ツアーはまだ続くので内容については書かないけれど、ポルノグラフィティってこんなにライブハウスが似合うバンドだったっけと驚かされる瞬間が幾度もあった。彼らってやはりいまとなってはスタジアムバンドだという印象が強く、小さめのホールでライブをやるとき、昭仁さんの声の存在感の圧があきらかに箱のキャパを超えていてちょっとアンバランスに映るようなことが以前はあったように思う。その印象が今回はほとんどなく、それはサポートミュージシャン陣のバランス感覚の巧みさも大きいと思うのだけれど、なにより彼がライブハウスという生き物を完璧に手懐けているように見えて胸を打たれてしまった。それでも時折、村総がかりでも封印しきれない怪物みたいにあの声が空間全体を覆ってくることがあり、死ぬならこの声の音圧で死にてえよと本気で思う。

 新潟のお客さんはちょっと驚くほどノリがよく、客と演者が煽り合って熱が加速していくライブハウス特有のあの高揚感があって、ぱっとステージに目をやると軽音部の先輩バンドみたいな距離と質感のポルノがいて、こんなの間違ってると思った。この夜と引き換えにバチが当たってくれ。

 

 ライブのあと、わけがわからないままに体を引きずって夜の街を歩く。小雨が降ってくるけれど岡野昭仁の声を聴いたことで体が内側から燃えているので寒さは感じない。おすすめだと友だちに教えてもらったおでん屋さんで一杯やっていたら、店の消音状態のテレビでE.T.が流れている。ああそうか金曜ロードショーかと思う。E.T.は無音で観るとサスペンスホラーに見えるという気づき。

 おでん屋を出、通りかかった小道によさそうなバーがあったので勢いで入る。勘で入ったのが信じられないほどいいお店。最初にストレートのアブサンをお願いしたらそれ以降ぜんぶストレートで出してくださったので酔いすぎないようにこわごわ飲む。先にいらした常連客と店主さんとすこし話させてもらう。新潟にはチャレンジャーという名前の激安スーパーがあるらしい。フィクションを書いているときに自分で思いつけたら嬉しいくらいのネーミング。

 常連さんと話しているうちに東京の家がかなり近所であることがわかり、それはまちがいなく奇跡ではあるのだけど、まあそういうことってあるよなと妙に納得していた。いいライブを観た夜って本当にそういうことがある。新潟はずうっと曇ってるんですけど夕焼けだけは最高なんですよ、すごいピンク、と店主さんに教えてもらい、あした雨があがっていたら夕焼けを見て帰ろうと決める。

フジファブリックのこと

 このところフジファブリックの夢しか見ていない。夏に活動休止が発表されてからずっと雲の上を歩いているみたいな心地だった。カレンダーが2月になってしまってから、夜になって眠るたびに夢のなかで彼らのライブに行っていた。会場は中野サンプラザだったり野音だったりキネマ倶楽部だったりした。このまま眠り続けていればフジファブリックのライブをずっと見ていられるとなんだか本気で思ってしまって、毎日20時間くらい眠っていた。きのう、頭が痛くなって起きたらNHKホール公演の当日になっていて、冗談よしてくれよマジでと思った。

 そう、冗談よしてくれよマジで、というのが活動休止の一報を聞いたときからいまに至るまでのいちばん正直な気持ちだったと思う。その日は友だちと一緒にいたのだけれど、あれ、なにか更新されたな、と思ってスマホでHPをひらいてからの記憶がほとんどない。文字を目で追った瞬間に血の気が引いて、ごめんいま一人になりたい、とたしか言ったのだった。友だちはほんとうにやさしくてこちらの気持ちをわかろうとしてくれたから、言わなくていいことまでたぶん言いすぎてしまった。でも「3人が元気でよかった、だれか死んだとか病気とかじゃなくてほんとうによかった」というのは本心だったと思う。2009年に味わった気持ちを思い出すのだけは避けたかった。

 

 あまり過去のことをくよくよと書くのはフジファブリックというバンドに対するノスタルジックな消費に乗るみたいで気が進まないのだけど、それでも自分のためだけに書いてしまうと、フジファブリックに出会ったのは中2か中3のときだった。いわゆる王道のJ-POPからすこしずつ脇道に入って邦ロックとか聴きはじめていた時期で、サカナクションとかOGREとかAPOGEEとかぜんぶこの時期に知ったんだったと思う。ふつうの軽音部の中学生がうわなんかカッケー、こういう音聴いたことねえって思って手を伸ばしたくなるその系譜のなかにフジファブリックがいた。

 変なバンド、とたぶん最初思ったし、結果的にその印象はいまもずっと変わらない。Strawbarry Shortcakesのネトネトしたイントロをはじめて聴いたときの「変なバンドだなあ」と、KARAKURIのあのめまぐるしい展開を(しかもフェスの場で急に)初披露されて感じた「変なバンドだなあ」は同じだったと思う。

 話を戻すと、中学の終わりから高校の中ごろまではずっとFAB FOXを、TEENAGERを、CHRONICLEを聴いていた。テープが擦り切れるほど、という比喩があるけれど、iPodの画面をどのくらいまで指先でスクロールしたら「虹」に行き当たるか体が覚えていたくらいには聴いていた。2009年の冬に志村のことがあってからはしばらく呆然としてしまって、失礼だけれどフジファブリックのことも聴けなくなっていた時期があった。ときどき音楽番組の特集に映るフジファブリックはなんだかすごくポップになったように見えたりして、志村のボーカル時代のあの特有の気持ち悪さを懐かしく思ったりもした。

