湯葉日記

日記です

私が亀について語るときに語ること

このところ人にあまり会いたくなくて、飼っている亀とばかり話していた。

それは手術したことなどとはさして関係なく(症状や検診についてまた詳しく書くと言ったけれど、あした術後の検査を受けたら今回の件が一段落するのでそのあとにしますね)、単に仕事で四苦八苦していたからだ。
転職したばかりで、右も左も分からず毎日焦っている。休みの日に寝ていても仕事の夢ばかり見る。

会社を辞めることについての文章を書いてからしばらく経ったけれど、結論から言うと私はいま、あのとき望んでいたとおりの仕事をできている。
悩むことや苛立つことは決して少なくはないが、ものを書いているその瞬間は基本的にとても楽しいので、どうにかやれている。幸いこういう場もあるし(あのときたくさんの方が応援すると言ってくださって力が出た。本当に、心の底からお礼を言います)。

自己肯定感というものがまるでない自分が「私これでいいんじゃん」と思える瞬間がまれにあって、それはほぼ100パーセント書くという行為によってしかもたらされない。……ので、やはり私には書き続けることが必要なのだ。そう思っている。

 


話を戻す。最近はもっぱら亀と話していた。
基本的に亀側は喋れないのでこちらが一方的にべらべらと語りかけているだけなのだけど、私が小学生の頃から飼っているのでもうわりとお互い気心は知れている。

亀は、小2のときの夏休みの課題で「動物を飼って観察日記をつけてみましょう」というのがあって、そのときに近所のイオンで500円で買ってきたやつだ。
虫かごくらいのサイズの水槽に入れられて、たしか20匹くらいまとめて商品棚に並んでいた。

いっしょに行った母が「ねえなんかこれだけ馬鹿みたいに元気じゃない」と指をさしてゲラゲラ笑った亀が本当に馬鹿みたいに元気に泳いでいたので、迷わずにそれにした。顔に黄色い縞模様が入っていて、いかにも爬虫類という顔をした亀だった。
あまりによく動くので、水槽の蓋の空気穴から水がばしゃばしゃ飛んで帰りの車のシートが水浸しになり、母が運転しながらそんな亀捨てなさいと激怒していたのを覚えている。

 


いくら元気と言えど、ワンコインで買った生き物なんて大概は季節を越す前に死んでしまう。
……という大方の予想は外れて、亀は生きた。幼かった私が手荒な真似をずいぶんしても(一時期シルバニアファミリーのレストランに住まわせてたことがある)、それはもう馬鹿みたいにぐんぐんと育った。

クサガメという種類で、だいたい神社の池とかにいるやつがそうなのだけど、基本的には温厚な亀だ。うちのはちょっと血の気が多いので他のちいさな亀を踏んづけて殺したりしたこともあるが、いまはもう大きい水槽の中で1匹で飼っているので、そういうこともなくなった。

 


亀に対して、本当に申し訳ないと思っていることがひとつある。それは、亀を飼い始めてから何年ものあいだ、私が亀の性別を間違えていたことだ。

10年ほどまえ、家に遊びに来た友人が「元気な亀だね!うちも飼ってるんだよ」と言うので、亀を水槽から出そうと持ち上げた。すると亀の裏側を見たその子が、「メスなんだね」と笑う。「いやオスだよ」。そう言うと、「えっ?尻尾の位置的にメスだよ」。
その子が帰ったあと、ネットで血眼になって亀の性別について調べた。そうしたら、やっぱりおそらく(ほぼ間違いなく)うちの亀はメスだった。

その夜、どうしたらいいのか分からなくてわんわん泣いた。
自分にとって大切な時期を、いわば思春期のピークを「異性」として過ごしてしまった相手がとつぜん同性になるというのは、まだ内面の発達しきっていない私にはなかなかに受け入れ難いものだった。冗談みたいに聞こえるかもしれないけれど、本当に。

そののち、大学に入り、10代を過ぎ、多種多様なジェンダーアイデンティティを持つ友人ができて、私はようやく「別にメスでもオスでもどっちでもいいや」とシンプルに考えることができるようになった。
なぜかと言えば、私は亀が好きだから。ごく控えめに言って溺愛しているからだ。天気のいい日には自転車の前かごに入れて公園まで連れて行くし、夏にはベランダにビニールプールを出して泳がせる。地震がきたら亀を持って逃げると決めている。
だから亀がオスだとかメスだとかは、いまはもう本当にどうでもよくなってしまった。亀は亀でしかない。

 


信頼している友人の言葉に「性別は神様みたいなもの」というのがある。その友人曰く、「ふだんは神様なんて信じていない人も、何かに縋りたいときには神様!って思うでしょう?そういう拠りどころみたいなものが性別なのだと思うよ」。
たしかに男/女の二元論で物事を語ることはとても簡単で、私もつい「男なんて」とか「女子校だからそういうの無理」とか言ってしまう。いわば、性別という根拠(らしきもの)に縋っている。

その友人はパンセクシャルで、その子が性別に関係なく人を好きになるように、そして私がその友人の性別を特に意識していないように、本当は別にそんな拠りどころはなくてもいいんだろうな、と思う。あったらあったで便利だけど、まあどっちでも、という感じ。

「好き」という気持ちの力は強くて、それはすべてを受け入れてしまうものだと私は信じている。
それが恋愛であれ友情であれ亀に対する愛情であれ、「愛でなくても恋でなくても君を離しはしない」じゃないけど、あなたがあなたでさえあればなんでも、って思う力がたぶん、私たちにはある。

 


……みたいなことを、最近はずっと亀にぶつぶつと語りかけていた。たまには人にも聞いてもらいたいと思ってここに書いた。
亀は、今年で17歳になる(私が年齢も間違えていなければの話だけれど)。