湯葉日記

日記です

残るのは言葉だけだ

このところ何もかもがだめだった。部屋の外に出るのが億劫でたまらなくて、自分宛ての公共料金のハガキののりを剥がすのすら怖かった。

気分を強制的に変えようと湘南乃風を聴いてみたけれど、「マジで最高 心解放」という歌詞でさらにもうだめになってしまって、ほかに方法がないからキッチンの奥にしまっておいた酒ばかり飲んだ。
アルコールに依存するのは2年前にやめたはずなのに、ああけっこう経ってんのに何も成長してないなあ、と酔いがさめてからうんざりした。酔ってソファで眠り、目が覚めると泣いていた。

 


なんでこうなんだろうと思って、10代の頃の日記を開いてみて納得した。16歳の私は2008年の7月6日に「このまま何もできないままで死んでいく」と綴り、17歳の私は翌年の7月6日に「何ひとつできない、もう駄目だ」と綴っていた。18歳の私にいたってはなぜか保健室にいた。

つまりは、そういうバイオリズムなのだ。どういうわけか、私は毎年この時期は「何もかもだめ」になるようにできているのだ。
そう思ったらすこしだけ安心した。電気のスイッチのたくさん並んだパネルを前にして、そうか、ここ押したらお風呂場が点くのか、とわかったときのような気持ちになった。

 


10年のあいだ日記を書き続けていると人に言うと、けっこうびっくりされる。え、毎日ですか? と聞かれる。
ルールは2つだけあって、「サボってもいい」というのと、「絶対に嘘を書かない」というのだ。「サボってもいい」から、しれっと1週間くらい間があくこともある(ただ、しんどいときは日記を書くようにしているので、書いていないときは元気なときだ)。

その日の出来事よりもむしろ、体調がどうだったとか人と何を喋っただとかを記録している。だから日記を見返すと、その頃の自分が何を考えていたかとか、何が辛かったかとかがおおよそわかる。

前例があるということはいわば自分でアップデートしてきた自分の説明書があるということなので、気分や体調が急変することがあっても、そこまで慌てずに対処できる。書き続けることは、自分の心の動きのデータベースに情報を蓄積することでもある。

 


私は日記に限らず、人にもらった手紙やメールも、馬鹿じゃないのかというくらい読みかえす。こう言われて嬉しかったとかこう言われて嫌だったとか、そういうのは頻繁に読みかえすのでもう大体覚えてしまった。

どんな言葉にも有効期限はある。それは目には見えないので時どき勘違いしてしまいそうになるけれど、「これからも仲良くしてね」や「またすぐに会おう」や「好きだよ」はあくまで過去の私に対する言葉であって、いまの私に宛てたものではない。

ただひとつわかるのは、“その日の自分”は相手にそう言ってもらえるような人間だった、ということだ。そして“その日の自分”は、幸運なことにいまの自分の中にもいる(のだけど、それがあんまり遠い日の出来事だと、なかなかいまの自分とは結びつかないから厄介だ)。

 


当たり前だけど、いまはどんどん過去になって、言葉はどんどん古くなっていく。
もしも私の好きな人が(今日の私のように)「もう何もかもだめだ」と感じて過去の言葉に救いを求めることがあったなら、その日にめくる日記の中に、読みかえすメールの中に、できるだけ新しい私の言葉があってほしい。傲慢だけどそう思う。

そのためには、好きだということを手を抜かずに、できるだけアップデートしながら伝え続けなきゃいけない。
人と人はいつかはばらばらになってしまうから、それが明日でもいいように、できるだけ本心に近い言葉で愛を語っておきたい。結局、人も気持ちも消えたあとに残るのは、言葉だけなのだから。

ラッキーカラー屋さん

教祖様だったんです僕、とトガワくんは言った。え、きみが? と聞くと「僕以外にも10人くらい。本物は1人なんですけど」とにこにこ笑う。


地下鉄を待つあいだ、トガワくんはこれまでの職歴について淀みなく語ってくれた。中卒だという彼は、16からの何年かをキャッチで食い繋ぎ、数年前までは米の訪問販売をしていたのだと言う。
お米って切れたタイミングにしか買わないよね、と私が聞くと、「そうですね。安いのならまだしも、僕が売らされてたのはブランド米だったので。普通に人ん家の玄関で土下座とかして」とあっけらかんと言う。


数日前にアルバイトで入社してきたトガワくんは、最初から抜群に電話対応がうまかった。
その日は彼を含めた何人かの歓迎会の帰りで、JR組が一斉にいなくなったあと、取り残された私たちはすこし離れた地下鉄の駅までのろのろと歩きながら話していたのだった。

「お米の次に」彼は言う。「メール鑑定のバイトをすこしだけしました」。メール鑑定とはつまりメール占いで、登録するとその日の運勢や行動にまつわるアドバイス、個人的な相談に対しての返事なんかが送られてくるものらしい。