 その後もときおり、大切だった曲の思い出を通じてフジファブリックに触れることはあったのだけれど、かれらのライブに通うようになったのは20代になってからだった。きっかけがどのライブだったかは覚えていないけれど、衝撃を受けたパフォーマンスのいくつかは明確に覚えている。EXシアターのカンヌの休日、炎の舞、バタアシParty Night。それからスガシカオとの対バンでカバーされていた黄金の月。前者では「あ、このバンド現役で変な曲ばっか作ってるんだ」という嬉しさとメンバーの演奏の異様なうまさ、それでいてなんだかホワンとしているステージ全体の空気のよさに衝撃を受けたし、後者では山内総一郎のボーカルとしての佇まいにやられてしまったのだった。黄金の月というのは歌う人の人格や纏っている空気みたいなものすべてが如実に現れる曲だと思うのだけど、原曲とはまた別の危うさと、歌声が喚起する独自の景色があって、この人はもしかしてすごいボーカルになりつつあるんじゃないかと思った。志村の時代の曲を総くんが歌っているのを聴くと、絵本を読み聞かせるときのような語尾のやさしさにどうしようもなく泣けてしまって、ああこれは追いかけなくちゃいけないバンドだと感じた、のだったと思う。

 結論からいうと私はいまフジファブリックのことを3人組のバンドだと捉えている。こんな書きかたをしたら嫌がる人もいるかもしれないけれど。あれから無数のライブに行って、観るたびに化け物みたいに歌と演奏がうまくなっていくかれらを追いかけていたら、目の前のステージに没頭する以外のことができなくなっていた。フジファブリックのファンには志村のボーカル時代からかれらのことを好きな人たちも3人になってから好きになった人たちもたぶんどちらもいたのだけど、お客さんはライブがあるごとに4人時代の曲もいまの曲もめちゃくちゃノってくれる(難解なリズムの曲ばかりなのに各々ほんとうに楽しそうに、なおかつ静かに一人ひとりが曲に向き合って踊っていたのもフジのお客さんの凄さだった)ものだから、そこには時間とか思い出とかはあまり関係がなかった。

 むしろ、MCのたびに志村の名前を出して「大切なメンバー」と紹介してくれるのはフジファブリックの3人のほうだった。だからそれを聞くたびにこちらははっとし、そうだったよね、志村のことを思い出させてくれてありがとう、とまいかい思っていた。それから総くんは決まって「僕たち絶対に解散とかないバンドなんで!」とも伸びやかに言ってくれた。フェスでもワンマンでも言ってくれて、そのたびにお客さんからは長い拍手が起きた。

 

 甘えていたのかもなといま思う。去年、ダイちゃんが脱退を希望したと最初に知ったときも、それを受け入れてかれらが活動休止という選択をしたと聞いたときも、はじめに出てきた言葉が「絶対に解散しないってあんな言ってくれたじゃん」だった自分のことが嫌になった。3人がそれぞれのかたちで音楽と向き合っていてくれたらそれでいい、幸せでいてくれさえばいいという心からの思いとまったく同じ高さの場所に、嫌だよ置いてかないでよ聴けてない曲まだたくさんあるんだよ、というわがままがあった。活動休止の発表以来、なんだか妙によそよそしいコメントしかSNSでもファンクラブでも発してくれなかったかれらにも「なんで」と思った。

 けれど加藤さんが「ドッキリであってくれと何度思ったことか」というストーリーを投稿しているのを見た夜、ああ、かれらにとってもほんとうに寝耳に水だったのだなとすこし腑に落ちた気がした。フジファブリックの3人はしんどいときにリアルタイムでつらいとかもういやだとか言わない人たちで、ステージの上ではほんとうにいつも楽しそうに笑ってくれていた。陽気とか賑やかとかでなく、なんかこの人たち心底楽しそうに演奏するな、いい関係なんだろうな、と問答無用で感じさせてしまう多幸感みたいなものがずっとあった。

 情けないところとか嫌な部分とかもっと見せてほしかったなとか思うけれど、それをしないのもかれらの美学だったと思うから何も言うことはできない。ただ、自分はファンとしてフジファブリックに甘えすぎていた、よりかかりすぎていたという罪悪感はある。

 だからこそそれから何本かのライブはつらかった。活動休止発表があってから最初の有明ガーデンシアターは、いつもふらふらと楽しそうに格好つけているダイちゃんが見たことのない真面目な顔でバンドの歩みを止めてしまうことについて語っていて、なんだか謝罪会見みたいな空気で見ていられなかった。志村の映像とともに演奏するというあの演出も、4人時代のフジファブリックをここで一度見送らなければいけないというかれらの決意と関係者への思い、ファンへのやさしさを痛いほど感じた一方で、モノノケハカランダ、総くんボーカルでもう一度観たかったよともシンプルに思った。考えてみればこの時点で、4人時代の曲はもうそんなにこれからのライブでは聴けないんだろうな、と予感していたのだろうと思う。

 大阪城ホールでやった破顔が凄まじい気迫で、ステージ全体が発光していてかれらが星みたいに見えたこととか、LIFEの総くんの歌い出しがあまりにも泣き声をこらえている人の声すぎてこちらまで馬鹿みたいに泣いてしまったこととか、音博でフジファブリックのステージを待っているお客さんたちの不自然なまでに静かで重い空気、そういうぜんぶを思い出すたびに気持ちが沈んだ。活動休止までまだ時間はあるのにこんな気持ちでステージを観てしまうようなら2月の最後のライブ、自分はどんなふうになってしまうのだろうとずっと怖かった。

