湯葉日記

日記です

マジックミラー

新居の部屋のクローゼットの扉はセンターラインを引いたみたいに天井から床までが鏡張りになっていて、朝、その前で胡座をかいてメイクをしていたら、むかしマジックミラーのある店でバイトをしたことがあるのを思い出した。

2回ある。

 

 

1度目は大学4年生だった。就活もしていなかったし院に進学する予定もなく、卒業制作の文章を書く以外は酒を飲むくらいしかすることがなかった時期で、フラフラと飲み歩いては知り合いをつくり、その知り合いに教えてもらった店でまた飲み、ラムの種類だとかカクテルの名前の由来だとか、生意気でおよそ役に立たないことばかり夜な夜な覚えていった。

 

飲み屋に向かって繁華街の小道を歩いていたら声をかけられた。「お姉さんお願い、座ってジュース飲みながら漫画読んでるだけでいいから」。

 

新宿や渋谷を歩いているとたまにかけられる台詞だったので、無視して歩き続けた。それでもキャッチの男は歩幅を合わせてついてくる。「お願い、お願いします、ホントお願いします、お菓子も食べていいから」。

その様子があまりに切実だったので、思わず立ち止まった。その夜は別に酒なんか飲みたくなかったし、卒業制作にも行き詰まっていたし、なにより私は暇だった。キャッチの男はホッとした表情で、人気のないところに私を呼び、店の説明をした。

 

 

台湾マッサージのチラシがベタベタと貼られた狭いエレベーターを上がりながら、男が小声で「誰にもついてかなくていいんで、呼ばれたらたまーに出てっておしゃべりして」と言う。別の階で下りていった大学生くらいの男の子が、ドアが閉まる前、軽蔑するようにじろりとこちらを見たのを覚えている。

 

店は出会い喫茶だった。男性客が座るフロアの向かい側、5メートルほど先に女性客用のフロアがあって、女性客が座るほうだけ、壁がマジックミラーになっていた。

男性客が女性客を見て指名し、女性客がOKを出せば、小さなトークルームに通される。そこで外出OKかどうかを男女で話し合い、双方が合意すれば、店の外に出てデートをすることができる。だいたいそんなシステムだった。

 

男性客は利用するのに結構な金額がかかるのに対し、女性客の利用は無料だった。もしかしたら「登録料」みたいなものがあったのかもしれないが、私はサクラだったのでそのあたりはよく分からない。女性客がゼロだと男性客から料金をとれないしくみになっているらしく、店としては形だけでも女性に座っていてもらわなければいけなかった。だからサクラが必要だった。

 

マジックミラーの向こう側で漫画喫茶のような薄いジュースを飲み、カールを食べていると、時折店員から男性客が記入した紙を手渡された。「楽しくお喋りしましょう!」みたいなふつうのメッセージのこともあれば、稀に「この銀河系で君に逢えた奇跡  君の瞳に乾杯……」みたいなこともあった。

私はトークルームへの移動を拒み続け、1時間半ほどで店を出た。帰り際、キャッチの男に何度も礼を言われ、「よければまた」と言われた。

 

別の日、また同じ道でキャッチの男に会い、「30分だけ」と言うので30分行った。

 

そんな風にして、常連の飲み屋に行くまでの30分とか1時間をそこで潰すようになった。キャッチの男はいつでもいて、サザエさんのノリスケに似ているから仲間からはそう呼ばれているのだと名乗った。全然似ていなかったが、毎回律儀にエレベーターの下まで送ってくれて、わりにいい人だった。

3回目に店に行った帰り、ノリスケがバイトを提案してきた。好きなときに店に来てくれていい、その代わり時々はトークルームにも移動してほしい、いた時間の分だけ報酬を出す、という条件だった。

提示された金額は低かったが、高すぎないことにむしろ安心もした。私はノリスケに分かったと言い、それから週に1、2回くらいはその店に行った。

 

しばらくして、店は一部の熱心な男性の常連客と、援助交際の相手を探す女性客で成り立っているということに気づいた。トークルームに移動すると、開口一番「2万?」と指を2本立ててくる男性客もいた。「ふつうにおしゃべりしに来ただけなんで」と言うと不思議な顔をされた。

 

