湯葉日記

日記です

狐の祭りに参加する

じつは20年前から狐に憑かれているのだけど、住んでいる街の近くで狐の祭りがあると聞いて縁を感じ、行くことにした。祭りは大晦日の晩から深夜にかけて続くという。誘ってくれた友人とその祭りで年を越す約束をして、年末を待っていた。
 
30日、朝方に眠っていたら、人のいない小道をひとりで歩く夢を見た。小道の行き止まりには赤い鳥居があって通れないので、その手前にあるフェンスを乗り越えて大通りに出ようとしたら体が急に固まる。手を伸ばそうとしても動かなくて、うしろからなにかが近づいてきているのだけが気配でわかった。一刻も早く人のいる通りに出て助けを呼びたいのだけど、うしろからきているものが人間じゃないのであんまり意味ないかもしれないなと思う。なぜか四方が鳥居に変わっている。
 
目を覚ましたとき、ありがちっぽい夢だけれどタイミングがタイミングだけにやばいと感じた。翌日、大晦日の朝にも同じ夢を見たので怖さのあまり泣いてしまう。けれど友人と約束をしているし、怖いからといって祭りへの参加は断念できない(私ひとりの祭りではないのだ)。彼女がくる昼過ぎまでにはまだ時間があったので、とりあえずその前にお雑煮の出汁をとることにしてキッチンに立った。
 
 
 
父方の叔母が亡くなったのはもう20年前のことだ。私は叔母のことをほとんど覚えていないのだけど、私の誕生日プレゼントに霊魂とか転生とか書かれた絵本を何度も贈ってくるので、そのたびに母が家で困っていたのはよく覚えている。
 
父方の実家は稲荷神社だった。叔母が新興宗教にはまって稲荷の鳥居やら狐の石像やらを壊してしまったというのがいつのことだったのかはよく知らない。ただ、神社が解体されてしまった年の冬、実家で飼っていたおとなしい犬が発狂したように吠え始めてご近所さんから苦情がきたという話は当時よく聞いた。犬は結局同じ年のクリスマスイブに首輪を噛みちぎって逃げてしまって、それからもう二度と戻ってこなかった。私も見たことがあるのだけど、タケという名前のすごくいい犬だった。「タケは山に帰った」と叔母は言っていたらしい。
 
叔母は7人きょうだいの長女で、神社を壊してからしばらくして亡くなってしまった。それからそのひとつ下の弟が叔母と同じ歳で死に、その下の弟も妹も、その次も同じ歳で死んだ。みんな同じ歳で死ぬことに一家が完全におののき始めたころ父の番がきたのだけれど、父だけはなぜか無事にその歳を乗り切った。
 
……という話を飲み屋ですると盛り上がるので、なにかオカルトや都市伝説のネタがないかと振られたときはよくしてきた。「じつは父の一家が狐に憑かれていて」と話し始めると絶対に場が沸くのでありがたかった。
 
けれど半年ほど前、ゴールデン街の飲み屋で叔母の話をしてから「父だけはなぜか助かったんです」と言うと、その日の店長だった方が「狐って末代まで呪うってよく聞くじゃないですか、だから子どものいるお父様だけは“生き残らされた”んじゃないですか」と言った。末代? とすこし考えてから、「話すんじゃなかったです」とだけ伝えた。私はひとりっ子で、子どもをつくる予定もない。ということで私はいま末代としておそらく狐に憑かれたまま生きているので、足を運んだ先の神社にお稲荷さんがあると念入りにお参りするようにしている。
 
 
 
 
狐の行列というのがその祭りの正式名称だ。江戸時代、大晦日の晩になると関東じゅうから集まった狐が装束を整えて王子の稲荷神社に詣でていたという伝承があるらしく、その伝承をもとにした伝統行事なのだという。祭りの参加者は和装に狐の面をつけ、狐火の提灯を持ってぞろぞろと歩きながら稲荷神社を目指す。
 
じつは和装行列の申し込みには間に合わず、その輪に入ることは残念ながらできなかったのだけれど、周囲で見物している参加者も狐面をつけるのは自由ということで私たちも簡易的な狐になることにした。友人は趣味で狐面を集めているので、祭りのために狐面を持ってきてもらうことにした。
 
 
 
鍋の火を止めてうたた寝していたら友人がきた。お雑煮の続きをつくって食べたり日本酒を飲んだりうどんに蟹を乗せて食べたりしながら、こういう生活がずっと続いたら楽しいなあ、と思った。
 
途中、買い出しをするためにマンションの玄関を出るとき、正面ではなくサイドの花壇の脇を抜けて通ると近道になると教えたら、友人が悪い顔をして「ふーん……なかなかツウじゃん」と言うので爆笑してしまった。それからタガが外れたようになにを見ても面白くなってしまって、蟹を見ては笑い、日本酒に浮かんだ金箔を見ては笑い、ゲラゲラと笑い続けて夜がきた。
 
紅白歌合戦をBGMに、目と口を真っ赤に塗る化粧をする。狐面をつけている上、友人はチャイナテイストの、私はゴシック感のある黒い服を着ていたこともあって、「私たちいま狐っていうかバンギャっぽくなってるよね?」と確認し合う。せっかくだからバンギャっぽい記念写真を撮ろうという話になって、友人が狐のかたちにした両手をおもむろに顔の前でクロスしたので涙が出るほど笑った。自撮りをしながら、もしも私が私に憑いている狐だったらこの時点で迷わず私を絞め殺していると思うから、私に憑いている狐はやさしいと思った。
 
 
 