「バイトってどういうこと?」「占い結果のメールの文面を打つんです」「監修みたいなことをする占い師がいるの?」「いますよ。教祖様みたいな、有名な占い師の人が。でも、文面はぜんぶバイトが考えてます」

えっ、と思わず口に出した。運勢とかあんなのぜんぶ適当に書いてるんですよ、最初に占い師の人にレクチャーだけされて、あとはもうそれっぽいことを個々人で書いて送るんです、とトガワくんは言う。「自分の本質を見つめ直す日になります」とか、「西の方角への旅行は避けたほうがいいでしょう」とか。

詐欺では、と言っていいものか迷っていた。彼はそれを見透かしたように、「まともな人には続かないです」と笑った。「課金すればするほど、教祖様に個人的な相談とかも送れるんです。そういうメール毎日見てたら病みますよ」。

 


10人の“教祖様”の1人であるトガワくんのもとには、不倫相手との間にできた子どもを堕ろすべきか否かとか、認知症の母の介護を兄弟に任せて引っ越していいかとか、ひと言で言ってしまえばヘビーすぎる悩みばかりがどしどし寄せられた。

周りを見ると、高額の報酬のために心を殺して作業している人、他人の不幸を目にするのが好きな人、もはや何も感じず植物のようにメールを打ち続ける人などが夜のオフィスで目を血走らせながらPCに向かっていて、トガワくんは数ヶ月で完全に参ってしまったそうだ。

「堕ろすかどうかって、絶対に占いで決めることじゃないですよね」電車に揺られながら彼が言う。「そんな人に無責任に『あなたのラッキーカラーは~』とか言えないですよね。その人たちに必要なの、ラッキーカラーじゃなくてカウンセリングですからね」。

笑えばいいのか神妙な顔をすればいいのか迷ってしまって、真ん中くらいの顔をした。
じゃあトガワくんは、占いって信じないんだ? そう聞くと、彼は「信じますよ。いちど、教祖様に本当に占ってもらったら超当たってましたもん」と言うので、今度こそ笑った。

 


あれから1年くらい経つ。
占いを信じるか、と言われたら、私はそんなには信じない。「運命」とか「縁」みたいな言葉も、そこまで好きなほうではない。

前にも書いたとおり父の実家は神社なのだけれど、どういうわけだか母の祖父、つまり私の曽祖父も神社をやっていた人らしい。神主だった曽祖父は、自分の死ぬ日をぴたりと言い当てて亡くなった。作り話みたいだけど本当に。

そういう人が間近にいたので、自分の人生のあらすじみたいなものはある程度決められてるのかもな、と思うことはある。けれど神様もたぶん、73億人分のシナリオの細かい部分まで手を抜かずにいられるほど、暇ではないはずだ。

だから神様が油断している隙に、私は私にとっていちばんいいと思える道を、サッと選んでしまおうと思う(父も生き延びられたことだし、そのくらいのルート変更は許されるだろう)。

 


すこし前、友人たちと浅草に行った。和菓子屋の前に置かれていた恋みくじを引くと、「いまから3人目に通りかかる人と結ばれます」と書かれていた。

思わず息を呑んで3人目を待った。カップルの男の人が通り過ぎ、親子連れのお父さんが通り過ぎ、3人目に駆け足でやってきたのは人力車の車夫だった。

「速くて顔見えなかったよ」。そう言って、全員でゲラゲラ泣くほど笑った。たぶん彼とは付き合わないなあ。

 

森を歩く

バスがお城みたいなラブホテルの横を通り過ぎて、東京を出たという実感がようやく湧いた。
20分前にマックで買ったホットアップルパイはもう冷めていて、冷めたマックの食べ物ほどまずいものはないよなと考えていたら、隣に座る同行者も「冷めたホットアップルパイほどまずいものないよね」と言うのだった。そうだね、とうなずいて作業的にそれを食べる。

 


高速バスに乗るのはずいぶん久しぶりだった。
大学時代はライブや演劇の遠征なんかで何度か高速バスを使ったが、働くようになってから遠くに行くこと自体が減っていた。たぶん、渋谷から横浜あたりまでを半径とする円の範囲から、この1年くらいいっさい出ていない。
運転手はわたくしコバヤシが、というアナウンスに、「コバヤシさんよろしくお願いします」と返事をする。

 


軽井沢に行きたい、と言ったのは同行者だったが、行きたかったのはむしろ私のほうだった。「ゴールデンウィークの軽井沢なんて混み方もう埼京線埼京線」と母親に妙な脅し方をされたので、宿は小諸だと伝えると「それならよし」としずかに言われる。

 


正午過ぎ、軽井沢駅に着く。
同行者が蕎麦を食べたいと言うので、蕎麦屋を探して歩いた。車通りの激しい駅近くの道は、なぜかそこかしこに松ぼっくりが落ちまくっていて、足を踏み出すたびに靴の底でざくざくと音がした。

