湯葉日記

日記です

変わり

 エッセイと小説を混ぜたような文章を読んでいる。おもしろいとたしかに感じながらも、他者について描写するときの断定的な手つきにうんざりさせられ、すこし読むたびに疲れる。ページをめくるごとにこちらの構えも意地悪になっていってしまって、章が終わるころには、はいはいあなたが旅先で出会った“無垢”と“清らかさ”を一身に宿したような青年は眠るときたしかに“いびきをかかなかった”のでしょうね、それであなたは彼が“隣の家の娘と結婚できたらどんなにいいかと夢見ているんだろう”と勝手に想像しているんですね、みたいな最悪の読者に成りはてている。

 主人公である作者が身ひとつで生きている酒飲みや放蕩者、退役軍人らに向けるまなざしは常に親しみのこもったもので、そうでない人のことはそうでない見方で見ているように私には感じられる。本についてしゃべるポッドキャストのなかで、友人の野地さんが「歩きまわることで思索を深められるって話、いろんな小説家とか人類学者がしてますけど、そもそも健脚を前提にしすぎてないすか?」という。ほんとうにそうだと思う。歩きまわれること、生まれ育った家を離れて長旅ができること、ノミのいるベッドの上でも積みわらのなかででも眠れることはどれもすばらしいことだけれど、それをできない人を指さして“無垢”はちょっとね、と思う。

 しゃべりながら、私はいま嫌な読み方をしているし、たぶん語っているよりもはるかに多くのことを読み落としているのだろうとも感じるのだけれど、そのときはそう読んだという記録を残しておくことにも意味はあるのだと思いたい。さまざまな方向に伸びていく枝の1本1本を凝視してみるとすごく見ごたえがあるといった感じの読みもので、いまの自分にはその枝に目をやる体力と余裕がないけれど、5年前、もしくは5年後とかに読んだならもっと没頭できるかもしれないと思う。

 

 フィクションには他者を一方的にまなざし、その視野を固定したまま文字に刻む自由があって、エッセイみたいなタイプの書きものにはそれがない。ないというか、それをやると必ずどこかで人を傷つけるので、そもそも書かないか、書いたことに対する合意を丁寧に得るかのどちらかになる。

 これは前段の文章についての話とは切り離された、私自身の問題の話だが、もっと若いころはそれが全然わかっていなかったから、人に無数に嫌な思いをさせてきた自覚がある。その反省は生きている限りしつづけるべきなのだけれど、それでもなお人について書かせてほしいと思うとき、いつからか自分が2体に分離するようになった。傲慢な自分をノートパソコンの裏側から覗き込むように監視するもうひとりの自分が幽霊みたいに現れる。喩えとかでなく、そちらの自分が数分ごとに出してくる問いに毎回答えながら書いている感覚がある。

 「そこまで書く必要があるのか?」「お前の表現の快楽を優先していないか?」と監視係の自分がいう。めちゃくちゃマイクロマネジメントしてくる上司のよう。けれど人について書くことの責任というのはそういうものだとも思う。そうやってなにかを書くために、あるいは書かないために、自分に染みついた文体をすこしずつ変えていくことにも慣れてきた。変化はたのしい。

 

 けれどバイオリンは違う。バイオリンに対してはそんなふうに思えない。

 高校のころまでバイオリンを習っていた。飽きっぽい子どもだったから、習いはじめて1年後くらいにはもう完全に惰性のモードに入っていて、小学生のころは練習なんて週1回のレッスンの時間以外まったくしなかった。教室に通いはじめてから数年が経つころ、母は往生際のわるい私の覚悟を問うかのように、「(それまではレンタルしていた)バイオリンをいよいよ買うか、習うのを綺麗さっぱりやめるかどちらかだ」と言った。私はその気迫を前にしたらなぜか血迷ってしまって、バイオリンを買ってくださいお願いしますと母に頭を下げた。

 自分の楽器を手にしてからも私は怠けつづけた。それで結局、弾けるんだか弾けないんだかよくわからない、というもっとも悪い状態で大人になり、あっさりとバイオリンをやめた(そのあたりはこのエッセイに以前書いた)。

 ところがさいきん、いろいろあってバイオリンをやりなおしたくなり、柄にもなく熱心に練習したりしている。練習といっても賃貸住宅では思うようにできないので、基本的には音楽スタジオに通っている。そのスタジオがめちゃくちゃおもしろい話はまた今度します。

 

 バイオリンというのは左手の楽器だと長年思っていた。けれどどちらかというと右手、とみせかけて肩甲骨をどうあやつるかの楽器なのだとようやく気づく。右手で弓を持ち、左手で指板をおさえる。弓が弦の上を滑っていくとき、音のスピードや強弱をコントロールしているのは右手の指、というより手首や腕と肩甲骨で、それらのパーツにかける負荷をすこしずつ変えながら弓の重みを分散させていく。その分散がうまくいかないと弓が跳ねたり震えたりする。

 濁りのないきれいな音を出したいと思ったら、弓を常にコントロールできていないといけない。だからいま、4本の開放弦でひたすら同じ音を出しつづけるという耐えがたく代わりばえのない練習をしている。ゆっくりと、鉄道博物館の模型の汽車が走るみたいな速さで弓を動かし、ソーーーー、レーーーー、ラーーーー、ミーーーー、とやっている。それをやりこんだら音階練習にうつる。

 だんだん自分の音のうすさや濁りに失望し、かつて習った曲が弾きたくなってくる。いちおう、ハンガリー舞曲とかエクレスのソナタとか、定番の曲なら指づかいだけは覚えている。弾きはじめると、やっぱりたのしい。曲が弾けることはなによりの喜びだと思う。だから左手がひとりでに覚えているビブラートもかける。かけはじめると、すべての音が崩れ、弓が跳ね、ぜんぶおしまいになる。その繰りかえし。

 だから私がいますべきことは、かつて習ったバイオリンの構え方の、弓の持ち方の、ビブラートのかけ方を忘れ、このたのしさに抗うことなのだと思う。頭ではわかっていてもつい速弾きとかしたくなってしまう。愚かめ。いろんなことを変えなきゃいけない、と思いながら譜読みにつかっていた鉛筆をもち、覚えたてのやわらかい持ち方で弓を持つようにそれを掴んでみる。上下に動かしてみると落ちそうになり、小指がつっぱる。つっぱらせることではじめて鉛筆が安定する。これじゃいけないと思う。いけないと思いながら、まだ同じ持ち方をしている。変わることがこわい。それがいつかおもしろくなるまでこの記録をつづけていたい。