家を出ると、寒さで息が白い。歩いても歩いても祭りの気配はしなかった。ポケットに手を入れると、ラップにくるんだ塩とトルコ料理屋で買った謎のお守りが指先にふれて冷たい。どちらも念のためと思って持ってきたもので、もしも急に私が鳴き出したり人の言葉を理解できなくなったりしたら塩をまいてくれ、と友人に伝えていた。謎のお守りはおそらくなんの役にも立たない。これじゃなくてホッカイロ入れてくればよかったと思う。
 
しばらく進んでいくと遠くの商店街のアーケードの下がぽつぽつとオレンジ色になっているのが見えて、あそこから先が祭りだな、とわかった。近づいていくと狐火の提灯がすこしずつ増えてきて、しだいに狐面をつけた人たちが通るようになり、外国の観光客の人たちも多く、道はすぐににぎやかになった。
 
篝火にあたったり出店のホットワインで暖をとったりしながら、稲荷神社を目指して歩き続ける。年が明けるまでにはまだ1時間ある。寒くて寒くて、指先からすこしずつ体のいろんな部位の感覚がなくなり始めていた。2日連続で見た夢のことを突如思い出してすこし怖くなる。
 
線路にかかる高い歩道橋を通るとき、息を吸おうと上を向いたらちょっと引くくらい星が出ていた。星すごいきれい、と思わず立ち止まって叫ぶ。「ほんとに星? 向こうに見える東横インじゃなくて?」と聞かれて東横インの明かりの反射だったらどうしようと思ったのだけど、無事にちゃんと星だった。友人も上を見てうわっほんとだ! と叫んでくれたのでうれしくなる。電車がきてしまうと風が吹いて寒さが強くなるから、その前に急いで歩道橋を渡りきった。
 
歩き続けて足の感覚がゼロになったころに神社についた。0時ぴったりから始まる初詣のための列にはもう人が並び始めていたから、私たちは年内に先に済ませちゃおうか、と隣の列に並ぶ。参拝の番はすぐに回ってきた。
 
お賽銭を投げ入れるときはどうしようなにを祈ろう、なにも考えてなかった、と思ったのに、手を合わせると自然に浮かんでくるのは周りの人たちの健康のことばかりだった。狐や祭りや信仰みたいなことは一瞬頭から消えて、すこし前に手術を終えて退院した父のことをごくふつうに考えた。家族ができるだけ元気になりますように、と願ったあと、2019年に会った人たちのことを思った。自分にとって2019年はしんどい年だったけど、しんどさを一緒に背負おうとしてくれたり楽しさに意識を向けようとしてくれた人たちがいたし、なによりも、しんどさはしんどさとして存在しているままでもやっぱり生きていてよかったという気持ちになるできごとがたくさんあった。道端に寝て車が轢いてくれるのを待っていた数年前の夜のことを笑い話として人にできる年がくるなんて思わなかった。思い浮かんだすべての人たちがすこしずつ健康であってほしい。
 
 
 
参拝を終えて行列の到着を待っていたら、寒さもあってか、おしくらまんじゅうのように人が固まってきた。前後左右からいろんな国の言葉と一緒に1 minute、というささやきが聞こえる。遠くのほうがざわつき始めたのを感じて思わず横を見ると、友人が「東横インじゃなくて?」と言う。
 
東横インじゃなくて、新しい年が近づいてきているのだった。誰かが口火を切ると、そわそわしていた人たちが一気にHappy new year、と言い始めた。私たちもすこしだけ戸惑ってから英語で言って笑った。人にもまれて落ちてきた狐面をかぶり直す。こんなにもあっけなく、うれしく、2020年がきた。

うどん会

28日からひとり暮らしみたいな生活をしている。父はまだ入院しているのでちょくちょくお見舞いに行くのだけど、手術のせいで声帯に傷がついたらしくあんまり声が出ないのでずっとささやき声で会話している。

父は喉をかすれさせながらも病院の悪口を延々言っていて(「お粥から液体のりの味がする」「ここは独居房か」「地獄みたいな病院だな」)、元気そうでなによりだよと安心する。父のせいでこのごろ私まで小さい声でしゃべる癖がついてしまった。

 

 

 

先週、名古屋のひとから実家に味噌煮込みうどんセットが10食分届いた。父は入院してるし母は酒飲みなのでうどんを消費できる人員がいなかったらしく、私の家にうどんセットがそのまんま届いてしまった。

段ボールに入った10食分の生うどんを見て呆然としてしまい、最初の5食はどうにか具材を工夫しながら朝、昼、夜、朝、夜と食べたのだけどもうこれ以上味噌の匂いを嗅いだら泣いてしまうというところまで追い詰められて、ツイッターでリプライをくれた友だちをきのう家に呼んだ。

友だちは笑っちゃうくらいおいしそうにうどんを食べてくれて、「僕おいしく食べるのうまいんだよね」と言われてあー呼んでよかったと思った。おかげで2食分を消費した。1食分は近所に住んでいる友だちに分けた。

残り2食分になったところで別の友だちふたりが味噌煮込みうどんを食べたいと連絡をくれたので快諾してまた家に呼んだ。冷蔵庫を開けたらうどん2玉がドーンとあっておまえの命もあと数時間だからなと上機嫌でいたら、信じられないことにもう味噌煮込みペーストがない。

どうやらうどん10食分に対して味噌煮込みペーストは8食分しかついてなかったらしく、けれど「味噌煮込みうどん会をします」と宣言してひとを呼んでしまっている以上味噌煮込みうどんをしなければ嘘になると思い、家にあった信州の白みそを使ってオリジナル味噌煮込みうどんをつくった。

こうなってくるとたくさん届いたから仕方なく、とかではなくふつうに趣味で味噌煮込みうどんをしているひとだな私は、と思って複雑な気持ちだった。できあがったオリジナル味噌煮込みうどんはペーストよりもおいしかったのでよかった。

 

 

 