 

 けれどきのう、Portraitからライブがはじまったとき、あ、きっと今日は3人になってからの曲だけでやる気なんだと不思議とわかった。お客さんたちはほとんど全員と言っていいほどすすり泣いていたけど、同時に体を揺らしてもいた。

 LIFEのイントロでリズムを刻みながらお客さんたちの顔がぱっと明るくなっていくあの瞬間、フジファブリックのライブを観にきてんなあ、と思って魂が震えた。ステージの上のかれらが楽しそうだったから、こちらも楽しまないのは失礼だと思った。総くんの歌声の低音の深み、ビブラートの伸びやかさに何度も驚かされ、いつの間にこんな物凄いボーカルになってしまったんだよ、と驚く間もなくあのとんでもなくうまいギターが重なってくる。なんなんだよ、ほんとうに笑うしかなかった。ダイちゃんの鍵盤の音と加藤さんのベースラインがいつもどおり煌びやかに輝いていて、そこに被さるサポートの大地さんのドラムは炎のようで、なんでこんな超絶技巧のギターの音が浮かないんだこのバンド、と怖くなる。ブルーのアウトロはいつもいいけれど、今日のギターは特に化け物めいていた。なにかが総くんに乗り移って音を出しているみたいに聴こえた。Water Lily Flower、私の席の位置からは何をしているのかはよく見えなかったのだけれど、おそらくサポートの朝倉さんが前半、生音で水の反響音を出していて、ここにきて新しいアレンジをやってしまうのフジファブリックすぎるな、とちょっと引いてしまったくらいだった。

 でも、そうだった。かれらの存在感って、フジファブリックがただ3人でステージ上に立っているだけで醸し出される気迫とかスター性みたいなものじゃなくて、3人が音を出した瞬間に立ち現れる異様さだった。そういう意味でフジファブリックは過去ではなく、いつでもいま、ここにしか居なかったと思う。かれらはけっしてノスタルジーを喚起させるような演奏はしなかった。

 ステージを観ながらさみしさが薄れつつあるのを感じた。MCは控えめで、とにかくぶっ続けで20曲くらいやってくれた。私たちがさみしくないようにたくさんの曲をやってくれてるんだな、とも思ったし、かれらがたくさんの曲をやりたいんだろうなとも思った。

 途中、客席から何度か「大好き!」と声がかかった。声をかけられたメンバーは嬉しそうにしつつもあきらかに言われ慣れていなくて慌てており、「え?あ、ありがとう……?」みたいな感じになっていてほほえんでしまった。気持ちが堪えきれなくなったファンがしだいに「ありがとう」とか「総くん」「加藤さん」「ダイちゃん」と口々に叫びだしたけれど、言う側も慣れていないからか声がかすれたりしていて、それにもなんだかぐっときてしまう。

 フジファブリックのお客さんは、ひと言でいえばシャイでやさしい。このバンドのファンにはいい人しかいない、みたいな言説ってほとんど嘘だと思うけれど、フジファブリックのファンがやさしい、というのはライブハウスに通っていたひとたちならみな多かれ少なかれ実感していたと思う。小さい会場でモッシュが起きそうになると「あ、すみません……」と言い合ってお客さんが自然とうしろに下がったりする光景、あまりほかのバンドでは見たことがなかった。ライブ中に歓声をあげる人も不思議と少なかったから、バンドと観客との関係はこれまでずっと拍手で繋がっていた。

 あの長い拍手。1曲が終わるたびに細く長く続く暖かい雨のような拍手が、私にとってはフジファブリックのライブそのものだった。だからきのう、終演後にいつまでもやまない拍手を聴きながら、ステージの裏に戻ってこの音を浴びているメンバーはきっと嬉しいだろうと思ったし、私はこのお客さんたちのこともけっこうフジファブリックだと思ってたんだよな、と思い出した。いつだったか、総くんが客席に向かって「フジファブリックと一緒になって楽しんでください」みたいなことを言おうとしたのを間違えたのか、「みなさん、フジファブリックと同化してください」と言ってきて怖さで客席がザワ……となったのを思い出し、ぼろぼろ泣きながらちょっと笑ってしまった。

 

 フジファブリックのことを考えるとき、かれらはいつもライブハウスのステージの上にいる。大きな会場も似合うけれど、やはりフジファブリックというのはライブハウスで輝くバンドなのだと思う。SUPER!!のギターソロで3人が並ぶあのシーンを思い出すとき、お客さんとフジファブリックとの距離は触れられそうなほど近い。あのステージをもっと観たかった。あのときの音をもっと耳に残しておけばよかった。 

 ステージに向かって叫んだけれどぜんぜん足りなかったと思うから、20年続けてくれてありがとうとあらためて書いておきたい。3人ともとんでもなくやさしいひとたちだから、ファンに見せていない葛藤とか苦しさとかきっと想像できないくらいたくさんあったのだろうと思う。それを見せないでここまでやってきてくれたことの果てしなさを思うと、月並みだけれどありがとうとごめんなさいしか言葉が出てこない。

 私はフジファブリックをこれからも聴き続けるし3人の活動も追い続けるけど(加藤さんが本格的に怪談師になってベース聴けなくなっちゃったらどうしようってちょっと悩んでいる)、確実に強固であろうダイちゃんの決意がなにかをきっかけにすこしでも揺らいだり形が変わったりすることがもしもあったら、いつでもいいから3人で一緒に戻ってきてねと思っている。そのときはみんなで長い拍手で迎えるので。