女性客がひとりもいないとき、こちら側のフロアは静かだった。店内の有線が途切れると、自分がジュースを啜る音と、男性客が鉛筆を走らせるカツカツという音だけが響いた。

マジックミラーの内側にいると、こちらからは見えないはずの視線を確かに感じることがあった。映画で見るような、獲物に赤いレーザーポインターが当てられるシーンのことを思い出し、あ、私いま値踏みされてる、と思った。

その時間が過ぎると、誘われたトークルームのカーテンの中で2本とか3本の指が立てられ、それを笑いながら振り払う。

何人かの男性客と会話をして店を出ると、いつも恐ろしく肩が凝っていた。

 

 

 

2度目はその翌年だった。

就活をしなかったツケはすぐに回ってきて、私は短期間のイベントバイトでどうにか食い繋いでいた。

ある日、バイトの求人サイトを見ていたら、時給3000円を謳うガールズバーを見つけた。嘘だろ、と思ったら嘘だった。面接に行き、システムを聞いてみたらキャバクラだった。「体験入店だけしていきますか?」と聞かれ、もういいやそれでもという気になってハイと言った。

ラミネート加工された200の名前シートの中から本名に近い源氏名と、できるだけ露出の少ない衣装を選び(とはいえバニーガールだった)、店のある地下への階段を下りた。

 

客席はオーセンティックなバーのような長いカウンターと小さな個室いくつかでできていて、カウンターの正面は大きな鏡になっていた。その裏にある待機室に回ると、そこも鏡だった。しばらくすると女の子たちが出勤してきて、私は「体入のしいちゃん」と紹介された。れいかさんだったかるいさんだったか、ラ行から始まる名前の女の子ふたりがよろしくねと言った。

ふたりと共に待機室に入ると、れいかさんは鏡に顔を近づけてメイクを始め、系列店にヘルプで入ったら最悪だった、という話をした。「しいちゃんもマジで○○店は行っちゃだめだからね」と言いながら、彼女は手についたマスカラを壁にかかっていた誰かの衣装で拭いた。

 

酔った客と話すことは苦痛だったが、それ以上に、接客のターンが1回終わるたび、店長に「次はもうちょっと体くっつけてみて」とか「モエ飲みたいですって言ってあげて」と言われることが嫌だった。

私は「もっと飲みたい」とか「ボトル入れて」とか、果物が目の前にあっても「あーん」とか言えなかった。客の手に手も重ねられなかった。

体験入店とは言え浮いているのは明らかで、ビールを注ぎにキッチンに行くたび、ボーイが不安げな顔で「大丈夫?」と聞いてきた。「ほんとにだめだったらこっち見てね、助けに行くから」と言う彼は優しかった。

 

妙に意地になって、それから何度か出勤した。

何人かの内気そうな客には気に入られたが、多くの客との会話は噛み合わなかった。ある客は「大学時代に通ってたスクールカウンセラーの先生と話し方が同じ」と言った。黙ってチェンジを指示されたこともある。

 

売上の高い女の子のひとりは、薬剤師だった。上京して職場に近い三軒茶屋でひとり暮らしを始めたが、薄給に奨学金の返済が重なり、どうにも首が回らなくなってここで働いている、と教えてくれた。

待機室の鏡を見ながら、体育座りでよく話した。店はガールズバーを名乗り始める前は風俗店だったらしく、その頃は客側の鏡がマジックミラーになってたんだよと教えてくれたのも彼女だった。彼女が前の店にも長くいたのかどうかは聞かなかった。

「こんなとこずっといちゃだめなんだけど」と彼女が言っていたのをいまでもたまに思い出す。名前も知らない彼女の目は寝不足で濁っていた。

 こんなとこずっといちゃだめなんだけど。

 

 

私が店を辞めた翌日、丸の内線に乗っていたら、前日に店で接客した男性が向かいのシートに座っていた。作り話みたいだけれど本当の話だ。

彼は同僚らしき人と仕事の話をしていた。 左手には、前日にはなかった指輪があった。

電車を降りるとき、「5年彼女いないって言ってたじゃん」と声をかけようかと一瞬だけ思ったが、当然そんなことはしない。最後まで目は合わなかった。

 

 

あれから何年か経った。

出会い喫茶の煙草臭いエレベーターや、ガールズバーの天井の冗談みたいなミラーボールのことは、もう忘れかけている。待機室の女の子たちが黒人のあれは本当にでかいとかどこのホストがいいとか話していたことは、不思議と忘れられない。