引きこもってばかりの私と反対に旅慣れしている彼は、「本当にきみが来るとは」と確かめるように何度も言った。「本当に私が来るとは」と私も言った。
歩きながら自分の心臓がどきどき言っているのが聞こえたので、行きのバスで聴いたフジファブリックを歌ったり、「楽しい」と過剰に口に出したりした。そのうち本当に楽しくなってきた。

 


通された蕎麦屋の席は向かい合うテーブルだったので、緊張した。メニューを見ながら彼が「飲もうか」と言った。迷わずにうなずき、天ぷらうどんの天ぷらをつまみに日本酒を飲む。もうこの旅これだけでいいかもしれない、という心地になる。

近くのテーブルにボーダーのニットを着た4人組の女の子がいた。小声で「合わせたのかな、たまたまかな」と訊くと、「カルテットのオフ会なんじゃないのかな」と彼が言うので納得してしまう。

食後、お茶を飲んでいたら眠くなってくる。とつぜん店内の電気が消えたので、誕生日の人でもいるのかと思ったら、同行者が壁に寄りかかって電気を消してしまったのだった。「失礼しました」と謝る彼を見て笑ってしまう(その日は電気のスイッチを見るたびにそれを思い出して、そのたびに笑った)。

アウトレットで写ルンですやらパスタソースやらを買い、私が「一瞬だけ」と言いながらあらゆる服屋に入ったりしていたせいで、いつの間にかいい時間になっていた。雨も降ってきたので、軽井沢観光はあしたにして日帰り温泉でも行こうか、という話になる。

 


16時半ごろ、しなの鉄道で中軽井沢に向かう。電車の中は人でいっぱいだったのに、中軽井沢ではまばらにしか降りなかった。手動のドアをエイッと閉める。温泉までは送迎バスが出ていたのだけれど、こちらにも人は私たち以外1組しかいなかった。

 


大浴場というものが苦手だ。人の裸を見るのも苦手だし、人に裸を見られるのはもっと苦手だった。温泉の中に入るなり、そそくさと風呂の端に座って10分くらいじっとする。サウナでも同じように、石みたいに10分じっとした。

いろいろな年齢、人種、体型の人たちが視界を横切っていった。肩に桜のタトゥーが入った白人女性が私の目の前に座ったとき、隣のお母さんがすこしだけ顔をしかめた。桜の絵の上を汗が滑り落ちていくさまは、なかなかに美しかった。

 


ノーメイクで外に出るのは緊張した。同行者と合流し、顔を半分くらい隠しながらコーヒー牛乳を買う。すこしだけ肌寒くなっていたけれど、コーヒー牛乳はやはり美味しい。小さいころ、家の隣に数年間だけ銭湯があったことを思い出す。

歩けない寒さではなかった。地下鉄の広告でさんざん目にしていた軽井沢高原教会に寄り(ポスターのままだった)、駅まで戻る。

夕食は作るつもりだったので、どこかでスーパーに寄らなければいけなかった。調べると、宿のある小諸駅周辺に、20時に閉まるスーパーが1軒だけあった。電車が小諸に着くのはその10分前だったので、走った。

なんとか食材を買い、スーパーの前のベンチで「危ない、パスタソースを舐めながら一夜を明かすところだった」と話していると、パスタを買い忘れたことに気づく。
店内に走り、「パスタソースだけあるんです」と言うと店員さんが気の毒がってレジを開けてくれた。無事にパスタを買って戻る。

 


迎えに来てくださったオーナーさんの車に乗って、宿へと向かう。
どんな人なのか分からないので不安だったが、メッセージのやりとりで感じていたとおり親切な人だった。10分くらい車に揺られていると、道が蛇行し始めた。しだいに辺りが真っ暗になる。車のヘッドライトでしか前が見えなくなってきて、なんだかワクワクすると伝えると、オーナーさんが「怖くないならよかった」と笑ってくれた。

 


森の中を通っているのは揺れ方でわかった。やがて車がコテージに着くと、暗闇の中で入り口のドアだけが見えた。中に入ると、和室がふたつあった。
オーナーさんがどこに通じるかわからない扉を開けるたびに、『となりのトトロ』でメイが2階への階段を探すときはこんな気持ちだったろうと思った。静かで、小ぢんまりしていて、すばらしい宿だった。

 


オーナーさんが帰られたあと、「すばらしい」「どうしよう」「とりあえずお酒を」とお酒をあけた。アルコールによって無事に緊張がほぐれ、台所でポトフを作る。カセットコンロしかなくて火加減の調整が難しかった。パスタを茹でようとしたら麺の先が燃えたので、パスタソースで和えてごまかす。

テーブルに料理を並べると、なんとかそれらしくなった。夕食のあと、フルハウスのDVDを見つけてそれを見る。
彼はフルハウスを見たことがないと言うので、奥さんが亡くなっていて、3姉妹で、と人間関係をべらべら説明した。ジェシーおいたんはやはり恰好いい。

 