 

 

 

(追記:NHKホール公演、配信チケットが2/13(木)21:00までは買えますので未見の方もぜひ。いまのフジファブリック、すばらしいです。)

eplus.jp

変わり

 エッセイと小説を混ぜたような文章を読んでいる。おもしろいとたしかに感じながらも、他者について描写するときの断定的な手つきにうんざりさせられ、すこし読むたびに疲れる。ページをめくるごとにこちらの構えも意地悪になっていってしまって、章が終わるころには、はいはいあなたが旅先で出会った“無垢”と“清らかさ”を一身に宿したような青年は眠るときたしかに“いびきをかかなかった”のでしょうね、それであなたは彼が“隣の家の娘と結婚できたらどんなにいいかと夢見ているんだろう”と勝手に想像しているんですね、みたいな最悪の読者に成りはてている。

 主人公である作者が身ひとつで生きている酒飲みや放蕩者、退役軍人らに向けるまなざしは常に親しみのこもったもので、そうでない人のことはそうでない見方で見ているように私には感じられる。本についてしゃべるポッドキャストのなかで、友人の野地さんが「歩きまわることで思索を深められるって話、いろんな小説家とか人類学者がしてますけど、そもそも健脚を前提にしすぎてないすか?」という。ほんとうにそうだと思う。歩きまわれること、生まれ育った家を離れて長旅ができること、ノミのいるベッドの上でも積みわらのなかででも眠れることはどれもすばらしいことだけれど、それをできない人を指さして“無垢”はちょっとね、と思う。

 しゃべりながら、私はいま嫌な読み方をしているし、たぶん語っているよりもはるかに多くのことを読み落としているのだろうとも感じるのだけれど、そのときはそう読んだという記録を残しておくことにも意味はあるのだと思いたい。さまざまな方向に伸びていく枝の1本1本を凝視してみるとすごく見ごたえがあるといった感じの読みもので、いまの自分にはその枝に目をやる体力と余裕がないけれど、5年前、もしくは5年後とかに読んだならもっと没頭できるかもしれないと思う。

 

 フィクションには他者を一方的にまなざし、その視野を固定したまま文字に刻む自由があって、エッセイみたいなタイプの書きものにはそれがない。ないというか、それをやると必ずどこかで人を傷つけるので、そもそも書かないか、書いたことに対する合意を丁寧に得るかのどちらかになる。

 これは前段の文章についての話とは切り離された、私自身の問題の話だが、もっと若いころはそれが全然わかっていなかったから、人に無数に嫌な思いをさせてきた自覚がある。その反省は生きている限りしつづけるべきなのだけれど、それでもなお人について書かせてほしいと思うとき、いつからか自分が2体に分離するようになった。傲慢な自分をノートパソコンの裏側から覗き込むように監視するもうひとりの自分が幽霊みたいに現れる。喩えとかでなく、そちらの自分が数分ごとに出してくる問いに毎回答えながら書いている感覚がある。

 「そこまで書く必要があるのか?」「お前の表現の快楽を優先していないか?」と監視係の自分がいう。めちゃくちゃマイクロマネジメントしてくる上司のよう。けれど人について書くことの責任というのはそういうものだとも思う。そうやってなにかを書くために、あるいは書かないために、自分に染みついた文体をすこしずつ変えていくことにも慣れてきた。変化はたのしい。

 

 けれどバイオリンは違う。バイオリンに対してはそんなふうに思えない。

 高校のころまでバイオリンを習っていた。飽きっぽい子どもだったから、習いはじめて1年後くらいにはもう完全に惰性のモードに入っていて、小学生のころは練習なんて週1回のレッスンの時間以外まったくしなかった。教室に通いはじめてから数年が経つころ、母は往生際のわるい私の覚悟を問うかのように、「(それまではレンタルしていた)バイオリンをいよいよ買うか、習うのを綺麗さっぱりやめるかどちらかだ」と言った。私はその気迫を前にしたらなぜか血迷ってしまって、バイオリンを買ってくださいお願いしますと母に頭を下げた。

 自分の楽器を手にしてからも私は怠けつづけた。それで結局、弾けるんだか弾けないんだかよくわからない、というもっとも悪い状態で大人になり、あっさりとバイオリンをやめた(そのあたりはこのエッセイに以前書いた)。

 ところがさいきん、いろいろあってバイオリンをやりなおしたくなり、柄にもなく熱心に練習したりしている。練習といっても賃貸住宅では思うようにできないので、基本的には音楽スタジオに通っている。そのスタジオがめちゃくちゃおもしろい話はまた今度します。

 

 バイオリンというのは左手の楽器だと長年思っていた。けれどどちらかというと右手、とみせかけて肩甲骨をどうあやつるかの楽器なのだとようやく気づく。右手で弓を持ち、左手で指板をおさえる。弓が弦の上を滑っていくとき、音のスピードや強弱をコントロールしているのは右手の指、というより手首や腕と肩甲骨で、それらのパーツにかける負荷をすこしずつ変えながら弓の重みを分散させていく。その分散がうまくいかないと弓が跳ねたり震えたりする。

 濁りのないきれいな音を出したいと思ったら、弓を常にコントロールできていないといけない。だからいま、4本の開放弦でひたすら同じ音を出しつづけるという耐えがたく代わりばえのない練習をしている。ゆっくりと、鉄道博物館の模型の汽車が走るみたいな速さで弓を動かし、ソーーーー、レーーーー、ラーーーー、ミーーーー、とやっている。それをやりこんだら音階練習にうつる。