 

最近、新居の部屋の奥にベッドを置いたら、朝最初に見るのがクローゼットの扉の鏡に映る寝起きの自分になってしまった。

鏡越しの素顔の自分を見ていると変な気持ちになる。衝立かなにかで鏡を隠してしまおうか、この頃は迷っている。

詩とバスマット

私がかつて想像した25歳の私はひとりだった。

結婚も特定の相手との交際もしておらず、友達は少なく、都内に独り暮らししていて、時どき演劇や食事のために外出する。

そういうことになる予定だった。

 

 

高1のときにミクシィを通じて舞台のチケットを譲ってくれた30歳の美しいお姉さんがいて、彼女は私の将来のロールモデルだった。ワンレンの黒髪ボブで猫を飼ってて、独身で、SM写真のモデルをしていた。

初めて会ったときに「なんか作り話みたいなプロフィールでしょ」と言われたのを覚えている。下北の本多劇場の前で。枯れた声は前の日にバーで飲みすぎたからだと言う。

 

小雨で、入場列に並ぶお姉さんはグレーのカーディガンを肩にかけていて、その隙間から細い二の腕が見えた。ちょっと出来すぎた光景だと思ったけど、ある程度歳を重ねた美しい人というのは常に美しくあることを自分に課している人だというのが分かりかけてきていた年頃だったので、素直に「綺麗すぎて緊張します」とだけ伝えた。

彼女は劇場の中で、無造作に積まれたパイプ椅子や関係者からの仰々しい花輪を背景にしても、その都度その都度きちんと自ら発光しているように見えた。

 

 

私は、自分もいつかああなれると思っていた。

好きなバンドのギタリストより好きな人が現れるわけがないという確信もあったし、なによりも、日常感のあるもの、つまりハレとケでいうケにあたるものすべてをまとめて毛嫌いしていたので、そう思い込むのも無理はなかった。

当時の日記を読み返すと「嫌いなもの…女子高生、男子高生、言葉の通じない子ども、“小市民的幸福”というおぞましい言葉」とか書いてあってなかなかに仕上がっている。当時付き合っていた人がいたら2ちゃんでスレ立てされていたと思うが、当然いなかった。

 

 

だから、15歳の自分が夢想した25歳の自分なら、こたつに入って彼氏とピザを食べながら新居のごみの分別方法をググったりはしなかったはずなのだ、絶対に。

洗濯機がまだ届かない洗面所で化粧を落として、顔を拭きながら「そうかあ」と思う。

なにがそうかあなのかはよく分からないけれど、淋しいとか悔しいとか諦めたとかではなく、ただ、「そうかあ」。

 

 

 

新居から実家まではバスが早いが、その日は終バスを逃してしまったので、地下鉄の駅で降りた。

環八通り沿いを乗換駅に向かって歩きながら、ふと出来心で、実家までの徒歩ルートを調べてみる。45分。

お酒も残っていた。後先を考えずに歩き出して、すぐに楽しくなってくる。

 

 

日曜夜の環八通りを走るのはほとんどが大きなトラックで、その巨体がアスファルトの上をグゴゴゴと音を立てて通り過ぎていくのを見ていた。トラックもすれ違う自転車も犬を散歩させる人もいなくなると、辺りは静かだった。

 

携帯を握る手が冷えてきた頃、自販機でコーヒーを買った。いつかの朝、道玄坂を歩きながら「コーヒーとトレンチが似合うね」と言われたことがあったのを思い出して少しいい気分になった。コーヒーをカウチのポケットに突っ込んでまた歩く。

 

指先が温かいだけでどこまでも歩ける気がした。暗いトンネルを早足で抜けると、通っていた小学校のあった赤羽駅に繋がる交差点が見えた。通学バスで6年間窓から見続けたルートを徒歩でなぞると、自分がスローモーションの中にいるみたいに思えて変だった。

 

歩きながら考えていたのは、洗濯機が届くまでのあいだに使うタオルとバスマットを実家から多めに持っていこう、ということだった。忘れられない舞台や詩のワンフレーズについてではなかった。