フルハウスが終わるころ、ふと思い立って、正面の障子を開けてみた。
そこはベランダだった。一歩外に出ると、真っ暗闇の中にうっすらと森が見える。彼も並んで外に出た。冷気がパジャマの裾から入り込んで体を冷やしてゆく。
上のほうが変に明るいなと思って顔を上げると、星が出ていた。ばら撒いたようにそこかしこで光っていて、写真に撮る気にすらなれなかった。美しいシーンを前にして口にする言葉はわざとらしい。私たちは馬鹿みたいに口を開けてそれを眺め、時どき「わあ」とだけ言った。

 

 

 

3~4時間ほどで目が覚めてしまった。しばらく同行者の寝息を聞いていたが、彼も起きた。鳥がチュンチュンと鳴いていたので早朝だとわかった。こういう場面をエスタブリッシュショットと言います、と大学のシナリオの授業で習ったのをふと思い出す。

シャワーを浴び、鼻歌を歌い、昨日のポトフの残りを食べる。長めの二度寝のあとで目を覚ますと、チェックアウトの時間が近づいていた。ベランダから外に出て、昨晩は見えなかったコテージの外観を初めて見る。
宿の予約をするときに写真で見たとおりの可愛らしい建物だった。走り回って写ルンですを使う。

 


10時。コテージを出て、近くのワイナリーまで歩くことにした。

「朝になったらきっとこの桜が綺麗ですよ」とオーナーさんに言われていたあたりを通りかかると、果たして立派な桜の木があった。出来すぎなのでは、と思うくらい、4月下旬だというのに満開だった。なんか今年はきみと3回くらい桜見てる気がする、と言うと、そうだねと彼が言った。

外はいつの間にかうっすらと汗をかくくらいに暑く、道の上には誰もいなかった。フィルターを強くかけたみたいに視野のすべてが鮮やかで、木々は初夏の色をしていた。彼は鞄を置いてシャツを脱いでいた。

 


県道を下ってゆく。振り返ると、コテージのある森がもうずいぶん遠くに見えた。昨日は見えなかったその姿を、種明かしされたみたいに眺める。

歩くにはやや過酷なルートだった。丘やら小川やらたんぽぽだらけの道を通るたび、ヒールの裏に草が貼りついていった。
途中、一瞬だけ田んぼの隣の住宅の脇を通ると、そこの主人がどうしてこんなところ、みたいな目をしてこちらを見た。綿毛を飛ばしたりしながら、なんとかワイナリーに着く。

 


またもや人は少ない。見学の申し込みをしたあと、順番がくるまでの時間にワインの試飲をしすぎてしまう。「きみはコップ1杯に注ぐ量がすこし多いと思う」とやんわり彼にたしなめられる。

ガイドのお姉さんの説明を聞き、ワインができるまでのDVDを見る。10分弱の映像。なぜか後半にだけあらゆるシーンでテロップが入ってきて、そればかり気になってしまう。
見終わったあと小声でそれを伝えると、「フォントがWordにデフォルトで入ってるやつだったよね」と彼が言う。

 


ワインを貯蔵している樽の前で、「この樽の中のワインをひとりで飲みきろうと思ったら、毎日1本飲んでも130年かかります」とお姉さんが言い、まばらな見学者がワッと沸いた。2回生まれ変わっても飲める! とみんなではしゃぐ。

足が棒のようだったので、小諸駅まではタクシーを使った。この旅で初めてのタクシーだった。景色が窓の外を通り過ぎるスピードに驚く。早送りの映像を見ている気分だった。

 


小諸駅に着いて、昼食をとれる場所を探す。
街じゅうに貼られた俳句のコンテストの受賞作を見ながら、「これは保護者が書いてる」「いまいち」などと品評して歩いた。揚げ饅頭を買って半分ずつ食べる。
スナックの並ぶ通りを歩きながら、楽しくて思わず「楽しい!」と連呼してしまう。日曜日で休みの店が多く、結局、昼食を小諸でとるのは諦めた。

 


再びしなの鉄道に乗る。ボックス席に座ったら眠くなってきてしまい、しばらくウトウトした。起きたら中軽井沢だった。「きみが寝てる間に車窓から馬が見えたよ」と彼に言われる。この2日間、あらゆる同じ景色を見てきたのに、私だけ見られなかった光景があるというのはすこし癪だった。

中軽井沢の駅を出て歩いていると、横からいい匂いがした。小さなレストランがあったので、迷わずに入る。何を食べても美味しい店だった。「やっぱり美味しい匂いをさせるお店は美味しい」と彼が得意気に言う。テラス席は風が強く、飛ばされたおしぼりを何度か回収しに行った。

店を出て、橋を渡り、「ムーゼの森」に向かう。

 


道中、ものすごく人懐こい猫とものすごく警戒心の強い犬を飼っている家の前を通りかかった。猫が私と彼の足元を行ったり来たりしている間、犬はずっと吠えていた。

迷いながらもムーゼの森に着き、絵本の森美術館に入る。ミュージアムショップの扉を開けるなり、目の前に『ねないこだれだ』が見えてウワッとなる。彼は姪と甥のために、私は自分のために、ポストカードやステッカーなどを買い漁る。

