湯葉日記

日記です

「花束みたいな恋をした」

『花束みたいな恋をした』を見て変な気持ちになり、劇場の周りをしばらく犬みたいにウロウロしてしまった。カップルと思しきひとたちの何組かがスクリーンから出てきてはめっちゃ切なかったね、すごかったねと言い合いながら通り過ぎていった。人の少なそうな喫茶店を見つけて入るともう閉店間際で、あと20分だと言われたのにチョコレートバナナパフェを頼んでしまう。しかたなく、牛丼をかき込むときに近い速さでパフェを食べた。
 
メレンゲだかクッキーだかわからない薄茶色の謎の棒をかじりながら、1年前にも似たような日があったのを思い出した。下北で人と会った帰り、新宿まで向かう電車のなかで「彼氏と別れた」というLINEがきて、そのまま京王線に乗り換えて友だちの最寄り駅まで行ったときのこと。チェーンの居酒屋で飲んで、駐車場みたいなバーで飲んで、そのまま彼女の家に泊めてもらった。理由も思い出せないけれど私は彼女の元恋人にやたら苛立っていて、「ずっといやなやつだなと思ってたよ。別れてよかったじゃん」みたいなろくでもないことをたしかずっと言っていた。その翌朝、彼女の家から帰る電車を途中で降りて、多摩川近くの喫茶店でひとりでパフェを食べたんだった。
 
 
 
 
映画のなかで麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、終電を逃したあとのカフェで初めて言葉を交わしていた。そのカフェの奥の席にはたまたま押井守がいる。押井守に気づいた麦は、同席していた他の男女に「誰?」と聞かれ、「犬が好きな人です。あと立ち食いそば」と返す。同席のふたりは当然ポカンとするのだけど、そのあと麦を追いかけていった絹が「押井守は広く一般常識であるべきです」と言い、麦は自分の言葉が通じていたことにうれしくなってしまう。その後、麦の部屋を初めて訪れた絹は、いしいしんじ小山田浩子穂村弘長嶋有ほしよりこが並んだ彼の本棚をじーっと見て、「ほぼうちの本棚じゃん」と笑う。
 
『花束~』を見ながら、ずっとハラハラしていた。ふたりが固有名詞を唯一ののりしろみたいにして恋愛感情を強めていくたびに、そっちは危険だよ、やめときなよ、と大声で叫びたくなった。だって、同じカルチャーを摂取していることを相性のよさやときめきに結びつけてしまうことはそのまま、それを通っていない人を見下したり排除してしまう極端さにつながっている。
 
途中、就活をはじめたふたりは「ふつうになるって難しい」と社会との距離に悩む。でも、彼らの「ふつう」は言ってしまえば凡庸やつまらなさとほぼ同義で、「自分たちはふつうじゃない」という特権意識の裏返しなのだった。そもそも麦と絹が前提にしているカルチャー(サブカルチャー)という共通言語だって、また別の種類の社会そのものでしかないのに。そういうふたりを若くて愛おしいなと思えるほどには私はまだ大人ではないから、自分の出身校の芸術学部のキャッチコピーが「ふつうじゃない、がふつうです。」というやばいやつだったことを連想してむかついてしまったりした。
 
情報の海のなかでお互いの共通の固有名詞だけを浮き輪みたいにして暮らしていくこと、そしてその共通項の数が減れば減るほどふたりの距離が遠ざかってしまうこと。これが東京で2010年代に恋愛するってことなの? と思ったら、なんかすごく、つらくなってしまった。坂元さんちょっとこれは冷たすぎないですか、と思って、シーンが美しければ美しいほどに苦しさが増していった。
 