彼氏や家族や新居に持っていく亀のことを考えるたびに、足が少し速くなったり遅くなったりした。私は冬の街灯の下でもはやひとりにはなれなかった。

 

 

広いガレージのある家の前を通ったときに、ハイヒールの踵が大きな音で響いた。コツ、コツ、コツという音が山びこのように小さく残響する。昔から人のいない夜中に歩くのが好きだったのは、この音を聞けるからだと不意に思い出した。

 

公園の水道のホースの写メを撮ったり、iPodでナイトフィッシングイズグッドをリピートで聴いたりしながら1時間かけて歩いた。遠くに月が滲んで見えた。

 

私は真夜中特有の淋しさをめいっぱい浴びて有頂天になったり、バスマットのことを考えたりを交互に繰り返していた。たぶん、というか確実に、これから先は後者のことを考える割合が少しずつ増えていくのだろうと思った。それを淋しいとは感じなかった。

もしも向かい側から15歳の自分が歩いてきたら、いまの私に気づいてくれるだろうか。

真夜中に浴衣を洗う

亡くなった祖母の部屋に入るのは久しぶりだった。物置と化した和室には仏壇とふたつの大きな箪笥、古い姿見などが並んでいて真夏でもやけにうすら寒く、昔からそこは夜ひとりで入るにはすこし怖い部屋だった。

箪笥の引き出しを1段ずつ開けながら「もしかしたら上の部屋かもしれない」と母が言う。「なんでこの時間なのよ、もっと早く言いなさいよあたし昨日聞いたでしょう」

部屋の隅で三角座りしてビールを飲んでいた私は、すいません、と言う。その声がかすれていたのでもう一度言い直す。姿見に映る自分はあまりに情けなく、子どもじみて見えた。

 

昔から家族には自分の話ができなかった。
小3のとき、母に「同じクラスのまみこちゃんが通学バスの席を絶対に譲ってくれない」という相談をしたことがある。母はそれを「まみこちゃんに直接言えばいいじゃない。なんで自分ばっか座るのって怒ればいいでしょう」と一笑し、隣で聞いていた父は「言えないんだよな、しほはそういうことが言えないんだ。そういう子なんだ」と気の毒がった。

9歳の私は、自分が求めているのがアドバイスではなく共感だと気づけるほど賢くなかった。賢くなかったので「ちくしょう。かわいそうにって言ってくれよ身内なら」と怒りの矛先を両親に向けた。私はいつしか家で自分の話をしなくなり、自分の殻に閉じこもり、そこから出ないままで大人になってしまった。
こんな人間でも20歳になれば自動的に大人とみなされるなんてシステムは狂っている。成人してから5年経つけれど、たぶん私はいまでもまみこちゃんを怒れない。

 

母があ、と声をあげた。「これだ」
白地に紺の模様が入った浴衣を広げながら、「どう? 好きそう?」と聞く。

「うん。たぶんなんでも着ると思うけど、まあでもあんまりそれは似合わないかもしれない。柄が派手だし」
「じゃあなんでもじゃないじゃない」

母はその奥からもう1枚別の浴衣を出す。さっきの白よりも控えめな、グレーと白のあいだくらいの色だった。そっちがいい、と受けとる。

 

 

洗面台に水をためていると、祖母の部屋のほうから箪笥を閉める音がした。なにを話そう、と焦る。身内相手にこんなに焦るのか。こんなことってあるのか。洗剤を溶かして浴衣をつける。ぐいっと押すとすこしだけ水が汚れる。母が洗面所に歩いてきて、「ついでにこれも洗って」ともう1枚の浴衣をよこす。「うん」


「こないだ西武行ったら、呉服コーナーで若い子たちが熱心に浴衣選んでたわよ。男の子も」
「男子はなかなか持ってないよ浴衣」
「だから貸すんでしょ?」
「うん」
「あんたは前にユニクロで買ったやつ着てくの?」
「いやそっちじゃないほうにする。あとユニクロで浴衣買ったって絶対にか、かれ、あした来る子に言わないで」

押し洗いをしながらビールを飲む。酔っていないと話せなかった。

「なんで昨日言わないのよ」
「ほんとすいません」
「あんた自分で着付けできないくせに」
「いや、YouTubeとか見ればまあできるけど、あなたはプロみたいなもんだし」