絵本が自由に読める展示室には誰もいなかった。椅子を並べて、昔読んだ絵本をぱらぱらとめくった。母親が林明子の絵が好きで、私はそればかり読まされて育ったのだった。

『とん ことり』や『あさえとちいさいいもうと』を読み、すこし泣く。『かいじゅうたちのいるところ』も、『ずーっとずっと だいすきだよ』も『100万回生きたねこ』も、当然のように泣いてしまう。天国的な時間。

 


ムーゼの森を出て、バス停で市バスを待った。「いい旅行だった」と言おうとして、帰るまでが旅行だと訂正する。

バスは遅れながらもきちんとやってきた。軽井沢駅まで熟睡する。起きて、今度は高速バスのバス停まで歩く。ぎりぎりでなんとか乗れる。

帰りのバスというのは例外なく、夜みたいに静かだ。寝てもいいよと彼が言うが、起きたときに街並みががらりと変わっているあの感じを味わうのが淋しいので、我慢して起きている。すこしずつ、すこしずつ窓の外から山が消えてゆき、建物が増えてゆくのをじっと見届ける。

江古田を通り過ぎ、中野を通り過ぎ、灯りが増え、新宿に着いた。22時だった。

 


新宿を歩きながら、人の声だらけだと思った。キャッチも、キャッチ禁止を訴える街頭テープも、私たちを取り囲むあらゆるものがうるさかった。ひとりになりたいとずっと思っていたけれど、そうじゃなくて私は静かな場所に行きたかったのだ、と急に気づいた。小諸の夜が、ものすごく遠い日の出来事のように思えた。

いつか忘れてしまっても

熱を出すたびに思い出すことがある。

それは1997年の夏の日で、私は幼稚園の先生の膝に頭を乗せて寝ている。カトリックの幼稚園だったから先生たちの半分くらいはシスターで、ひめゆり組のR先生もそうだった。

教室の窓からは園庭で走り回る子どもたちが見えた。ひどく暑い日で、私は高熱を出して、引き伸ばされた紙みたいにぐったりとしていた。R先生が私の顔を覗き込もうと背を屈めると、ベールの落とす影で暑さは少しだけましになった。

 

「しほちゃん、しほちゃん」。私の髪を撫でながら、R先生は泣いていた。 真夏の外遊びで発熱して教室に担ぎ込まれた5歳の私は内心、また熱か、と思っていた。私は体調を崩すことに慣れている可愛げのない子どもで、一方のR先生は気が弱く、心清らかで、新任だった。

慌てきった様子のR先生は、母親が私を迎えに来るまでの間、朦朧としている私に語りかけ続けた。「いい子のあなたがいなくなったら、先生はとっても悲しいのよ。お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。

 

帰り道、母親が運転する車の中で、私はくすぐったい気持ちだった。R先生の話をすると、母親は「そりゃ自分の幼稚園で園児に死なれたら嫌でしょう」と笑った。「あんたね、そんな熱じゃ死なないわよ」。

月に1度は高熱を出す5歳児を毎回律儀に心配するほど、親というのは暇ではない。母親は私に冷えピタを貼ってベッドに下ろすと仕事に戻っていった。

 

それからというもの、熱を出して家にひとりでいると(多くの場合は心配した父が早めに帰ってきたけれど)、私はR先生の言葉を反芻するようになった。 「あなたがいなくなったら、お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。 小学校に上がっても、10代を迎えても、その言葉は耳から離れなかった。

 

大人になった私に、ひょんなきっかけで手紙をくれた人がいた。 私はその人のことを尊敬していて、いつまでも仲良しでいたいと思っていたし、そのつもりだった。 手紙の中にはこんなフレーズがあった。 「この手紙を読んであなたはいまうれしい気持ちになってくれていると思うのだけど、その気持ちがずっと続きますように。いつか消えてしまっても、それが栄養となって、あなたの新しい一歩をつくる支えとなっていきますように」。

初めて読んだとき、まるでいつか私がその人のことを忘れてしまうみたいだ、なんでこんな寂しいことを書くのだろう、と思った。そんなはずはないのに。

時間が経ち、さまざまなことが重なった結果、その人とはあまり会えなくなってしまった。 手紙を開いたときの嬉しかった気持ちを、私はいつまで覚えていられるだろうと時どき考える。たぶん忘れないはずだ、けれど、絶対という自信はない。 ただ、「いつか消えてしま」うことまで許容してくれたその手紙のことは、死ぬまで忘れないと確信している。

 

きょう、気に入ったブログがあるから読んで欲しいと友人に言われて、この文章を読んだ。

ここに、事故に遭って病院にかつぎこまれながらも奥さんに「大好き」と言う人が出てくる。万一のことを意識して、なんて理由ではなく、それは奥さんのためであり、自分自身の治癒のためでもあるのだ。