 だんだん自分の音のうすさや濁りに失望し、かつて習った曲が弾きたくなってくる。いちおう、ハンガリー舞曲とかエクレスのソナタとか、定番の曲なら指づかいだけは覚えている。弾きはじめると、やっぱりたのしい。曲が弾けることはなによりの喜びだと思う。だから左手がひとりでに覚えているビブラートもかける。かけはじめると、すべての音が崩れ、弓が跳ね、ぜんぶおしまいになる。その繰りかえし。

 だから私がいますべきことは、かつて習ったバイオリンの構え方の、弓の持ち方の、ビブラートのかけ方を忘れ、このたのしさに抗うことなのだと思う。頭ではわかっていてもつい速弾きとかしたくなってしまう。愚かめ。いろんなことを変えなきゃいけない、と思いながら譜読みにつかっていた鉛筆をもち、覚えたてのやわらかい持ち方で弓を持つようにそれを掴んでみる。上下に動かしてみると落ちそうになり、小指がつっぱる。つっぱらせることではじめて鉛筆が安定する。これじゃいけないと思う。いけないと思いながら、まだ同じ持ち方をしている。変わることがこわい。それがいつかおもしろくなるまでこの記録をつづけていたい。

2023.6.13

 起きてカレーを食べる。鍋に近寄ると明確にきのうとは違う匂いがした。きのうのカレーもきのうのカレーで苛烈なうまさだった、「家庭でこんなカレーができてしまうなんて」と恋人が若干からだを震わせながら告げてきたくらいに。きのうもオイスターソースだとかヨーグルトだとか入れたらしかったのだけれど、きょうはきょうでまたいろいろ足したという。

 冷蔵庫に残っていた肉じゃがもそのなかにいるよと聞いて大胆さにおどろく。カレーと肉じゃがといえばフロントマンは同じだけれど音楽性のまったくちがうバンドみたいなもので、私ならすでに完璧な均衡を保っているカレーに肉じゃがを足してあたらしい風を吹かすという選択肢はたぶん選べない。半信半疑で味見するときのうと同じかそれ以上においしく、このひとのこういう冒険心がマイナスに作用するところを見たことがないなと思う。私はきのう、これバイバインで16倍に増やしたいなとか保守的すぎることを考えていたのに。

 

 図書館にいく。仕事を進めるつもりがノリで手にとったアストル・ピアソラの評伝を熟読してしまう。ピアソラがアルゼンチンとニューヨークというふたつのルーツを持つひとであることはぼんやりと知っていたが、マル・デル・プラタ→ニューヨーク→マル・デル・プラタ→ブエノスアイレス→パリ→ブエノスアイレス→ニューヨーク……と想像以上に移住をくりかえしていて、これは家族大変だったろうなとか素朴に思う。後年、タンゴの黄金期であった1940年代を回顧してピアソラが言ったという言葉があまりにロマンティック。「神はブエノスアイレスの空を飛び、その手で街に触れた。1940年当時のブエノスアイレスは、まるで奇跡そのものだったよ」。

 交響楽的なアレンジを演奏にとりいれたせいで伝統的なタンゴの信奉者たちの目の敵にされていたピアソラは、当時所属していたトロイロ楽団でもものすごい嫌がらせを受けていたらしい。バンドネオンのケースにゴミを詰め込まれるとか。それに対抗するため、ピアソラは仕事用の鞄に「爆竹、痒くなる粉、スティンク・ポンプ(潰すとやたらと臭いだけのカプセル)」を常備していたのだそう。なんかものすごく悪戯のうまいひとだったみたいですね。

 評伝を半分くらい読んで図書館の下の喫茶店でサンドイッチを食べていると、ガラス戸の向こうのタイルの上を雀が一筆書きみたいに歩いていた。こちらが見ていることには気づいていないようだった。人間がいないとこんなに悠長に歩くのかねと思う。帰り道、うしろを歩いていたひとにゆったりとした日本語ですみませんと声をかけられ、外国の方っぽい、道聞かれるのかなとふり向くと、そのTシャツ、バンドのですよね。私も好きなのでつい。急にすみません……といわれる。そのひとははにかみつつ、言葉の途中からフェードアウトするように私を追い越して横断歩道を渡っていった。あ! あはは、そうです、とはにかみで応えただけの一瞬の邂逅。MONO NO AWAREのTシャツを着ていてよかった。

 

 はじめての整体にいく。いまの家に去年引っ越してきてから、定期的にかよう鍼灸院は早々に見つけたものの整体は決めかねていた。初回クーポンが使えたのでとりあえずいちど行ってみよう的な動機。施術の途中から、担当してくれた院長らしき方の回数券営業の圧がものすごく、ひと言ひと言に内臓が冷えていくような感覚があった。フリーランスなので仕事の時間に決まったルーティンがないとこちらが話した直後、ところで1週間のなかでいうと30分くらいお時間がとれる日って何日くらいありますか、と訊かれ、なんて卑怯な訊き方なんだと戦慄してしまう。