母はむかし着物のモデルをしていたので、和服を着るのも着せるのもうまい。私が着るついでに彼にも、という話になるのは自然だった。

「いいけど、その子初対面で『はい脱いで』ってなるわよ」
「ウケる」

1枚を洗い終えて、干す。もう1枚を水につけると、途端にぶわっと色が落ちた。藍色の水の中で浴衣を揉む。

「花火終わったらうち戻ってきて着替える?」
「そうする。うちに服置いてかないと荷物増えちゃうし」
「じゃあついでに帰りお酒飲んでく? お酒飲む子?」

飲む子だよ、と答える。

「お酒強いしわりとなんでも好きだよ。金沢のときも日本酒買って飲んだし、……ていうか金沢あれだった、写真撮ってくださいってすごい頼まれて、いやその子優しそうだから分かるんだけど、美術館でも兼六園でも頼まれてて」

いざ話し始めたら結構楽しくなる。好きな人について話すのだから楽しくて当然なのだ。
ふうん、と母が相槌を打つ。私は浴衣を洗っているので母の顔は見えない。

「金沢その子と行ったの? 春に手紙送ってきた子?」
「前者イエス、後者ノー」
「なるほど」


考えてみると、あまりにいろんなことを話さずにきた。話さないままこの歳になってしまった。私が昔いじめられていたことも、どんなバイトをしてたかも、なんでいまライターになったかも、母は知らない。私が死ぬほど好きなものや嫌いなもののこと、そのいくつかを手に入れ、いくつかは手に入れられなかったことも、たぶん知らない。
けど別にいい。あした家に呼ぶのがとても好きな子だということだけ知っていてくれればいい。


「いい子だよ」
「うんまあ、あんたがやっと連れてくるんだからそうでしょう」

 

水をすすいで振り向くと、母はもういなかった。私は2枚の浴衣を並べて干して、洗面所の灯りを消した。

のどぐろとプール

夜行バスを下りると朝だった。
にやにやしながら「ここはもしかして金沢なのではないか」と言うと、同行者も「オッもしかして金沢なのではないか」と乗ってくれたので、幾度もそれを繰り返す。
飽きるまでやろうと思っていたが、彼が「まだテンションがそこまでじゃないから」とやんわりそれを制した。

駅前のスパに寄った。女湯には部活の県大会かなにかで来たらしい女子高生のグループがいて、備えつけの扇風機のコンセントを抜いて携帯を充電していた。
いくつになっても運動部の女子高生は年上に思える、という話をむかし友人にしたことがあるが、文芸部だった子しかわかってくれなかったのを思い出す。

壁を向いて湯船に浸かった。お湯が信じられないくらいぬるい。ぬるい、というか冷たい。
一刻も早く出たかったが、つい女子高生たちの反応が気になって、彼女たちが入ってくるまで待ってしまった。やがてひとりが湯に足をつけて「待って、ありえん」と言ったので満足して出た。

 


真夏日だった。
金沢駅から市バスに乗った我々は首からカメラを下げ、ボストンバッグを抱え、右手にことりっぷを持っていて、観光客のコスプレをしてるみたいだった。

金沢城公園に寄る。目の前に広がる一面の緑が、入っていい芝生なのかいけない芝生なのかいまいちわからない。
やがて外国人のグループがためらいなく芝生の上を歩いて横切ったので、「よしきた」と思って芝生に寝転んだ。寝転んだまま「我々はどこへ行くのか」と同行者に聞くと、「魚を食べる」と言うので頷いた。

すぐ近くの近江町市場に向かう。
市場の呼び込みは元気がよすぎて劣等感を刺激されるのであまり得意じゃない。借りてきた猫のように回転寿司を食べた。アジ、平目、のどぐろ。「のどぐろは美味しい」と記憶領域にインプットするように同行者がつぶやいた。

 


観光スポットはどうやらすべてバスで回れてしまうらしい、ということに気づいてすこしだけ残念だった。21世紀美術館にも呆気なく着いた。

展示の中には、けっこう好きなものと、まるでわからないものと、ものすごく嫌いなものが混在していた。ものすごく嫌いなものの話をしたいけれど、書いているそばからむかついてきてしまうので割愛する。美術をばかにしやがって。