「大好きな人に大好きと言われると、身体の苦痛は減る」のだという。だから彼は、熱を出すたびに、身体に不調をきたすたびに、大好きな人に「大好き」と伝え、同じように返事をもらう。

このブログを教えてくれた友人は、少し前に身近な人を亡くしている。いままでありがとう、と亡くなる直前に本人に伝えたのはきっと無駄ではなかった、と友人は言った。 そして私は友人と、これまで自分が伝えてきた言葉や人にかけられてきた言葉は、きっと何らかの(具体的な効用として)役に立っている、という話をした。このブログの言葉を借りるなら、“解熱剤”みたいに。

 

言葉は呪いだ。私はR先生の言葉を忘れないように、13歳のときに同級生に言われた悪口も、飲み屋で隣り合わせた人から言われた下品な言葉も、ずっと忘れないだろう。 たとえ気持ちは思い出せなくなっても、言葉は私に残るだろう。刺繍みたいに縫いとめられて、常に自分の目につくところにあるだろう。私はそれを含めて自分と呼ぶし、他人はそれを見て私だと思う。

だから私は、できるだけ、自分の好きな言葉をいちばん上に縫いとめて、いちばんよく見えるところに置くのだ。私のために。私と関わる人のために。いつか忘れてしまうその日のために。

自分の香りを見つけた話

ハタチのころ、よくつけていた香水があった。
高校を卒業するときにデパートのカウンターで(背伸びをして)買ったそれはフリージアとスズランの香りで、ひと吹きして出かけると、会った友達みんなに「いい匂いがする」と言われた。嫌味のない、さわやかな香水だった。

あるとき、苦手だった先輩が、すれ違った私を振り返って「すごくいい香り」と言った。考えてみると、その香りを苦手と言う人に会ったことがなかった。

私は当時、ダズリンやスナイデルのひざ丈ワンピを着ている大学生の自分と髪の毛を刈り上げのベリーショートにしたい気持ちで毎日揺れていて、端的に言えば万人ウケを捨てきる勇気のない美大女だった。

先輩の言葉は「みんなが好きな香りをつけている自分」という醜い自覚を生み、やがてそれは呪いになった。
私はその香水をつけるたびに「なんて安っぽい香りなんだろう」と思うようになり、やがて二軍落ちしたそれは適当な瓶に詰め替えられ、部屋の消臭剤と化した。

香水をつけたいときは、母親のを借りるようになった。彼女は自分に合う香りをよく知っていて、清涼感があるけれど甘ったるくないゲランのオーデコロンを使っていた。
私はそれを手首に吹きかけるたび、「好きだけど」と思った。好きだけど、悪くないんだけど、そうじゃなくて。
自分だけの香りを見つけたい、と強く思っていた。

 

 

「彼女に薔薇を」と隣のお客さんがバーテンに言ったのが去年の夏だった。
私は近所のバーで飲んでいて、カウンターには私とその人のふたりしかいなかった。知らないその客は、ひとりで店に入ってきた私を一瞥するなりそう言ったのだった。
口説くとか格好つけるとかいう感じでもなく、ごく自然に「薔薇を」と言った。

いつもお喋りなマスターは慣れた様子で「はい」と答えるなり、美しいラベルのボトルからとくとくと薔薇色の液体をグラスに注いだ。「リキュール・ローザです」。

なにこれ、とか度数強いの? とか言うのも野暮だと思い、隣の客に礼を言ってグラスに口をつけた。瞬間、薔薇の香りが耳のあたりまでぶわっと広がる。甘くて高貴で、夢みたいな味がした。
15年来の常連だというそのお客さんは、バーで新しい顔を見るたびにそのリキュールをご馳走しているのだと話してくれた(マスターは「『薔薇を』って言いたいだけでしょ」と笑っていた)。

 

たまらない香りだったと伝えると、「サンタマリアノヴェッラ、フィレンツェにある世界最古の薬局のひとつです。香水が有名だけど、リキュールも一級品なんですよ」とマスターがにこにこ言う。
ショップの名前だけは、雑誌で見たことがあった。けれど、「商品すべてが棚にしまわれていて値札は置いていない」とか「一対一のカウンセリングのような接客」とか書かれていた記憶があって、無理、ハードル高すぎと思っていたのだった。
そして、iPhoneに「サンタマリアノヴェッラ ローザ」というメモだけを入れた状態で半年が経った。

 

 

今日、銀座で用事を済ませた帰り、(いつものように)駅までの道が分からなくなってしまった。交差点で立ち止まってグーグルマップを起動させたところで、「そういえば」と思った。
サンタマリアノヴェッラ、と入力すると、自分がいる場所のすぐそばにピンが立った。