映画館を見終えてすぐに思い出したのは、『カルテット』の6話~7話で書かれた、真紀(松たか子)と幹生(宮藤官九郎)という夫婦の出会いと別れのことだった。
 
真紀は結婚する前、幹生が薦めてきた詩集を借りるのだけど、そのおもしろさが全然わからないでいる。ある日の夕食どき、熱いパエリアを持った幹生が鍋敷きを探しているのを見て、真紀はついその詩集をテーブルの上に投げてしまう。幹生はひそかにショックを受けて、そのことが彼の失踪という大事件につながるのだけど、真紀は彼がいなくなったあと、「こんなおもしろくないものおもしろいって言うなんておもしろい人だなあって、よくわかんなくて楽しかった」と結婚生活をふり返る。私にとってはこの「こんなおもしろくないものおもしろいって言うなんておもしろい」が恋愛そのもののような気もするのだけど、ふたりはけっきょく別れてしまう。だから「おもしろいものをおもしろいって言い合いたい」が恋愛とイコールである麦と絹がその期間を過ぎたらすれ違ってしまうというのは、考えてみれば当然のことだ。
 
で、でも、と妙に食い下がりたくなる気持ちが捨てられなくて、それはなんでなんだろう、とずっと考えている。
 
映画のなかに出てくる数少ない、固有名詞以外のふたりの共通項に、「電車に揺られる」という表現があった。夜道を歩きながら「電車に揺られていたら、」と話し出す麦に、このひとは「電車に乗る」じゃなく「電車に揺られる」と言う人なのだ、と気づいた絹がうれしがるというシーンだった。私にはそのふたつの違いってそんなに、というかぜんぜん重要じゃないのだけど、重要じゃないからこそ、このふたりだけをつなぐすごく大事なものなんだろうと思った。
 
こういうふたりだけの言葉を集めていけたならふたりはもっと続いたんじゃないか、と感じてしまうのは、私があまりにひととひとの関係に対して楽観的だからだろうか。そう友だちに聞いたら、「でもその先まで行けたとして、恋愛が恋愛のままで続くっていうのはちょっと嘘じゃない?」と言われて、恋愛、そうか、恋愛なあ……と思う。
 
坂元裕二は映画に関するインタビューのなかで、なんらかの枷や障害を設定することでドラマがおもしろくなる、というセオリーをすべてとり払ったところで「恋愛」それ自体を描きたかった、と言っていた。彼はむかし、自分をどんな脚本家だと思いますか? という質問に、「一にお弁当づくり、二に脚本づくりの脚本家ですかね。仕事がどれだけ続こうが朝方まで飲もうが、ルーティーンとして子どものお弁当づくりをしないと一日がはじまらない」というような答え方をしていたのだけど、ストーリーやドラマの前にまず日々の営みがあるということを書き続けているひとだから、『花束~』でも当然、恋愛が終わったそのあとにも日々は続くことが描かれる。種明かしのようにお互いの嫌だったところを言い合って笑う麦と絹を見て、私はようやくちょっとホッとしたし、恋愛のままではふたりがここにたどり着けなかった、という事実に傷ついてもいた。
 
恋愛ってほんとうに単なるシーンなんだろうか。過ぎてしまうから、一瞬だから美しいんだろうか。花束を抱えた姿でGoogleストリートビューに写っていた麦と絹はたしかに恋愛の最高潮のシーンにいて、それが当人たちの気づかないところでひそかに記録されているということは、まぎれもなく美しいことだった。
 
でもなんか、この美しさに騙されてたまるか、と思う自分もいる。奇跡みたいに思えたその1枚だって、ほんとうはたかだか2、3年で更新されてしまうGoogleのパノラマ写真の一部で、それ以上でも以下でもない。永遠になったわけではなくて、ただ過去の過去性が強化されただけなのに、麦は素朴にそれを喜ぶ。このシーンで私はぼろぼろ泣いてしまって、泣きながら「むかつく」と思った。むかつくから、最後にファミレスで出会っていた麦と絹じゃないふたりが、ストリートビューに写らないぜんぜん別の東京のどこかで、イヤホンを半分こしたりしないで、幸せに暮らしていてほしいとばかり祈ってしまう。