友だちがうちのルンバを見て「へえ、思ったより大きいんだね」と犬みたいな扱いをしてくれたのでいいやつだなマジでと思う。彼らとこたつでみかんを食べながら孤独のグルメを見たりしていたら年末のコスプレをしているみたいで笑ってしまった。友だちのひとりが朝までうちにいてくれて、YouTubeうしろシティかが屋のコントを見たりして楽しかった。

朝の6時半、友だちをバス停まで送ったら近くのニトリのでかい看板を境目にして半分が夜、半分が朝の空になっていて冬はなんでも綺麗だなと思う。

 

 

 

きょうは大学の友だちがお昼にきて鍋をする約束をしていたのだけど、起きたら12時58分でドヒャアとなった。彼女に買い物を頼んできのうの晩の洗い物をしていたら部屋から味噌の匂いがするのに気づいて泣きそうになってしまう。「味噌以外ならなんの鍋でもうれしい」と伝えたら鍋は水炊きになった。

水炊きを食べながらドキュメント72時間スペシャルを見て、樹木葬の回でボロ泣きしてしまった。私も死んだら樹木葬がうれしいな、桜の下に埋めてほしいと思った。

友だちはそのあと好きな人に会いにいく予定があったらしくて、改札で見たうしろ姿はキラキラしていてかわいかった。好きな人に会いにいくひとを見送るのは人生のうれしいランキングベスト50に入るなと思う。

 

 

 

友だちを見送ってひとりで歩きながら、あ、なんかこれは家についたらさみしくなってしまう気がする、と思って花屋に寄った。赤い花をたくさん買う。

花を生けながら案の定さみしかった。いままでひとり暮らしというのをしたことがなくて、母と父もよくしゃべるひとたちだったからなんの音もしない家というのに慣れていないのだと思った。

マンションの上のほうの階でも意外と車の音って聞こえるんだなと思って、ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうだったのでSpotifyT.M.Revolutionを聴くことにした。

さみしいとかあんまり思ったことがなかったけど、それは周りのひとたちがさみしくなくしてくれていたんだなと当たり前のことにびっくりした。あしたもまた友だちに会えるのでうれしい。きょうはルンバとふたりで晩酌している。

食道がない

朝、手術室のある階に着くと、父が病室から出てくるところだった。のろのろと看護師さんのうしろを歩いていた父は私に気づくと「お、おう」と言った。どうやら手術着姿をひとに見られることに照れているのらしかった。
 
角を曲がるとき、鳥をつかまえるみたいにして別の看護師さんが父に手術用の帽子をかぶせた。うしろから母と私が「なんか手術って感じ」「手術って感じするよパパ」と声をかける。
 
手術室の前にくると父は立ち止まり、「行ってくるから」と右手を差し出して握手を求めてきた。突然のことだったので面食らって、右手に持っていたスマホを持ち替えようとして落としてしまった。拾うのにもたついて母が怒る。ごめんごめんと謝っているあいだに父は消えていた。
 
 
 
手術中の家族の待合室は6畳ほどの窓のない部屋で、長椅子にはすでに何組かの家族が座っていたのでしかたなくパイプ椅子に座った。食事などで短時間離れるのはいいけれど、基本的には手術が終わるまでここにいてくださいねと言いつけられていたので気持ちが暗くなった。ここで10時間近く待つかもしれないのかと思う。「正気か」とあとから入ってきた母が言う。
 
待合室には『手術室からこんにちは』というタイトルの学級通信みたいな紙が貼ってあり、そこでは手術室の機器やスタッフの紹介がされていて愉快だった。ひょっとするとこういうギミックが随所に隠れている病院なのではと一瞬期待して自販機に飲み物を買いにいったけれど、『手術室から~』以外におもしろいものはなにも見つからなかった。
 
待合室に戻ると部屋の空気があきらかに淀んでいて、いやだなあと思う。家族の手術を待つひとたちはみんなマスクをして暗い色の上着に身を包み、荷物を抱えながら床を見ていた。部屋にはテレビがあるのに誰もそのリモコンにさわろうとしないのも異様だった。「手術終わったらパパの食道の写メ撮らせてもらおっかな、ね」と私に耳打ちしてくる母の声だけが明るい。
 
 
 
食道がんの手術というのがどんなものなのか、私にはいまいちイメージできない。
母が受けた説明によると、食道を取り除き、胃も一部取り除き、残った胃を引き伸ばして食道の代わりにするのだという(父の胃も自分がそんなことになってびっくりしているだろう)。父のからだからは胃の機能がなくなってしまうので、手術後は体内で消化ができず、ごく少量ずつしか食べものを受けつけなくなる。
 
つらいだろうなと思ったが、同時に、父ならたぶん食道を失ったことを笑い話にしたがるとも思った。もしも手術後に切除した食道の写真を撮らせてもらえたら、それをラインのアイコンにしたりするんじゃないか。父本体にはもう食道がないから、食道の写真と組み合わせたらようやく父完全体になるなと考えていたら笑ってしまった。隣で「手術の説明聞いてるときねパパびびってたよ」と言う母は楽しそうで、こんな女たちに囲まれている父は気の毒だと思った。
 
 
 
2時間ほどして待合室の電話が鳴った。近くに座っていた女性が受話器をとり、「私です」と言って部屋から出ていった。そのひとの家族の手術が終わったみたいだった。そのあとも何度か電話が鳴り、家族たちが入れ替わっていった。
 
コンビニ行ってくる、と言って部屋を出た。乾燥で喉が痛かったし、どこでもいいから待合室以外の場所に行きたかった。コンビニではマスクとのど用のスプレーを探したのだけど、医療機関に市販の医薬品は売ってないよなと途中で気づいた。おかゆとウィッグと折り紙のコーナーが充実していた。
 