細い道を曲がってしばらく歩くと、お世辞にも入りやすいとは言えない重たげな木の扉が見えた。看板の文字を確認して、ドアを引いた。

聞いていたとおりの店だった。値札はなく、商品棚には鍵がかかり、黒い服のスタッフたちがしずかにカウンターで待っていた。けれど、不思議と威圧的には感じなかった。
店員さんは私を見て微笑むと、落ち着いた声でなにをお探しですか、と聞いてくる。ローザ……と言おうとして、咄嗟に、本当にそれでいいのか? と思った。
ひとつしか知らない香りを、人にすすめられていいと感じた香りを、本当に「自分だけの香り」にしていいのか? と。

迷った私が「なにも決まっていないのだけど好きな香水が欲しくて」と支離滅裂なことを言うと、店員の彼女は「40以上のオーデコロンがあるので、まずは人気のものから」といくつかのサンプルをカウンターに並べてくれた。

そのほぼすべてが、とても、いい香りだった。最初に嗅いだものがもうかなり好みだったので、これにしちゃおうかな、と思ったくらいだ。
けれど、ひとつだけあまり得意でない香りがあった。聞くと、「石鹸みたいな爽やかで嫌味のない香りなので、女性の方には人気なのですが」と彼女。きっと私は、その香りに前に使っていた香水を重ねているのだろうと思った。

しばらくあれこれ考えていると、店員さんがじっとこちらを見て言った。「ちょっと、待ってくださいね」。
彼女は後ろの棚からひとつのオーデコロンを出して、「これ、いかがですか」と吹きかけた。
サンプルに鼻を近づけて、もうその時点で笑ってしまった。「好き、もうすごく好きです」。彼女も笑っていた。「そうじゃないかと思ったんです」。

女性らしい、とは言えない香りだった。フレーバーにタバコを使っているという通り、すこしスモーキーで、甘くなくて、「閉じた」香りがした。
でもクセのない香りですね、と私が言うと、彼女は笑って「クセは多少あると思います」と控えめに言った。
試しに他のサンプルを嗅ぎなおしてみると、それは明らかにやや異質だった。けれど、やっぱり好きだ、という思いが強くなった。

聞けなかった値段をそこでようやく聞いてみて、すこしひるんだ。帰りにたまたま思い出して寄った店で出す金額、にはちょっとふさわしくない出費だと思った。
逡巡する私に、店員さんは「もし忘れられなかったらいらしてください、お取り置きもできるので」と微笑んでくれた。


お礼を言って店を出ようとしたところで、ふとカウンターの後ろの棚が目に入った。サンプルの紙しか見ていなかったので、「いまの香水のいれものを見せてもらってもいいですか」と聞くと、彼女は頷いて香水瓶を私の前に置いた。

それは、美しかった。シンプルなかたちでいかにも「薬局」の瓶だけれど、ラベルの装飾や文字、色のどれもが、自分のものにしたくなる美しさをしていた。
彼女はそれを裏返して、「エバ」という香水なんです、「アダムとイヴ」のイヴですとしずかに言った。
結局私はこれを買いにくるんだ。たぶん、明日くる。そう思って、私はそれをくださいと伝えた。

 


家で、どきどきしながら香水の瓶を開けた。お店の雰囲気にあてられていい香りだと思っただけだったらどうしよう、と考えながら鼻を近づけて、やっぱり笑ってしまった。
それはいい香りだった。自分が選んだ、自分のための、自分がいちばん好きな香りだった。

うれしくなって、お風呂上がりの手首に香水をつけてみた。にやにやしながらお酒をあけようとして、今日はやめとこう、アルコールの匂いは邪魔だと思った。
枕元に香水瓶を置いた。今日はこのまま、眠ろうと思う。

チェロを作った夜のこと

17歳の私は池袋のロフトで買ったペーパークラフトを熱心に組み立てていた。
制服のセーターは脱ぎかけのまま、リビングの床に新聞紙を広げて。その上には50ほどのパーツが古道具屋みたいに所狭しと並んでいた。風呂上がりの父が部屋に入ってくると、ドアが起こした風で小指の先ほどのパーツがフワリと飛んだ。

「気をつけてよ」父を睨む。「なにしてんだ」「見てわかるでしょ」。キッチンから母が顔を覗かせて、「あんた昨日それ夜中までやってたでしょう。箸くらい並べなさい」と語気を荒げる。「いい、食べない」。私が言うと、母はため息をついて夕食の支度に戻った。

 


顔を上げると真夜中だった。ダイニングテーブルの上にはラップのかかった夕食が置かれていて、私の席の灯りだけがついていた。辺りはとても静かだった。

9分9厘完成したそれを持ち上げてみる。最後のパーツの接着剤が乾くまで時間がかかりそうだったので、夕食の皿を電子レンジにかけた。その橙色の光を見ていたら唐突に悲しくなった。涙がこみあげてきて、自分でもわけがわからないまま、キッチンの床にしゃがんでぽろぽろと泣いた。