 つまりは(1回30分の施術に)今後どのくらい通えますかということで、神経をとがらせながら話のゆくえを見守っていると、でしたら週に2回6ヶ月がひとまずシホさんの目標ということになりますが、こちらを定価料金で通うと○万円ほどになってしまうんですね。これってちょっと……そうですよね、高いですよね。でも大丈夫です、うちにはこの頻度をこちらの料金で通われているお客さんはいませんので。それで回数券というのがあって、この券を使うと○万円が1回あたり○千円ほどになるんですね。きょうこちらを買っていただくと割引がきいて……、滔々とつづく。30分の自由時間が週に何度とれるかという話がひとまずのシホさんの目標へと巧妙にすり替えられている。よく練られたマルチ商法トークスクリプトみたいな話法じゃないか、こんな気分の悪いやりかたをするならむしろ施術もめちゃくちゃ下手であってくれよ、どうしてこんなに上手なんだと涙が出そうになる。ぜったいになにも感じない、こんなことに傷ついてたまるかと腹に力を入れると矯正されたばかりの骨盤がまっすぐに立って気持ちいい。

 

 けっきょく回数券を中途半端な回数分買ってしまった。私はいつもこう、外面ばかりがいい、毅然と断るということがずっとできない、いまだってただ背筋がまっすぐなだけ……と自分に呪詛を吐きながら家までを歩く。そうしていたら徐々にほんとうにつらくなってきて泣いてしまう。ていうかここさっきMONO NO AWAREのTシャツのひとに会った道だな、ここですれ違ったら激気まずいな、と考えて必死で嗚咽をとめる。帰ると恋人がFFの新作の体験版をしている。途中でコントローラーの手をとめてこれまでのあらすじを話してくれるのだが、クリスタルの加護を受けた弟が、とかクライヴに宿った召喚獣がじつはね、という言葉に理不尽にいらだち、ほとんど聞き流すように聞いてしまう。

 対抗するようにゼルダの続きをはじめたけれど、どう返していたら週2回30分の罠にはまらなかったんだと考えてしまってまったく集中できない。たいていの強引な営業はスケジュールがなかなか読めないので、のひと言でかわせるけれど、あの訊き方はやっぱりどう考えたって卑怯だよな。吟遊詩人のひととかだったら回数券営業されることないんだろうな、とハイラルの暮らしに漠然とあこがれる。

干しぶどう理論、冷たい輪切り状のなにか、アマレット

2023/1/--

駅まで歩いていたら長蛇の列が見え、イヤホンを外す。行列は、ひと月前に閉店したはずのちいさな肉屋から伸びていた。え、なに、なんでいま、とスピードをやや落として通り過ぎようとすると、高齢の店主がのれんの向こうから出てきて、列に並ぶ客ひとりひとりの顔を覗き込むようにしてなにか話しかけている。「ごめんなさいね、きょうはもうなくなっちゃって。あしたまたやりますから」と聞こえた。

 

すこし前にひとから聞いた話では、閉店の知らせを聞きつけてしんみりと店を訪れたところなんだかふつうに営業している、というシーンに2、3回居合わせ、無粋を承知で店主に事情を聞いたところ、「もうすこしやることに……」と申し訳なさげに言われたらしい。

 

歩きながらGoogle Mapをひらくと、マップ上にはすでに閉店のピンが立っていた。行列に並ぶひとたちをじっと見ていた店主の顔を思い出し、あれは閉店詐欺とかそういうんじゃないだろうなと思う。10年くらい前、バナナマンの設楽さんが、どれだけお腹いっぱいでこれ以上なにも入んねえわ、ってときでも干しぶどうひと粒なら食べられるでしょ、ということは干しぶどうひと粒ずつなら永遠に食べつづけることができてしまうんだね我々は、とラジオで言っていたことがあって、それ以来、干しぶどう的な時間というか、締めの甘い蛇口からぽつぽつと垂れる水みたいにつづくものを見てしまうと、そういう予感がすると、ちょっと不安になる。けれど気持ちとしてはすごくわかる気もする。あしたもあけなきゃって思っちゃったらしょうがないよな。

 

 

2023/1/--

整体にいく。駅前のロータリーを空気のよどんでいる側に曲がり、さらにいくつか暗~い通りを抜けた先の雑居ビルにある。さいしょに口コミを調べたとき、立地や雰囲気に関する悪い感想が延々とつづいた先に「しかし腕はグッド」と書いてあるのを見てああもうぜったいに行きたいと思ってしまい、それから10回は通った。エレベーターのドアがあくと目の前に電源コードの巻きついた古いガールズバーの看板があり、それをちょっと押しのけて降りないといけない。居抜きだとしてもだよ、と毎度思う。

 

首から肩、顔をほぐしてくれるコースみたいなものを選ぶ。担当してくれるひとによってやることのバリエーションがどうやらかなり違うというのにさいきん気づいた。思い出せる限りで、

  1. 激しい蒸気の出る美顔器のようなものを鎖骨~顔に向けてあてる
  2. 鎖骨と脇を含む揉みほぐし
  3. 二の腕を含む揉みほぐし
  4. 小顔ローラー
  5. にんじんの香りのクレンジングバーム
  6. 頭をほぐす際に髪をひっぱる
  7. 激しい力でおこなわれる頬~顎のマッサージ
  8. 冷たい輪切り状のなにかを目の上にのせる
  9. 高温のホットタオル
  10. 保湿後のティッシュオフ

というのが体験したことのあるオプション的な施術の種類なのだけれど、2は担当のひとによってはかなりくすぐったく、6はただ怖く、7はすごく気持ちいいこともあれば、顔の上をプラレールの車両が走り抜けていくみたいな痛さのときもあってギャンブル性がある。ぎゅっと目をつむっているので8の正体はいまだにわからない(おそらくきゅうり)が、マッサージベッドに横になってウリ科めいた匂いを感じているとき、こういうのでおもしろくなっちゃうから私はだめなんだよなとけっこうまじめに落ち込む。きょうは1/4/7/9/10の日、わりとスタンダードでほっとしたけれど、ティッシュオフははじめてだったのでおどろき、「ティッシュオフ!」とかるく叫びそうになった。