飴を買って待合室に戻ると若い男性がひとり増えていた。頭を時どき揺らして不安そうにしている。同い年くらいだろうか、お母さんかお父さんが手術中なのだろうか、心配だろうなと考えていたら、外から「おめでとうございます!」という声がした。そのひとは立ち上がって顔を押さえながらゆっくりと部屋を出ていった。待合室にいたひとたちが「赤ちゃん」「赤ちゃんだ!」と初めて声をあげる。
 
外を見ると保育器のなかに本当に小さな子どもがいた。産声は聞こえないけれど生きているのがわかった。しばらくして同じ方向からもういちど「おめでとうございます!」が聞こえた。同じお父さんがこんどは走っていく。「双子?」「双子だ!」「三つ子かもしれない!」と待合室が沸いた。みんな笑っていた。私は泣きそうになってしまって、母に話しかけられる前にトイレに駆け込んだ。
 
 
 
ところで私たち親子はなかなか呼ばれない。
すこし仕事をしたかったから、母に車の鍵を借りた。「音楽を聴きたかったらブレーキ踏んでからスタートを押すと画面がつく」と説明されたので「ブレーキって?」と聞くと怒られた。しかたなくひとりで駐車場まで歩いていったけれど、母の車がどれなのかわからない。車ってだいたいみんな同じかたちをしている。また怒られるのはいやなのでラインで「ナンバーなんだっけ」と聞いたらなぜか車種で返ってきた。わからないから車種でググって色の記憶を頼りに車を見つけた。
 
運転席に座るのは生まれてはじめてだった。「ブレーキ」と調べて出てきた画像を頼りにブレーキを踏んでスタートボタンを押すと、母が言っていたとおりにカーナビの画面がついた。
 
周りに機械のボタンがたくさんあるのがいやですぐに後部座席に移る。前の夜は自分の咳と怖い夢のせいで何度も起きてしまっていたから、横になったら猛烈に眠くなった。いいや寝てしまおう、と思った。ぜったいに怖い夢を見ないでくれ、いま見たら怖いからと自分に祈る。iPhoneをカーステにつないでラジオを流し、そのまますこしだけ寝た。
 
 
 
ラインの音で起きて待合室に戻ると、母はもういなかった。受付に行くと面談室という部屋を案内された。ドアを引くと、母よりも先にプレートの上に置かれた臓器のようなものが見えた。
 
「おおお」と思わず言ってから部屋に入ると母と外科医がいた。知らない先生だった。母が「食道と胃の一部だって」と先生より先に父の臓器を私に紹介した。父の食道は大きいベーコンみたいに引き伸ばされて四隅を画鋲で留められていた。その下にはジップロックに入った胃の一部もあった。
 
いまはまだお父さんはICUにいます、麻酔をかけたままでいるけれど、このあと容態が安定してきたら麻酔を切らすので覚醒するはずですと先生は説明してくれた。手術は9時間近くに及んだはずだったから、ありがとうございます、本当にありがとうございますと何度も言った。先生の手は手袋をしていたせいか、砂糖菓子の表面みたいに白くにごって乾燥していた。この手が、この手で! と思った。
 
母は先生に「食道の写メ撮ってもいいですか?」と聞いていたけれど、「だめです。個人情報なので」ときっぱりと断られていた。たしかにものすごく個人情報だ。
 
 
 
夜になりかけていて、待合室にはもう誰もいなかった。
帰り際、10分間だけICUに立ち寄らせてもらうと、父はいろんなチューブをくっつけられて半開きの目で寝ていた。目やにで瞳がどろっとしていた。母と私は「すごい」「すごいね」「寝てるからなんもできないね」と言い合った。よく見ると首や脇腹に貼られたガーゼの下に縫ったばかりの跡があった。
 
私もいちど胸を手術したことがある。そのときは怖がっているところを見られたくなくて、付き添おうかと言う家族にこないでほしいと頼んだ。けれど手術が終わったあとに「いまから病院に迎えにいきます」と連絡をくれたひとがいて、そのひとは歩けない私を支えて帰り道を送ってくれた。自分が不安だからきたのとそのひとはなんども言うので、うれしくて泣いてしまって胸の縫い傷に激痛が走った。そのとき、きっと母も父も不安だからきたかったのだと初めて思った。私はばかだった。
 
母は一瞬だけ父の顔に近づくと、「よくがんばった」と言っておでこを撫でた。母は不安からようやく解放された顔をしていて、それを見ていたら私の不安も徐々に解けていった。「赤羽のすしざんまい行って帰ろう」と母が言った。
 
 
 
きょう、来週にはICUを出られそうだと母からラインがあった。胃が食道になってしまった父の声はぼそぼそして聴きとりづらいらしい。麻酔で眠っていたときの記憶があるかどうか、会ったらまず父に聞きたい。

笑顔チャンピオンだった日

リクルートが派遣スタッフ向けにAIを使った「笑顔研修」を始めたというニュースを見て、某テーマパークでアルバイトしていたときのことを思い出した。AIからじゃないけれど、私も笑顔研修を受けたことがある。
 
特定されてしまう可能性があるのでボンヤリした書き方になるが、2015年前後に働いていた。テーマパークで働いている人というのはおおよそそのパークの大ファンか接客が生きがいみたいな人なのだけど、私はテーマパークのお姉さんというのを人生で一度くらいはやってみたい、という好奇心でそこにいた。
 
働くことが決まったあと、配属先の希望を3つ出した。キャラクターの中の人(着ぐるみ)、グッズショップのスタッフ、インフォメーションの順番で出したら第3希望だったインフォメーションに配属されることになった。インフォメーションとは入園ゲートに立ってチケットを確認したり迷子の放送をしたり道案内をしたりする人たちで、パークの「顔」にあたるのでけっこう緊張する。
 