ダミアン・ハーストのことはただの牛のホルマリン漬けおじさんだと思っていたのだけど、蝶が一面に埋め込まれたハート型の絵画を見ていたら、あ、綺麗と思った。
高校のとき「死んだらダミアン・ハーストの絵に埋め込まれたい」と言っていた知り合いがいたのを思い出して、絵の前でしばしぼんやりした。

 


スイミング・プールの周りには人だかりができていた。
カップルはだいたい彼女がプールのなかに入って、彼氏が上からそれを撮影している。上と下では互いの声が聞こえないので、撮影に苦心している人も多そうだった。
水面をのぞき込むと、プールの下にいる人たちの顔がゆらゆらと歪んで見えた。システム的には飼っている亀の水槽とほぼ同じだ。これが私が7年も夢に見続けていたプールなのか、と思うと、すこしだけ期待外れのような気もした。
振りかえるなり、同行者が「なにこれどうなってるのすごい」と言った。ちょっと嬉しかったが、きみはスイミング・プールも知らずに金沢に来たのか、と偉そうに説教する。いいから下におりろ上から撮ってやるから、と背中を押した。

 


プールの上でカメラを持って構えていると、見覚えのあるシルエットがプールのなかを横切った。彼がスマホを構えているのに気づいて、アレッと思う。写真撮ってくださいって頼まれたのか、頼まれたんだろうな。ていうかプールのなかの人同士で撮り合ってもただの水色の部屋の写真になっちゃうんじゃないのか。
撮影する彼を上からパシャパシャと撮っていたら、にわかに楽しくなってきた。いい日だ、と急に思った。

旅行記その0

夜行バスの中でこれを書いている。
旅行に、と言われていくつか候補を出し合っていたら、そういえば私は7年くらいにわたって金沢に行きたかったのだと思い出した。なので金沢、と言った。

高校のころ、ロクにしなかった受験勉強の合間にも日記だけは律儀につけていたので、毎日ちまちまと書き足していた「受験が終わったらしたいことリスト」が受験が終わるころには60個くらいになっていた。そのいちばん最初に書いたのがたしか「金沢に行く」だった。

理由は明白で、当時読んだオズマガジンかなにかに21世紀美術館のプールの中で微笑むモデルさん(二眼レフを下げている)が載ってて、「アートな週末」的なキャッチコピーがついてたのを見て、健全な女子高生的感性で「絶対行く!」となったのだ。

とはいえ18歳の私には友達がとても少なく、というかそもそも人と旅行に行ける協調性がなかったので、机に向かうたびに時おりオズマガジンを開いては、あの光のプールの中にいる自分を思い描いた。そこに行きたいというよりもたぶん、そこに一緒に行ける人を探していた。

 


旅行の準備をしはじめたのは、夜行バスに乗りこむ当日、つまり昨日だった。
修学旅行以来、人と2泊以上の旅をしたことがなかった私は緊張していた。ボストンバッグにドライヤーやら本やら虫よけスプレーやらを詰めこみながら、「楽しいんだろうか」と急に不安になった。

一緒に行く人が、よく「緊張しそうな場にはノーパンで行くといいよ。なにをしててもいや自分ノーパンじゃんって思えて馬鹿馬鹿しくなるから」と言っていたので、それを応用して真夏にしか着ないスパンコールがじゃらじゃらついたロングワンピを持っていくことにした。これで生真面目な顔をしようとしても「いやこんなスパンコールついてるじゃん自分」って思える。何事も工夫だ。
「亀を頼む」と母に伝えると、「あんた平気で2日3日エサあげないくせによく言うわよ」と呆れられた。

 


仕事を終え、東京駅に向かう。
ボストンバッグを抱えて乗る地下鉄はいつもよりも狭く思えた。キャスター付きのバッグを引いているサラリーマンや親子連れを見て、この人たちもそれぞれに旅の途中なのだと不意に思った。

夜行バスの消灯時間は早かった。
周りがみんな寝静まったあともなんだか眠れなくて、そういえば私は幼稚園のときのお泊まり会でも眠れなかったなと思い出した。同級生が寝て、部屋の灯りが消え、先生たちが隣の部屋でミーティングを始めてもなお眠れなかった。

隣に座る同行者に「なんでこんな人がいるのにみんな静かなのか」と小さな声で聞くと、うん、そうだねと頷かれた。バスがトンネルに入るときだけ、カーテンの隙間から線のように光が入ってきてその横顔を照らした。

