湯葉日記

日記です

2021.7.24

いま、これ以上この怒りと混乱のなかに身を置いていると心が粉々に砕かれてしまいそうなので、関係のない仕事をすこしする。
 
というところまで手書きの日記に書いて昨日は寝てしまった。
私は五輪を見ない。親から何度か「帰っておいで、観戦しよう!」と連絡がきていて、見ないつもりだと伝えたらおそらく軽めの喧嘩になるので「忙しくて帰れない」と言葉を濁しつづけている。このごろ、親との雑談が五輪の話題になるたびにそうやって軽めの喧嘩に発展していて、とはいえ身内と思想が違うことによる軽めの喧嘩なんてこれまでにも何度も繰り返してきたからさしたるストレスではなかったのだけれど、今回も「見ないよ私は~」とラインを返そうとしてどうしてもそれができなかった。
 
もういまの自分にはそういうコミュニケーションをとる体力すらないのだと思った。五輪の開催をめぐるあらゆることに、そのくらい疲弊して失望しきっている。スピーチのなかの、逼迫している医療現場を愚弄するかのような「チャレンジ」「希望」ということば、五輪開催の名のもとに中止・閉鎖されたあらゆるイベントと空間のこと、棄権する/せざるを得なくなったアスリートたちにとっての大会としてのアンフェアさ、なにより「復興五輪」などという欺瞞。復興、と名乗ったことが私にはなにより許せない。
 
実家はとても近く、頻繁に行き来しているから、忙しくて帰れないと言い訳をしつづけるのは疲れる。疲れるけれど、それ以上に五輪に対して投げかけられるポジティブな言葉を耳にするのがショックで、いまの自分の心身では受け止められないと思う。もっと抽象的な気分の話をすれば、ものごとを名指せるだけの体力と感情がもう湧いてこない。
 
小林賢太郎の解任があった。あのネタの台詞が批判されるのは当然だ、というよりも、あのネタをニコニコや初期のYouTubeで違和感なしに見ていた私たちが批判するべきだったのだと思った。完売劇場から君の席、全本公演のDVD BOXを集めて夜な夜な見返していた10代の私はガチガチのラーオタだったけれど、その自分でさえ「できるかな」がどのソフトに入っていたかは記憶が曖昧で、あれはむしろ動画サイトで再生・消費されることで知名度を上げたネタだった。だからこそあれを無邪気におもしろがっていた私たちが、私が、未成熟だったとしか言いようがない(小林賢太郎本人が日本語話者以外にも伝わる笑いを志向するようになって、差別や冷笑を芸にすることを2010年代にはほぼやめていたことは、わざわざ書かなくても彼を追っていた人なら知っている)。開会式で彼のクレジットなしに彼の発案としか思えないピクトグラムの演出が敢行されたことを知ったときは愕然とした。
 
昨晩は好きなミュージシャンが開会式に感動したという主旨のツイートをしていて、そこに「(困難を乗り越えて集ったアスリートに対し)自分はヒザを抱えているだけだった」という言葉があり、うっ……と言葉を失った。そのツイートを見てから自分がなにに絶句したのかしばらく考えていたのだけれど、卑怯な言葉だと感じたのだと思った。私にはやっぱり現時点で五輪開催をよろこぶことはできず、感動はできず、その時点でスタンスが違うのは差し置いても、ヒザを抱えるだけで済む(いやな言い方という自覚はある)のは紛れもなくひとつの特権だ。もちろん実際には音楽活動を進めているのだろうしそれがとても楽しみではあるけれど、わざわざそんな卑下するような言い方をするのは保身のように私には見えた。
 
自分のことばっかりだな。でも自分のこととして考えてこなかったツケがいまなんじゃないか。怒り、混乱、いまの気持ちを言おうとしてさまざまな言葉を検討したけれど、ほとほと疲れきったというのがいちばん本心に近い。こんな書き方をするとケアを求めているかのように映るかもしれないと一瞬思ったがそうではなく、この期間に自分の率直な気持ちを残しておくのが重要だと思ったから書いた。朝からなにもする気が起きず、爪を塗りかけては除光液で落としている。