研修がぜんぶで何回あったかは覚えていないが、アッこんなたくさんやるんですねとちょっと面倒になるくらいの回数と長さではあった。全体研修が終わったあと、インフォメーションやショップスタッフといった「お客さまと会話をするのが仕事」の部署の人たちだけが呼ばれ、いわゆる接客のイロハを学ぶ日が何度かあった。そのなかの1回に笑顔研修はあった。
 
 
 
「じゃあこれからみなさんにはとっておきの笑顔人(えがおびと)になってもらいます」と研修先の先生が言った。
笑顔人という言葉にこちらがなにか感じそうになるより先に、その人は左右の口角をキッと上げ、両方の手をおへその下で組んだ。
彼女が腹話術のように口角を上げたまま「こんなふうに笑ってみてください」と言うと、研修会場からは「オオオ……」という感嘆の声が上がった。
 
笑顔研修はたしか、その日6時間ほど続いた研修のラストのプログラムだった。私ふくめパークのスタッフたちは皆疲れていたし、その疲れのせいで軽いハイになっていた。だから皆、「最高の笑顔を!」と先生に言われて最初こそは照れたり「なんか宗教っぽいすね……」と戸惑ったりしていたが、だんだんと「最高の笑顔」という言葉が集団的に妙なツボに入ってしまって笑い出した。
 
「ヤバ……これめっちゃはずかし……アハハ」
「高橋さんいいですねえ、最高の笑顔!」
「アハハハ」
「ほらいま、最高の笑顔ですよ!」
 
先生の「有無を言わせず人を笑わせる力」はものすごかった。皆はじめは間違いなく恥ずかしさで笑っていたが、だんだんと自分が「最高の笑顔」になることが大事な使命であるように思えてくる。会場からは快活な笑い声の響きがだんだんと消えていき、先生の「いいですねえ!」「すてき!」「最高の笑顔!」というきれいな声だけが残った。5分ほど経つと、口角をキッと上げた完璧な笑顔人が40人ほどできあがっていた。
 
「これからは数人ずつのグループに分かれて、みなさんの笑顔チェックをしてもらいます」と先生は言った。
そこで5人の女子たちのグループに入った私は、先生がストップウォッチで15秒を計るあいだにこにこと笑い続けた。
 
「生湯葉さんいい笑顔!」
「すっごいさわやか!」
「道聞きたくなっちゃう!」
 
ボディビルの大会のようなかけ声が響く。ほかの女子の笑顔チェックの番でも同じことが繰り返された。私たちはもはや照れてなどいなかった。
それではグループのなかで笑顔が特に最高だった人をひとり選んでください、と先生から声がかかると、グループの4人は私を推した。
 
各グループから1名ずつが選ばれ、計8人が会場のホワイトボードの前に立たされた。
 
「このなかから今日の笑顔チャンピオンを決めますよ!」
 
先生が言う。8人が15秒ずつ笑い、私が笑顔チャンピオンになった。
 
 
 
白土くんはインフォメーションの中で唯一の男子だった。その日、研修の別会場で私は白土くんに頭を下げられていた。
 
「笑顔つくるの苦手で……すいません……」
「つくるとかじゃなくて笑うんですよ」
「いや……つくってるじゃないすか……」
 
最後の研修を前に「笑顔が暗い」と先生に指摘された白土くんに、笑顔チャンピオンである私が笑顔の指導をすることになったのだ。
楽しいこと考えればいいんですよ、と言うと、白土くんは「ハイ……」と言ったきり余計笑わなくなってしまった。
 
「白土さん、大学生ですか?」
「ハイ……」
「私も。パーク好きなんですか?」
「ふつうです」
 
パーク内で「そうなんですよ~!」という答えにしか出会っていなかった私は、そこで初めて彼に親近感を覚えた。
 
「私もふつう。ていうか研修で初めて来ました」
「エッ、初めてなの!? すごい、インフォメーション向いてるね……」
「ありがとう。でもそんなことないよ」
「笑顔すごいうまいじゃん……」
 
笑顔うまいじゃん、と言われてすこしカチンときた。なにを考えて笑っているのかと聞かれたから、「パークに来てくださるお客さまのことだよ」と言ったら「エッ怖……」と下を向いていた。なにしてるんだろう? と思ったら、白土くんは笑っているのだった。
 
「笑ってる! もっと前を向いて笑って!」
「いやだよ」
「そんなんじゃ笑顔チャンピオンになれないよ!」
 
私が声を張り上げると、白土くんはパーカーの長袖に顔を埋めるようにして笑った。震えている。
つられて私も笑ってしまって、ふたりでしばらく爆笑した。爆笑の波がおさまると、私はまた心を鬼にして笑顔チャンピオンになった。
 
「白土くんもっと笑って!」
「もう俺いいよ、チャンピオンになれなくてもいいよ」
「だめだよ。チャンピオンにならないと」
「ていうかチャンピオンて……?」
「なに?」
「呼んでないよ。自分がチャンピオンだって思ってるから返事したよねいま」
「ごめん」
 
ふたたび爆笑の時間があり、その波がおだやかに引いていくと、白土くんはまた下を向き、笑いながら「無理だ」と言った。
 
それから白土くんは研修期間でパークを辞めてしまった。たぶん辞めてよかったのだと思うし、彼が辞められたのだから、私が笑顔チャンピオンでよかったと思う。

ふり返らないタイプのひと

このごろご飯が最後まで食べられない。なにを食べていても半分くらいで眠気がしてきて残してしまう。食欲がないというよりもものを噛んで飲み込む気力がない。

 

気力を司る部位をアルコールで麻痺させればどうにかなるんじゃないかとも思っていたのだけど、どしゃ降りの夜、思いきり酒を飲んでから入った日高屋のタンメンも最後まで食べられなくてだめだった。コンビニまで歩くための傘を貸してほしいと店員に言おうか迷っていたらテーブルが混んできてしまい、しかたなくぱっと会計を済ませ針のような雨が降る商店街を走って帰った。店を出るときに視界に入ったタンメンはスープを吸いきって見たことのない食べものになっていた。

 

 


ひとりで飯食うの慣れてないんじゃないの、と友だちは言った。ひとと喋りながら食べてるときってご飯は脇役じゃん、だからなんかいままでは勢いで食べれちゃってたんじゃない?