やがて夜が深くなってくると、隣の席から伸ばした私の足を荷物のように抱えて彼は寝た。私もそれからすこしだけ眠った。

残るのは言葉だけだ

このところ何もかもがだめだった。部屋の外に出るのが億劫でたまらなくて、自分宛ての公共料金のハガキののりを剥がすのすら怖かった。

気分を強制的に変えようと湘南乃風を聴いてみたけれど、「マジで最高 心解放」という歌詞でさらにもうだめになってしまって、ほかに方法がないからキッチンの奥にしまっておいた酒ばかり飲んだ。
アルコールに依存するのは2年前にやめたはずなのに、ああけっこう経ってんのに何も成長してないなあ、と酔いがさめてからうんざりした。酔ってソファで眠り、目が覚めると泣いていた。

 


なんでこうなんだろうと思って、10代の頃の日記を開いてみて納得した。16歳の私は2008年の7月6日に「このまま何もできないままで死んでいく」と綴り、17歳の私は翌年の7月6日に「何ひとつできない、もう駄目だ」と綴っていた。18歳の私にいたってはなぜか保健室にいた。

つまりは、そういうバイオリズムなのだ。どういうわけか、私は毎年この時期は「何もかもだめ」になるようにできているのだ。
そう思ったらすこしだけ安心した。電気のスイッチのたくさん並んだパネルを前にして、そうか、ここ押したらお風呂場が点くのか、とわかったときのような気持ちになった。

 


10年のあいだ日記を書き続けていると人に言うと、けっこうびっくりされる。え、毎日ですか? と聞かれる。
ルールは2つだけあって、「サボってもいい」というのと、「絶対に嘘を書かない」というのだ。「サボってもいい」から、しれっと1週間くらい間があくこともある(ただ、しんどいときは日記を書くようにしているので、書いていないときは元気なときだ)。

その日の出来事よりもむしろ、体調がどうだったとか人と何を喋っただとかを記録している。だから日記を見返すと、その頃の自分が何を考えていたかとか、何が辛かったかとかがおおよそわかる。

前例があるということはいわば自分でアップデートしてきた自分の説明書があるということなので、気分や体調が急変することがあっても、そこまで慌てずに対処できる。書き続けることは、自分の心の動きのデータベースに情報を蓄積することでもある。

 


私は日記に限らず、人にもらった手紙やメールも、馬鹿じゃないのかというくらい読みかえす。こう言われて嬉しかったとかこう言われて嫌だったとか、そういうのは頻繁に読みかえすのでもう大体覚えてしまった。

どんな言葉にも有効期限はある。それは目には見えないので時どき勘違いしてしまいそうになるけれど、「これからも仲良くしてね」や「またすぐに会おう」や「好きだよ」はあくまで過去の私に対する言葉であって、いまの私に宛てたものではない。

ただひとつわかるのは、“その日の自分”は相手にそう言ってもらえるような人間だった、ということだ。そして“その日の自分”は、幸運なことにいまの自分の中にもいる(のだけど、それがあんまり遠い日の出来事だと、なかなかいまの自分とは結びつかないから厄介だ)。

 


当たり前だけど、いまはどんどん過去になって、言葉はどんどん古くなっていく。
もしも私の好きな人が(今日の私のように)「もう何もかもだめだ」と感じて過去の言葉に救いを求めることがあったなら、その日にめくる日記の中に、読みかえすメールの中に、できるだけ新しい私の言葉があってほしい。傲慢だけどそう思う。

そのためには、好きだということを手を抜かずに、できるだけアップデートしながら伝え続けなきゃいけない。
人と人はいつかはばらばらになってしまうから、それが明日でもいいように、できるだけ本心に近い言葉で愛を語っておきたい。結局、人も気持ちも消えたあとに残るのは、言葉だけなのだから。

ラッキーカラー屋さん

教祖様だったんです僕、とトガワくんは言った。え、きみが? と聞くと「僕以外にも10人くらい。本物は1人なんですけど」とにこにこ笑う。


地下鉄を待つあいだ、トガワくんはこれまでの職歴について淀みなく語ってくれた。中卒だという彼は、16からの何年かをキャッチで食い繋ぎ、数年前までは米の訪問販売をしていたのだと言う。
お米って切れたタイミングにしか買わないよね、と私が聞くと、「そうですね。安いのならまだしも、僕が売らされてたのはブランド米だったので。普通に人ん家の玄関で土下座とかして」とあっけらかんと言う。