出来あがった紙のチェロは、ロフトのショーケースの中で見た見本よりもやや威厳がなかった。あそこに並んでいたのが朝イチの姿だとしたら、私のは仕事帰りの地下鉄の窓にうつった姿くらいにはくたびれていた。それでも、遠目に見れば凝った作品と思えなくもなかった。
ためしに弓と楽器を演奏家のように抱えてみる。柔らかくチェロを構えると、本当に音が出そうで愛着が湧いた。あ、なんでもいいから楽器が弾きたい、と思ったけれど、近所迷惑なので諦めた。

 


「できた」。そう口に出したとき、もうすべて終わってしまったことがわかった。私はチェロをぐしゃりと握りつぶして、新聞紙に丸めて捨てた。

夜明けまで時間があったので、ベッドにもぐって日記帳を開いた。日記には、明日学校に行きたくないということと、キッチンで急に泣いたことを書いた。
チェロのことは忘れていた。

 

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真夜中に急に文章が書きたくなって、高校のときのことを思い出して書きました。たしか今くらいの時期に「ペーパークラフトをつくる。つくらなければ死ぬ」と発作的に思い、ロフトで(バイオリンがよかったのだけど売り切れてたので)チェロのキットを買い、丸3日かけて完成させた夜のことです。

けっこう丁寧に日記をつけてた時期のはずなのに、あのペーパークラフトに関してはいっさいの文章が残っていません。だからできる限りの気持ちを思い出して書こう、と思ったのですが、いざ書き始めたら記憶がにょきにょきと解凍されてきて、そういえば急に台所で泣いたなとかあらゆることを思い出してしまい鳥肌が立ちました。

何度かここでも書いたように私は24にして感性が発達しきっていないのですが、16歳から17歳にかけての情緒不安定ぶりには目を見張るものがありました。記録し忘れたことがあってはもっと大人になってから後悔するような気がしたので、あのときの気持ちをなぞるようなつもりでこれを書き残します。自分でもよくわからないのだけど、これを書いている私はたしかに17歳の私です。

三日月を知らない子ども

仕事帰り、駅までの道を歩く。
職場からほど近いビアガーデンの解体作業が始まっていた。天井やカウンターや大きなビールのモニュメントなど、見慣れた景色がすべてばらばらになってゆくのをしばらく立ち止まって見ていた。そのさまはまるで夏の閉会宣言だった。

サブリミナル効果みたいなものだろうか、電車に乗った途端にお酒が飲みたくなり、乗り換え駅で降りる。適当に歩いているとバーを見つけた。こういうのは勢いが大事なので、迷う前にドアを引いた。

 


ぼんやりとモヒートを飲んでいると、隣の女性が「話しかけてもいい人ですか」とこちらを覗き込んできた。「あ、いい人です」「いい人ですか。よかった」。

その女性は店の常連らしく、もう20年以上同じ席で飲んでいると言う。「地縛霊みたいなものですよね」とバーテンさんが軽口を叩くと、「いいじゃん、ボトル入れてくれる地縛霊なんて」ところころと笑った。


しばらく話していると、彼女が不意に私をじっと見て、「ねえ、お姉さん、文系でしょう」と聞いてきた。「文系です」「ね。そうでしょう」。
すこし迷うように視線を泳がせたあと、「失礼だけど、三日月って学校で習った?」と続く。ちょっと面食らった私が「たぶん習いました」と答えると、「よかったー」と相好を崩した。


彼女は自分が大学の職員だと明かしたうえで、こんな話をしてくれた。

すこし前に半期の授業を終えた打ち上げがあり、教授や学生とお酒を飲んでいた。すると一人の学生が「自分は義務教育で『月の満ち欠け』を習わなかった」と言い出し、それをきっかけに、月の満ち欠けを習った/習わなかった議論が始まった。
学生たちの話をまとめると、ほとんどの学生が授業は受けていたものの、半数近くは「上弦の月」「下弦の月」の存在は高校で知った、というのだ。

驚いた彼女が調べてみると、学習指導要領で「月の満ち欠けは最低“2つ”の月を教えればいい」とされている時期(つまりゆとりだ)があったらしい。彼女は話をこう結んだ。
「……だとしたら、極端な話“満月”と“新月”だけでもいいんだよ。そんなのありえないと思わない?」


私はまさにゆとり世代ど真ん中なので、覚えていないけれどもしかしたら自分もそうだったかもしれない、と話した。彼女は「べつに円周率がおよそ3でもいいけど、三日月を知らない子どもってねえ」とグラスの氷を見つめる。
「あ、でも、アポロ11号の月面着陸は学校で習ってないです」と私がこぼすと、彼女は「わお」と言った。

 


帰り道、月が綺麗だった。ニュースで昨日だか一昨日が中秋の名月って言ってたな、と思い出す。そういえば、私は満月がすこし欠けたその月の呼び名を知らなかった。
「大統領の名前なんてさ 覚えてなくてもね いいけれど」。名前の分からない月を見あげて、好きな歌を口ずさみながら秋の夜道を歩いた。風が気持ちよかった。