 

 

2023/2/--

そこそこ久しぶりに行った店のマスターが、顔を見るなりまだまだ寒いですねえ、そういえばことしはちゃんと厄除けに行きましたよ、と、さっきの話のつづきですけど、みたいな感じで接してくれる。カウンターのうしろに並ぶボトルにいくつか知らないのが増えている、知らないブランデーと知らないブランデーのあいだでラフロイグ何種かがぎゅうぎゅう詰めになっており、どういう理論かわからないがまとめてうれしい。

 

音楽をかけない店で、ほかに客がいないとその無音が際立つ。私には店内BGM過激派という側面があり、あきらかに店主が好きで流している音楽であればなんであれ歓迎するのだが、ジブリボサノヴァバージョンとかがぞんざいに流れているのが好きになれないから、無音はありがたい。しかもその店、均一にうす暗く、携帯の電波も入らない。やりますねえ! と思う。

どんな話がきっかけだったのか、はじめてバーでカクテルを飲んだときのこと覚えてますか、とややはずかしいことを聞くと、マスターがそれはもううれしそうに顔を明るくして、ええ覚えてますよ、と言った。いまはなくなってしまった赤羽の店だったというので驚く。初バーが赤羽! オーセンティックな店ではないけれどカジュアルすぎもしない絶妙な店だったという。

当時まだハタチか21そこらで、バーってものに一気にはまっちゃって、おんなじカクテルを頼んでたらマスターに顔を覚えてもらえるんじゃないかなんて思って、ゴッドファーザーばっかり飲んでたんです、とマスターがいう。店主は引き際がうつくしい人でした、ある日いつもみたいに店の前まで歩いていったら、看板ごとなくなってたんです。だれにも言わないで閉めちゃったみたいです、もう、あのときは愕然として──というところまで聞いて、思い出したようにマスターが表の看板をしまいにいく。戻ってきてこうつづく。

自分がカウンターに立つようになってときどきゴッドファーザーをお出しすることがあると、アマレットのボトルをあけたときに漂ってくるあの香りでもう、そこの店のことを思い出すんですね。香りって記憶の引き金になるってよく言いますよね。いや、いい店だった。そこのゴッドファーザーはいっとう美味しかったですね。

 

そんな話を聞かされて飲みたくならない酒飲みがいたら教えてほしいのだけれど、ごめんなさいつい、と伝えてゴッドファーザーを頼む。その店は決まってティーチャーズだったんですが代わりにバランタインで、といいながらグラスにスコッチをそそぐマスターの顔の半分は暗さで見えず、知らない店に転生したみたいだった。差し出されたゴッドファーザーの佇まいの完璧さにちょっとひるみながら口をつけ、そうだ、甘いカクテルだったと思い出す。私にもこれをはじめて飲んだ店があったはずで、けれどきょうからはアマレットの香りを嗅ぐたびにこの味が蘇ってしまうと予言のように思う。それからもうなくなってしまったいくつかのバーの話をし、むかしの恋人の悪口を言うみたいに赤羽のだめなところを言い合い、2杯飲んで帰った。

(何百回目かの)不安のこと

季節の変わり目になると不安が強くなる。去年だったかおととしだったか、梅雨の時期にも「梅雨がほんとうにだめ」みたいなことをここに書いたのを覚えているのだけれど、私は慢性的に社交不安と抑うつみたいなものを太陽光でごまかしながら生活しており、日照時間がとつぜん短くなったり肌にあたる空気の温度が微妙に変わったのを感じたりすると、ああ、もうだめ、と思ってしまう。プールの消毒槽に入るときみたいな体の震えがくるし、しゃべるのが怖くなる。夜の肌寒さが、絶望と対人恐怖と被害妄想をブレンドした最悪のルームディフューザーの粒子みたいになって部屋を漂っているのを感じる。
 
おぼえている限り、自分の不安は12歳くらいのときからはじまっているので、だいたいこのくらいの時期に自分がこうなることをある種のルーティーンのように捉えているふしはあって、夏の終わりに日照時間が短くなってくると「ああ今年もよくきたね、入りなよ」みたいな気持ちでそれを自分の体に迎え入れている。
 
何度も何度も見てきたはずなのになぜかそれに対する自分の体の反射はまいかい新鮮で、慣れるということがない。いつもまあたらしく人が怖い。家の外が怖い。みんな私のことが嫌いだろうなという考えが寝ているとき以外頭から離れなくなる。のでめちゃくちゃ寝てしまい、夢のなかで大切な人に見捨てられてその不安で起きている。やばいでしょう。やばいんだよ。私は対人不安を長期的に抱えていないひとの社交というものをいまだに想像できません。
 
もうすこし前は、いずれ「なおる」だろうなと思っていたけれど、まあたぶんずっとこうっぽいなという覚悟と受容みたいなものが数年前くらいからある。そうなるとこのルーティーンをもうすこし攻略してすこしずつコントローラブルなものにしたい、みたいな欲求もときどき湧いてくる。けれど一方で、それってすごく私の不安に対して失礼というか傲慢で、予測ができないから不安なものをなにがコントローラブルだようるせえなとも感じる。
 