そんなことある? と聞きながら目の前のフォーを口に運ぼうとして、あ、たしかにいま私はこのフォーを勢いで食べていると思った。向かいの席に座る友だちはすこし前に婚約破棄をしてひとり暮らしをはじめたばかりだった。


フォーっておいしい? なんか食感弱いし半透明で謎じゃない? と言われて、いやガパオライスのほうがワンプレートでぜんぶ済まそうとしてて謎じゃん、と思わず言い返した。友だちはえ〜とか言って笑っていたけれど、私はお手洗いに立った瞬間になんだかすごく失礼なことを言った気がしてきて、席に戻るなりさっきガパオライスのこと悪く言ってごめんねと謝った。

いや俺ガパオライス考えたひとじゃないからいいんだけどと彼は言った。いいんだけど、別れたひともトイレ行ってるあいだに自分の言動ふり返るタイプだったんだよね懐かしい。

 

言われた瞬間に頭のうしろがヒヤッとして、そのひとのそういうとこどう思ってた? と反射的に聞いていた。……うーん、やさしいなって思ってた、やさしいから途中から正直なめてて喧嘩とかぜんぶ向こうが謝ってくるの待ってたよ。

 

 


友だちが別れてしまった相手とはいちどだけ会ったことがあった。友だちとそのひとと向かい合って3人で酒を飲んだとき、そのひとがずっと私のグラスの減りかたに合わせてハイボールを飲むペースを調整していたのを覚えていた。飲みの直後には食パンの絵文字つきのラインが1通だけきた。しゃべりかたや視線の配りかたからも、すごく気をつかう人なのだと思った。


その話をあとから友だちにしたとき、あれ本人無意識らしいよと言われてエエッとなった。いちど、あんまり気つかわないでいいよと言ったらそんなつもりはないと怒られたという。
もしかしたら気をつかっちゃうのが癖になってるひとなのかもねと言うと、あーうん癖だと思うと友だちも言った。でもなんかそういうの続くとさあ、心許してくれてないのかなこのひとって思ってしまわない?  


いや、なんらかの必要性からそういうふるまいを身につけようと努力して、いつからかほんとうにそれが自分自身のふるまいになっちゃうってことあるじゃん。そのひとはそのひとで心許してよって言われるのストレスだと思うよ。

はっきりとは覚えていないけれど、だいたいそんな意味のことをそのときは言ったと思う。いまふり返ると、いちどしか会ったことのないひとの内面を勝手に代弁するみたいな言葉でかなり気持ち悪い。 

彼は私の謎の抗弁を聞くとうーんとうなってから黙り込んで、でも気をつかわないのを癖にしてかないとだれとも付き合えなくない? と言った。

 

 


タイ料理の店を出たら雨だった。適当に左を向いて歩きだしたら、えっマジでやってんの駅そっちじゃないよ? ばかなの? と友だちが言った。

私は大マジで歩いていたからちょっと恥ずかしかったし、内心、そんな冷たい言いかたしなくてもいいじゃないかとも思っていた。もし私なら謝る、ぜったいにすぐ謝るぞと思ったけれど、彼は意に介していない様子で傘を開いた。


夜はひとりでご飯を食べる予定だった。そう伝えると、彼は突如はっとした顔で私のほうを向き、え、もしかしていま実は鬱とかだったりする? だいじょうぶ? と言った。いや炭水化物食べられないだけでパフェとかならめちゃめちゃ食べれるから大丈夫だよ、と笑いながら言ったら、じゃあさっきの話なんだったんだよと彼は怒った。


彼がほんとうに怒っているのか、デリケートっぽい話にそれ以上踏み込む気がないことを示すためのポーズをとってくれているのかはわからなかった。けれどもし私が彼ならたぶん、さりげない理由をつけてもっと話を聞こうとしてしまうと思ったから、それをしない友だちはやさしかった。


彼は誰かに電話をしながらJRの改札に消えていった。私はひとを見送ってからじゃないと帰れなくて、相手の後ろすがたが見えなくなるのをいつも見ている。それから眠るために電車に乗った。

魔女について私が知っていること

覚えている限り人生最初の記憶はフィリピンパブのオーナーにブチ切れている母の姿で、バケツを持った彼女がそのなかの水をスーツ姿のオーナーに勢いよく浴びせかける様子を、私は2階の窓から見下ろしていた。まだ元気だった祖母が窓から母に向かってなにごとかを叫び、慌てて路地に走っていったのも記憶している。夏だった。
 
大人になってから、あれは地域のゴミ出しのルールを再三注意しても守らなかったオーナーとの口論の末の出来事だったというのを聞き、それにしたって水をかけることはないじゃないかと思った。私は真夜中に隣のパブから聴こえてくるカラオケの片言のいとしのエリーなんかが切なくてけっこう好きだったのだけど、その一件があったせいか、私が幼稚園を卒業するころにはお店がすっかり静かになってしまっていたのもちょっと淋しかった。フィリピンパブはそれからほどなくして潰れた。
 
 
 
母は苛烈としか言いようのない人間だった。だった、というかバリバリ健在なのでいまでもそうなのだけれど、私が思い出す主要な記憶のなかの母はキレているか魔女のような高笑いをしているかのどちらかだ。
 