数日前にアルバイトで入社してきたトガワくんは、最初から抜群に電話対応がうまかった。
その日は彼を含めた何人かの歓迎会の帰りで、JR組が一斉にいなくなったあと、取り残された私たちはすこし離れた地下鉄の駅までのろのろと歩きながら話していたのだった。

「お米の次に」彼は言う。「メール鑑定のバイトをすこしだけしました」。メール鑑定とはつまりメール占いで、登録するとその日の運勢や行動にまつわるアドバイス、個人的な相談に対しての返事なんかが送られてくるものらしい。

「バイトってどういうこと?」「占い結果のメールの文面を打つんです」「監修みたいなことをする占い師がいるの?」「いますよ。教祖様みたいな、有名な占い師の人が。でも、文面はぜんぶバイトが考えてます」

えっ、と思わず口に出した。運勢とかあんなのぜんぶ適当に書いてるんですよ、最初に占い師の人にレクチャーだけされて、あとはもうそれっぽいことを個々人で書いて送るんです、とトガワくんは言う。「自分の本質を見つめ直す日になります」とか、「西の方角への旅行は避けたほうがいいでしょう」とか。

詐欺では、と言っていいものか迷っていた。彼はそれを見透かしたように、「まともな人には続かないです」と笑った。「課金すればするほど、教祖様に個人的な相談とかも送れるんです。そういうメール毎日見てたら病みますよ」。

 


10人の“教祖様”の1人であるトガワくんのもとには、不倫相手との間にできた子どもを堕ろすべきか否かとか、認知症の母の介護を兄弟に任せて引っ越していいかとか、ひと言で言ってしまえばヘビーすぎる悩みばかりがどしどし寄せられた。

周りを見ると、高額の報酬のために心を殺して作業している人、他人の不幸を目にするのが好きな人、もはや何も感じず植物のようにメールを打ち続ける人などが夜のオフィスで目を血走らせながらPCに向かっていて、トガワくんは数ヶ月で完全に参ってしまったそうだ。

「堕ろすかどうかって、絶対に占いで決めることじゃないですよね」電車に揺られながら彼が言う。「そんな人に無責任に『あなたのラッキーカラーは~』とか言えないですよね。その人たちに必要なの、ラッキーカラーじゃなくてカウンセリングですからね」。

笑えばいいのか神妙な顔をすればいいのか迷ってしまって、真ん中くらいの顔をした。
じゃあトガワくんは、占いって信じないんだ? そう聞くと、彼は「信じますよ。いちど、教祖様に本当に占ってもらったら超当たってましたもん」と言うので、今度こそ笑った。

 


あれから1年くらい経つ。
占いを信じるか、と言われたら、私はそんなには信じない。「運命」とか「縁」みたいな言葉も、そこまで好きなほうではない。

前にも書いたとおり父の実家は神社なのだけれど、どういうわけだか母の祖父、つまり私の曽祖父も神社をやっていた人らしい。神主だった曽祖父は、自分の死ぬ日をぴたりと言い当てて亡くなった。作り話みたいだけど本当に。

そういう人が間近にいたので、自分の人生のあらすじみたいなものはある程度決められてるのかもな、と思うことはある。けれど神様もたぶん、73億人分のシナリオの細かい部分まで手を抜かずにいられるほど、暇ではないはずだ。

だから神様が油断している隙に、私は私にとっていちばんいいと思える道を、サッと選んでしまおうと思う(父も生き延びられたことだし、そのくらいのルート変更は許されるだろう)。

 


すこし前、友人たちと浅草に行った。和菓子屋の前に置かれていた恋みくじを引くと、「いまから3人目に通りかかる人と結ばれます」と書かれていた。

思わず息を呑んで3人目を待った。カップルの男の人が通り過ぎ、親子連れのお父さんが通り過ぎ、3人目に駆け足でやってきたのは人力車の車夫だった。

「速くて顔見えなかったよ」。そう言って、全員でゲラゲラ泣くほど笑った。たぶん彼とは付き合わないなあ。