生理のような周期的な体調不良に対して、おおよそ起きることを予測して対策し、生産性を上げていくべきだみたいな他者からの圧力がこわい。PMSや生理に付随する不調に悩む当人がそのことを考えるのはとても自然なことだと思うけれど、パートナーとか会社とか、なんかよく知らん赤の他人が「改善」みたいなことを言い出すのを見るたびに私はほんとうにだめになってしまう。前に、知人のパートナーが「次はこうしてみようと思いました」と発信しているのを見たとき、あなたは彼女の体のなんなん? って思った。なんでいっしょに新鮮にオロオロしてくれないんだって。でも、すこしでも快適にしていくこと、をお互い目標に掲げることで前に進める人たちもいるんだなってさいきんは思う。私はそれはあんまりわからないので、まいかい気をつかわせて申し訳ないけど嫌じゃなかったらいいなって思うけれど。
 
不安について書くことが不安を増幅させている感覚ももちろんあって、なんでいちばん仕事忙しいときにこんなことをわざわざ記録してるのか自分でさえもわからない。でもなんか、ああ、いまきてんな、というのを凝視しておきたいし、それが過去・いま・未来のどこかの地点にいる自分を助けることも知ってるし、これまでの無数の不安についての記録がぜんぶばらばらであることに若干の愛着も感じる。だから今回も律儀にもてなしたいし、でもほんとうにつらいので、お願いだからはやく帰ってほしい。

2021.7.24

いま、これ以上この怒りと混乱のなかに身を置いていると心が粉々に砕かれてしまいそうなので、関係のない仕事をすこしする。
 
というところまで手書きの日記に書いて昨日は寝てしまった。
私は五輪を見ない。親から何度か「帰っておいで、観戦しよう!」と連絡がきていて、見ないつもりだと伝えたらおそらく軽めの喧嘩になるので「忙しくて帰れない」と言葉を濁しつづけている。このごろ、親との雑談が五輪の話題になるたびにそうやって軽めの喧嘩に発展していて、とはいえ身内と思想が違うことによる軽めの喧嘩なんてこれまでにも何度も繰り返してきたからさしたるストレスではなかったのだけれど、今回も「見ないよ私は~」とラインを返そうとしてどうしてもそれができなかった。
 
もういまの自分にはそういうコミュニケーションをとる体力すらないのだと思った。五輪の開催をめぐるあらゆることに、そのくらい疲弊して失望しきっている。スピーチのなかの、逼迫している医療現場を愚弄するかのような「チャレンジ」「希望」ということば、五輪開催の名のもとに中止・閉鎖されたあらゆるイベントと空間のこと、棄権する/せざるを得なくなったアスリートたちにとっての大会としてのアンフェアさ、なにより「復興五輪」などという欺瞞。復興、と名乗ったことが私にはなにより許せない。
 
実家はとても近く、頻繁に行き来しているから、忙しくて帰れないと言い訳をしつづけるのは疲れる。疲れるけれど、それ以上に五輪に対して投げかけられるポジティブな言葉を耳にするのがショックで、いまの自分の心身では受け止められないと思う。もっと抽象的な気分の話をすれば、ものごとを名指せるだけの体力と感情がもう湧いてこない。
 
小林賢太郎の解任があった。あのネタの台詞が批判されるのは当然だ、というよりも、あのネタをニコニコや初期のYouTubeで違和感なしに見ていた私たちが批判するべきだったのだと思った。完売劇場から君の席、全本公演のDVD BOXを集めて夜な夜な見返していた10代の私はガチガチのラーオタだったけれど、その自分でさえ「できるかな」がどのソフトに入っていたかは記憶が曖昧で、あれはむしろ動画サイトで再生・消費されることで知名度を上げたネタだった。だからこそあれを無邪気におもしろがっていた私たちが、私が、未成熟だったとしか言いようがない(小林賢太郎本人が日本語話者以外にも伝わる笑いを志向するようになって、差別や冷笑を芸にすることを2010年代にはほぼやめていたことは、わざわざ書かなくても彼を追っていた人なら知っている)。開会式で彼のクレジットなしに彼の発案としか思えないピクトグラムの演出が敢行されたことを知ったときは愕然とした。
 
昨晩は好きなミュージシャンが開会式に感動したという主旨のツイートをしていて、そこに「(困難を乗り越えて集ったアスリートに対し)自分はヒザを抱えているだけだった」という言葉があり、うっ……と言葉を失った。そのツイートを見てから自分がなにに絶句したのかしばらく考えていたのだけれど、卑怯な言葉だと感じたのだと思った。私にはやっぱり現時点で五輪開催をよろこぶことはできず、感動はできず、その時点でスタンスが違うのは差し置いても、ヒザを抱えるだけで済む(いやな言い方という自覚はある)のは紛れもなくひとつの特権だ。もちろん実際には音楽活動を進めているのだろうしそれがとても楽しみではあるけれど、わざわざそんな卑下するような言い方をするのは保身のように私には見えた。
 
自分のことばっかりだな。でも自分のこととして考えてこなかったツケがいまなんじゃないか。怒り、混乱、いまの気持ちを言おうとしてさまざまな言葉を検討したけれど、ほとほと疲れきったというのがいちばん本心に近い。こんな書き方をするとケアを求めているかのように映るかもしれないと一瞬思ったがそうではなく、この期間に自分の率直な気持ちを残しておくのが重要だと思ったから書いた。朝からなにもする気が起きず、爪を塗りかけては除光液で落としている。