湯葉日記

日記です

(何百回目かの)不安のこと

季節の変わり目になると不安が強くなる。去年だったかおととしだったか、梅雨の時期にも「梅雨がほんとうにだめ」みたいなことをここに書いたのを覚えているのだけれど、私は慢性的に社交不安と抑うつみたいなものを太陽光でごまかしながら生活しており、日照時間がとつぜん短くなったり肌にあたる空気の温度が微妙に変わったのを感じたりすると、ああ、もうだめ、と思ってしまう。プールの消毒槽に入るときみたいな体の震えがくるし、しゃべるのが怖くなる。夜の肌寒さが、絶望と対人恐怖と被害妄想をブレンドした最悪のルームディフューザーの粒子みたいになって部屋を漂っているのを感じる。
 
おぼえている限り、自分の不安は12歳くらいのときからはじまっているので、だいたいこのくらいの時期に自分がこうなることをある種のルーティーンのように捉えているふしはあって、夏の終わりに日照時間が短くなってくると「ああ今年もよくきたね、入りなよ」みたいな気持ちでそれを自分の体に迎え入れている。
 
何度も何度も見てきたはずなのになぜかそれに対する自分の体の反射はまいかい新鮮で、慣れるということがない。いつもまあたらしく人が怖い。家の外が怖い。みんな私のことが嫌いだろうなという考えが寝ているとき以外頭から離れなくなる。のでめちゃくちゃ寝てしまい、夢のなかで大切な人に見捨てられてその不安で起きている。やばいでしょう。やばいんだよ。私は対人不安を長期的に抱えていないひとの社交というものをいまだに想像できません。
 
もうすこし前は、いずれ「なおる」だろうなと思っていたけれど、まあたぶんずっとこうっぽいなという覚悟と受容みたいなものが数年前くらいからある。そうなるとこのルーティーンをもうすこし攻略してすこしずつコントローラブルなものにしたい、みたいな欲求もときどき湧いてくる。けれど一方で、それってすごく私の不安に対して失礼というか傲慢で、予測ができないから不安なものをなにがコントローラブルだようるせえなとも感じる。
 
生理のような周期的な体調不良に対して、おおよそ起きることを予測して対策し、生産性を上げていくべきだみたいな他者からの圧力がこわい。PMSや生理に付随する不調に悩む当人がそのことを考えるのはとても自然なことだと思うけれど、パートナーとか会社とか、なんかよく知らん赤の他人が「改善」みたいなことを言い出すのを見るたびに私はほんとうにだめになってしまう。前に、知人のパートナーが「次はこうしてみようと思いました」と発信しているのを見たとき、あなたは彼女の体のなんなん? って思った。なんでいっしょに新鮮にオロオロしてくれないんだって。でも、すこしでも快適にしていくこと、をお互い目標に掲げることで前に進める人たちもいるんだなってさいきんは思う。私はそれはあんまりわからないので、まいかい気をつかわせて申し訳ないけど嫌じゃなかったらいいなって思うけれど。
 
不安について書くことが不安を増幅させている感覚ももちろんあって、なんでいちばん仕事忙しいときにこんなことをわざわざ記録してるのか自分でさえもわからない。でもなんか、ああ、いまきてんな、というのを凝視しておきたいし、それが過去・いま・未来のどこかの地点にいる自分を助けることも知ってるし、これまでの無数の不安についての記録がぜんぶばらばらであることに若干の愛着も感じる。だから今回も律儀にもてなしたいし、でもほんとうにつらいので、お願いだからはやく帰ってほしい。