湯葉日記

日記です

これより海中

8月の最終週になるとコンビニに花火が売っていないなんて知らなかった。すべての棚をなんど確かめても、そのニューデイズにはUNO以外の一切の玩具がないのだった。

店の外のガラスに背を預けてぼんやりと立っていると、人波の向こうに友だちが見えた。こちらに気づいて手を振る彼女の反対の手首にはうすいビニール袋が提がっていて、そこから星マークのロゴの缶ビールが2本透けている。歩くたびにフラミンゴのかたちの大きなイヤリングが耳もとで揺れる。

半笑いで近づいて行こうとして幾度も人にぶつかりそうになった。平日の千葉駅の構内で友だちと私だけが異様に彩度の高いワンピースを着ており、場からあきらかに浮いていた。

 

鈍行列車のボックス席でビールを飲みながら喋った。窓から見える風景がパチンコ屋、ドラッグストア、ラブホテルの三原色だったのが、列車が千葉から南に向かうにつれすこしずつ色を失ってゆき、しだいに草花の淡い緑だけになった。数秒で抜けてしまう短いトンネルが増えてきて、視界が暗くなるたびに耳が律儀につんと詰まった。

陸橋を通るとき、光る川を見下ろしながら「水がたくさんあるのが好きなんだよね」と友だちが言った。私も大きな水のかたまりならなんでも好きだから、うれしくなる。

 

 

鵜原無人駅で、改札には猫が2匹いた。

グーグルマップに従ってしばらく歩く。かきあげようとした髪に指がなかなか通らなくて、風のなかに潮が混じってきているのだと気づいた。歩き続けていると遅れて海の匂いがした。

 

なにかの最終回みたいな朽ちたトンネルのなかを進んでいるとき、ほんとうに突然、興奮とさみしさに一気に襲われた。泣きだしそうになってしまって、私きょう鞄にシャボン玉入ってるんだよね、と脈絡なく大声で言った。
前を歩いていた彼女が私を振りかえり、無言のまま背負っていたリュックを腹側に抱えなおした。まさか、とその時点で笑いそうになったけれど、実際に見るまでは笑うまいと思ってこらえた。

リュックからスッと出てきたのが剣みたいに長いシャボン玉だったとき、不意をつかれて笑ってしまった。サイズ感!と叫ぶと彼女もゲラゲラ笑った。笑い声がトンネルじゅうに反響して、その重なりを聞いていたらもっとさみしくなってくる。

 

トンネルのさきの道にはまるで人影がなかったから、iPhoneから音楽を流しながら歩いた。全曲シャッフルにしていたら若者のすべてが流れてきて、ピアノの一音目で情緒がくるう。真夏のピークが、という志村の歌い出しに被せるように「あーもう」「あーこれは」と言い合った。車をよけて道の右端を歩いたり真ん中を歩いたりするたびに、スピーカーの音が揺れて大きくなったり小さくなったりした。

 

正面に海が見えて、一直線に坂を下りた。カーブを曲がってのろのろと坂を上ってきたトラックとすれ違うとき、運転席のおじさんに呼び止められる。ここね進入禁止だよ、怒られちゃうよ。すいませんと言って来た坂をまた上った。いまのひと漁師っぽかったね焼け方が、と話していたらあっけなく海岸に着いた。

 

強い風に煽られながら海中展望塔を目指した。遠くのほうに、海から生えた灯台のような背の低いたてものと、そこに向かって伸びる白い橋が見える。橋を渡りはじめると、演歌のPVの背景みたいに視界の両端で波がざぱんと打ち上がる。風速計のプロペラは止まっているように見えたけれど、そうではなくてものすごい速さで回転しているのだった。轟音と波が橋脚をなぐる振動で橋のうえはほとんど嵐だった。

 

 

展望塔の扉を閉めたときにお互いの笑い声がようやく聞こえた。一周するのに30秒もかからないであろう狭い塔はその真ん中が螺旋階段になっていて、 地下につながっていた。

病院を思わせる青い階段を降りる。ぐるぐると回遊し続け、酔いそうになったころに手書きのプレートが頭上に見えた。これより海中、とプレートにはあった。

 

 

強風の影響で水はにごった色をしていた。潜水艇のようにくり抜かれた楕円形の窓が塔の360度をとり囲んでいる。先にいた子ども連れの4人家族は、私たちの姿を見るとしずかに階段を上って地上に戻っていった。

窓に顔を近づけると魚の群れがいた。しばらくイシダイやマダイの泳ぎ方を観察していたけれど、魚サイドからしたら私たちのいるこちら側が水槽なのだ。いま急に窓が割れたら私たちは海の藻屑になる、と妙な迫力で友だちが言う。

魚の通らない窓もあった。その窓から外を見ていると、光が筋になって海中に入ってくる場所があって、そのはじまりをたどると水面だった。

 

むかし、ツイッターの質問箱に「小さいころ、空を飛ぶ感覚を知ってたんです」というメッセージを送ってくれたひとがいた。いまとなっては飛べなくなってしまったじぶんの筋肉量の少なさが歯がゆいとそのひとは嘆いていて、文章はこう続く。私の頭のなかでは、腕を振るだけで大きな団扇を上下に振ったみたいな抵抗がないと飛べるはずがないんです。その抵抗があったとき、どう腕をしならせたらうまく体を浮かすことができるのか、知っているのにできない。水に浮かぶのとはちょっと違って、あれよりもう少しだけ内臓が自由になって、胴体の軸が心もとなくなるせいで、いまにも体がくるくる回りそうで。

 

揺れる水面を窓から見上げていたら、なんども読み返したせいで覚えてしまったその文面が頭をよぎった。そのひとの言っていたことはたぶん正しい。私も小さいころ、光が届かないくらい深い海の底を泳ぐ感覚を知っていて、その感覚がとても似ているものだったから。

 

勝浦のコンビニなら花火売ってないかなあと友だちが言った。私は実をいうとあのメッセージを送ってきてくれたのが彼女だったらいいと長いあいだ思っているのだけれど、たぶん違うし、本人には伝えていない。海中には30分いた。