詩とバスマット
私がかつて想像した25歳の私はひとりだった。
結婚も特定の相手との交際もしておらず、友達は少なく、都内に独り暮らししていて、時どき演劇や食事のために外出する。
そういうことになる予定だった。
高1のときにミクシィを通じて舞台のチケットを譲ってくれた30歳の美しいお姉さんがいて、彼女は私の将来のロールモデルだった。ワンレンの黒髪ボブで猫を飼ってて、独身で、SM写真のモデルをしていた。
初めて会ったときに「なんか作り話みたいなプロフィールでしょ」と言われたのを覚えている。下北の本多劇場の前で。枯れた声は前の日にバーで飲みすぎたからだと言う。
小雨で、入場列に並ぶお姉さんはグレーのカーディガンを肩にかけていて、その隙間から細い二の腕が見えた。ちょっと出来すぎた光景だと思ったけど、ある程度歳を重ねた美しい人というのは常に美しくあることを自分に課している人だというのが分かりかけてきていた年頃だったので、素直に「綺麗すぎて緊張します」とだけ伝えた。
彼女は劇場の中で、無造作に積まれたパイプ椅子や関係者からの仰々しい花輪を背景にしても、その都度その都度きちんと自ら発光しているように見えた。
私は、自分もいつかああなれると思っていた。
好きなバンドのギタリストより好きな人が現れるわけがないという確信もあったし、なによりも、日常感のあるもの、つまりハレとケでいうケにあたるものすべてをまとめて毛嫌いしていたので、そう思い込むのも無理はなかった。
当時の日記を読み返すと「嫌いなもの…女子高生、男子高生、言葉の通じない子ども、“小市民的幸福”というおぞましい言葉」とか書いてあってなかなかに仕上がっている。当時付き合っていた人がいたら2ちゃんでスレ立てされていたと思うが、当然いなかった。
だから、15歳の自分が夢想した25歳の自分なら、こたつに入って彼氏とピザを食べながら新居のごみの分別方法をググったりはしなかったはずなのだ、絶対に。
洗濯機がまだ届かない洗面所で化粧を落として、顔を拭きながら「そうかあ」と思う。
なにがそうかあなのかはよく分からないけれど、淋しいとか悔しいとか諦めたとかではなく、ただ、「そうかあ」。
新居から実家まではバスが早いが、その日は終バスを逃してしまったので、地下鉄の駅で降りた。
環八通り沿いを乗換駅に向かって歩きながら、ふと出来心で、実家までの徒歩ルートを調べてみる。45分。
お酒も残っていた。後先を考えずに歩き出して、すぐに楽しくなってくる。
日曜夜の環八通りを走るのはほとんどが大きなトラックで、その巨体がアスファルトの上をグゴゴゴと音を立てて通り過ぎていくのを見ていた。トラックもすれ違う自転車も犬を散歩させる人もいなくなると、辺りは静かだった。
携帯を握る手が冷えてきた頃、自販機でコーヒーを買った。いつかの朝、道玄坂を歩きながら「コーヒーとトレンチが似合うね」と言われたことがあったのを思い出して少しいい気分になった。コーヒーをカウチのポケットに突っ込んでまた歩く。
指先が温かいだけでどこまでも歩ける気がした。暗いトンネルを早足で抜けると、通っていた小学校のあった赤羽駅に繋がる交差点が見えた。通学バスで6年間窓から見続けたルートを徒歩でなぞると、自分がスローモーションの中にいるみたいに思えて変だった。
歩きながら考えていたのは、洗濯機が届くまでのあいだに使うタオルとバスマットを実家から多めに持っていこう、ということだった。忘れられない舞台や詩のワンフレーズについてではなかった。
彼氏や家族や新居に持っていく亀のことを考えるたびに、足が少し速くなったり遅くなったりした。私は冬の街灯の下でもはやひとりにはなれなかった。
広いガレージのある家の前を通ったときに、ハイヒールの踵が大きな音で響いた。コツ、コツ、コツという音が山びこのように小さく残響する。昔から人のいない夜中に歩くのが好きだったのは、この音を聞けるからだと不意に思い出した。
公園の水道のホースの写メを撮ったり、iPodでナイトフィッシングイズグッドをリピートで聴いたりしながら1時間かけて歩いた。遠くに月が滲んで見えた。
私は真夜中特有の淋しさをめいっぱい浴びて有頂天になったり、バスマットのことを考えたりを交互に繰り返していた。たぶん、というか確実に、これから先は後者のことを考える割合が少しずつ増えていくのだろうと思った。それを淋しいとは感じなかった。
もしも向かい側から15歳の自分が歩いてきたら、いまの私に気づいてくれるだろうか。