魔女。といえば、母は私が小学校に上がるころまで、自分は魔女だと言い張っていた。
 
彼女は地球儀のなかには小さいサイズの人間が1億人住んでいるとか、コンクリートミキサー車のタンク部分ではラーメンが茹でられているとか、そういった必然性のまったくない嘘で私のことを困らせるのが好きだったし、私が幼かった時分にはちょうどモード系のファッションにはまっていて(母は時代によって没頭するファッションがコロコロ変わるひとだ)、ようやく伸びてきた3歳の私の髪の毛をマッシュボブにして黒しか着せてくれなかった。
 
からしたら母娘で黒服を着て東京を歩くのはクールだったかもしれないが、私は公園でなんども知らないひとに「坊っちゃん」と呼びかけられて心に深い傷を負ったし、シホちゃんのママ芸能人みたいね、と幼稚園の友だちのお母さんに言われるのは、誇らしい反面なんだかむず痒くもあった。
 
 
 
自意識が芽生えるのが比較的早かったから、幼稚園の卒園式で真っ黒の着物に赤い口紅をさして参列する母を自分の席からびくびくと見ていたころには、もうはっきりと「恥ずかしい」という感覚があった。母は私とはまるで似ていない端正な顔の持ち主だけれど、大きな口にほんのりと微笑みを湛えて私のほうを見る姿は美しいというより凄みを感じさせて怖かったし、学年が上がるにつれて語彙を身につけた同級生たちが母のことを呼ぶあだ名は「バブル」「元ヤン」「極道」などと徐々に過激になっていった。
 
私は私でそういういじられ方を楽しんでしまうロクでもなさがあり、フィリピンパブのオーナーとの一件などを中学の部活の先輩に話したときは、手を叩いて笑ってくれてうれしかったのを覚えている。
 
 
母は怒ると私に手をあげるひとだったけれど、その話はあまりひとにしたことがない。いちど、バイオリン教室の時間に家に帰らなかった私を母がバイオリンで殴ってきて弦がほとんど切れてしまったという話を仲のいい同級生にしたら、笑ってもらえると思ったのに、「えー……」と言ったきり相手が黙ってしまったので弱った。毒親、という言葉はまだない時代だったが、彼女が私に遠慮がちに伝えてきたのはおおよそそういう感じのことだった。高校卒業したらシホちゃん早くひとり暮らししたほうがいいと思う、と彼女は言った。
 
私はといえば、その当時こそ彼女の言葉をきっかけにしていろいろ思い悩んだりしたけれど(その日の日記は5ページ分くらい殴り書きされている)、いまとなってはまあそれでも母は母だよなと思う。母を全肯定しているといえば嘘になるし、強く憎んでいるといえばそれもまた違うのだが、半日買い物に付き合ったり台所に並んで料理をしたりするのは楽しいけど、夜遅くまで起きていて仕事の具合なんかをしつこく聞かれ馬鹿にされるのはちょっと勘弁してほしい、くらいのグラデーションでいる。
 
赤ん坊だったころ、小児喘息の治らなかった私に母が高知県の病院を探してきていっしょに入院してくれたり、その長期入院のおかげで友だちがまるでできなかった娘を不憫に思い『コジコジ』と『ちびまる子ちゃん』を全巻買い与えてくれたり、すべての病気が治るというなんらかのヤバげな水に手を出しかけて父と言い争いをした、などという話もひとから散々聞いているので、いや、だからというわけではないのだけど、母と縁を切るというようなことはちょっとありえない。そのあたりのきもちは自分でもうまく言えなくて、この話をするとなぜか決まって泣いてしまうのでこんなブログにコソコソ書いたりしている。
 
 
 
私は素直な子どもだったから、母が魔女だという嘘を小6くらいまで信じていた。
いちど、学校から帰ってきた私がクローゼットのなかにいる母にママ、と呼びかけたとき、彼女がふざけてそこから出てきてくれなかったことがある。クローゼットのなかからはたしかに母の声がしていて、あらおかえり、とはっきりと言われたのだけれど、着替えてるからちょっと待ちなさい、と言ったきり、声が途絶えた。
 
ママなにしてんの、としびれを切らした私がクローゼットの扉を開けると、そこに母の姿はなかった。呆気にとられて声も出せずにその場に立ち尽くしていると、私のうしろで母が「ここよ」と言った。そのときなにが起こったのか、母がいったいどんなトリックを使ったのか、あるいは使っていないのか、私にはいまだにわからない。
 
 
 
すこし前、終電を逃した赤羽の場末のバーで酒を飲んでいたとき、隣の席に座った年齢不詳の女性が私占いできるのよ、と言った。
 
彼女は初対面の相手の人相を見て、そのひとの本質をひと言で言い当てることができる、というようなことを呂律の回らない舌で喋った。誰もそれを本気にしているひとはいなかった(ように思う)が、その場はにわかに盛り上がって、俺も、じゃあ俺も、とみな彼女に占いをしてもらった。
 
姑息な成金、エロ河童、などと適当きわまりない占いの言葉が飛び交い、場が大笑いに包まれたころ、彼女が私を指さして言った。「あんたはやさしい魔女」。
 
やさしい魔女? 飲み屋のひとたちはどこかポカンとし、誰かが無責任に「あー」と言った。
あーじゃねえよと思ったけれど、やさしい魔女ならあまり怖くなさそうだし、うまく言えないが、ちょっとうれしい。

これより海中

8月の最終週になるとコンビニに花火が売っていないなんて知らなかった。すべての棚をなんど確かめても、そのニューデイズにはUNO以外の一切の玩具がないのだった。

店の外のガラスに背を預けてぼんやりと立っていると、人波の向こうに友だちが見えた。こちらに気づいて手を振る彼女の反対の手首にはうすいビニール袋が提がっていて、そこから星マークのロゴの缶ビールが2本透けている。歩くたびにフラミンゴのかたちの大きなイヤリングが耳もとで揺れる。

半笑いで近づいて行こうとして幾度も人にぶつかりそうになった。平日の千葉駅の構内で友だちと私だけが異様に彩度の高いワンピースを着ており、場からあきらかに浮いていた。

 

鈍行列車のボックス席でビールを飲みながら喋った。窓から見える風景がパチンコ屋、ドラッグストア、ラブホテルの三原色だったのが、列車が千葉から南に向かうにつれすこしずつ色を失ってゆき、しだいに草花の淡い緑だけになった。数秒で抜けてしまう短いトンネルが増えてきて、視界が暗くなるたびに耳が律儀につんと詰まった。

陸橋を通るとき、光る川を見下ろしながら「水がたくさんあるのが好きなんだよね」と友だちが言った。私も大きな水のかたまりならなんでも好きだから、うれしくなる。

 

 

鵜原無人駅で、改札には猫が2匹いた。

グーグルマップに従ってしばらく歩く。かきあげようとした髪に指がなかなか通らなくて、風のなかに潮が混じってきているのだと気づいた。歩き続けていると遅れて海の匂いがした。

 

なにかの最終回みたいな朽ちたトンネルのなかを進んでいるとき、ほんとうに突然、興奮とさみしさに一気に襲われた。泣きだしそうになってしまって、私きょう鞄にシャボン玉入ってるんだよね、と脈絡なく大声で言った。
前を歩いていた彼女が私を振りかえり、無言のまま背負っていたリュックを腹側に抱えなおした。まさか、とその時点で笑いそうになったけれど、実際に見るまでは笑うまいと思ってこらえた。

リュックからスッと出てきたのが剣みたいに長いシャボン玉だったとき、不意をつかれて笑ってしまった。サイズ感!と叫ぶと彼女もゲラゲラ笑った。笑い声がトンネルじゅうに反響して、その重なりを聞いていたらもっとさみしくなってくる。

 

トンネルのさきの道にはまるで人影がなかったから、iPhoneから音楽を流しながら歩いた。全曲シャッフルにしていたら若者のすべてが流れてきて、ピアノの一音目で情緒がくるう。真夏のピークが、という志村の歌い出しに被せるように「あーもう」「あーこれは」と言い合った。車をよけて道の右端を歩いたり真ん中を歩いたりするたびに、スピーカーの音が揺れて大きくなったり小さくなったりした。

 

正面に海が見えて、一直線に坂を下りた。カーブを曲がってのろのろと坂を上ってきたトラックとすれ違うとき、運転席のおじさんに呼び止められる。ここね進入禁止だよ、怒られちゃうよ。すいませんと言って来た坂をまた上った。いまのひと漁師っぽかったね焼け方が、と話していたらあっけなく海岸に着いた。

 

強い風に煽られながら海中展望塔を目指した。遠くのほうに、海から生えた灯台のような背の低いたてものと、そこに向かって伸びる白い橋が見える。橋を渡りはじめると、演歌のPVの背景みたいに視界の両端で波がざぱんと打ち上がる。風速計のプロペラは止まっているように見えたけれど、そうではなくてものすごい速さで回転しているのだった。轟音と波が橋脚をなぐる振動で橋のうえはほとんど嵐だった。

 

 

展望塔の扉を閉めたときにお互いの笑い声がようやく聞こえた。一周するのに30秒もかからないであろう狭い塔はその真ん中が螺旋階段になっていて、 地下につながっていた。

病院を思わせる青い階段を降りる。ぐるぐると回遊し続け、酔いそうになったころに手書きのプレートが頭上に見えた。これより海中、とプレートにはあった。

 

 

強風の影響で水はにごった色をしていた。潜水艇のようにくり抜かれた楕円形の窓が塔の360度をとり囲んでいる。先にいた子ども連れの4人家族は、私たちの姿を見るとしずかに階段を上って地上に戻っていった。

窓に顔を近づけると魚の群れがいた。しばらくイシダイやマダイの泳ぎ方を観察していたけれど、魚サイドからしたら私たちのいるこちら側が水槽なのだ。いま急に窓が割れたら私たちは海の藻屑になる、と妙な迫力で友だちが言う。

魚の通らない窓もあった。その窓から外を見ていると、光が筋になって海中に入ってくる場所があって、そのはじまりをたどると水面だった。

 

むかし、ツイッターの質問箱に「小さいころ、空を飛ぶ感覚を知ってたんです」というメッセージを送ってくれたひとがいた。いまとなっては飛べなくなってしまったじぶんの筋肉量の少なさが歯がゆいとそのひとは嘆いていて、文章はこう続く。私の頭のなかでは、腕を振るだけで大きな団扇を上下に振ったみたいな抵抗がないと飛べるはずがないんです。その抵抗があったとき、どう腕をしならせたらうまく体を浮かすことができるのか、知っているのにできない。水に浮かぶのとはちょっと違って、あれよりもう少しだけ内臓が自由になって、胴体の軸が心もとなくなるせいで、いまにも体がくるくる回りそうで。

 

揺れる水面を窓から見上げていたら、なんども読み返したせいで覚えてしまったその文面が頭をよぎった。そのひとの言っていたことはたぶん正しい。私も小さいころ、光が届かないくらい深い海の底を泳ぐ感覚を知っていて、その感覚がとても似ているものだったから。

 

勝浦のコンビニなら花火売ってないかなあと友だちが言った。私は実をいうとあのメッセージを送ってきてくれたのが彼女だったらいいと長いあいだ思っているのだけれど、たぶん違うし、本人には伝えていない。海中には30分いた。