湯葉日記

日記です

自分の香りを見つけた話

ハタチのころ、よくつけていた香水があった。
高校を卒業するときにデパートのカウンターで(背伸びをして)買ったそれはフリージアとスズランの香りで、ひと吹きして出かけると、会った友達みんなに「いい匂いがする」と言われた。嫌味のない、さわやかな香水だった。

あるとき、苦手だった先輩が、すれ違った私を振り返って「すごくいい香り」と言った。考えてみると、その香りを苦手と言う人に会ったことがなかった。

私は当時、ダズリンやスナイデルのひざ丈ワンピを着ている大学生の自分と髪の毛を刈り上げのベリーショートにしたい気持ちで毎日揺れていて、端的に言えば万人ウケを捨てきる勇気のない美大女だった。

先輩の言葉は「みんなが好きな香りをつけている自分」という醜い自覚を生み、やがてそれは呪いになった。
私はその香水をつけるたびに「なんて安っぽい香りなんだろう」と思うようになり、やがて二軍落ちしたそれは適当な瓶に詰め替えられ、部屋の消臭剤と化した。

香水をつけたいときは、母親のを借りるようになった。彼女は自分に合う香りをよく知っていて、清涼感があるけれど甘ったるくないゲランのオーデコロンを使っていた。
私はそれを手首に吹きかけるたび、「好きだけど」と思った。好きだけど、悪くないんだけど、そうじゃなくて。
自分だけの香りを見つけたい、と強く思っていた。

 

 

「彼女に薔薇を」と隣のお客さんがバーテンに言ったのが去年の夏だった。
私は近所のバーで飲んでいて、カウンターには私とその人のふたりしかいなかった。知らないその客は、ひとりで店に入ってきた私を一瞥するなりそう言ったのだった。
口説くとか格好つけるとかいう感じでもなく、ごく自然に「薔薇を」と言った。

いつもお喋りなマスターは慣れた様子で「はい」と答えるなり、美しいラベルのボトルからとくとくと薔薇色の液体をグラスに注いだ。「リキュール・ローザです」。

なにこれ、とか度数強いの? とか言うのも野暮だと思い、隣の客に礼を言ってグラスに口をつけた。瞬間、薔薇の香りが耳のあたりまでぶわっと広がる。甘くて高貴で、夢みたいな味がした。
15年来の常連だというそのお客さんは、バーで新しい顔を見るたびにそのリキュールをご馳走しているのだと話してくれた(マスターは「『薔薇を』って言いたいだけでしょ」と笑っていた)。

 

たまらない香りだったと伝えると、「サンタマリアノヴェッラ、フィレンツェにある世界最古の薬局のひとつです。香水が有名だけど、リキュールも一級品なんですよ」とマスターがにこにこ言う。
ショップの名前だけは、雑誌で見たことがあった。けれど、「商品すべてが棚にしまわれていて値札は置いていない」とか「一対一のカウンセリングのような接客」とか書かれていた記憶があって、無理、ハードル高すぎと思っていたのだった。
そして、iPhoneに「サンタマリアノヴェッラ ローザ」というメモだけを入れた状態で半年が経った。

 

 

今日、銀座で用事を済ませた帰り、(いつものように)駅までの道が分からなくなってしまった。交差点で立ち止まってグーグルマップを起動させたところで、「そういえば」と思った。
サンタマリアノヴェッラ、と入力すると、自分がいる場所のすぐそばにピンが立った。

細い道を曲がってしばらく歩くと、お世辞にも入りやすいとは言えない重たげな木の扉が見えた。看板の文字を確認して、ドアを引いた。

聞いていたとおりの店だった。値札はなく、商品棚には鍵がかかり、黒い服のスタッフたちがしずかにカウンターで待っていた。けれど、不思議と威圧的には感じなかった。
店員さんは私を見て微笑むと、落ち着いた声でなにをお探しですか、と聞いてくる。ローザ……と言おうとして、咄嗟に、本当にそれでいいのか? と思った。
ひとつしか知らない香りを、人にすすめられていいと感じた香りを、本当に「自分だけの香り」にしていいのか? と。

迷った私が「なにも決まっていないのだけど好きな香水が欲しくて」と支離滅裂なことを言うと、店員の彼女は「40以上のオーデコロンがあるので、まずは人気のものから」といくつかのサンプルをカウンターに並べてくれた。

そのほぼすべてが、とても、いい香りだった。最初に嗅いだものがもうかなり好みだったので、これにしちゃおうかな、と思ったくらいだ。
けれど、ひとつだけあまり得意でない香りがあった。聞くと、「石鹸みたいな爽やかで嫌味のない香りなので、女性の方には人気なのですが」と彼女。きっと私は、その香りに前に使っていた香水を重ねているのだろうと思った。

しばらくあれこれ考えていると、店員さんがじっとこちらを見て言った。「ちょっと、待ってくださいね」。
彼女は後ろの棚からひとつのオーデコロンを出して、「これ、いかがですか」と吹きかけた。
サンプルに鼻を近づけて、もうその時点で笑ってしまった。「好き、もうすごく好きです」。彼女も笑っていた。「そうじゃないかと思ったんです」。

女性らしい、とは言えない香りだった。フレーバーにタバコを使っているという通り、すこしスモーキーで、甘くなくて、「閉じた」香りがした。
でもクセのない香りですね、と私が言うと、彼女は笑って「クセは多少あると思います」と控えめに言った。
試しに他のサンプルを嗅ぎなおしてみると、それは明らかにやや異質だった。けれど、やっぱり好きだ、という思いが強くなった。

聞けなかった値段をそこでようやく聞いてみて、すこしひるんだ。帰りにたまたま思い出して寄った店で出す金額、にはちょっとふさわしくない出費だと思った。
逡巡する私に、店員さんは「もし忘れられなかったらいらしてください、お取り置きもできるので」と微笑んでくれた。


お礼を言って店を出ようとしたところで、ふとカウンターの後ろの棚が目に入った。サンプルの紙しか見ていなかったので、「いまの香水のいれものを見せてもらってもいいですか」と聞くと、彼女は頷いて香水瓶を私の前に置いた。

それは、美しかった。シンプルなかたちでいかにも「薬局」の瓶だけれど、ラベルの装飾や文字、色のどれもが、自分のものにしたくなる美しさをしていた。
彼女はそれを裏返して、「エバ」という香水なんです、「アダムとイヴ」のイヴですとしずかに言った。
結局私はこれを買いにくるんだ。たぶん、明日くる。そう思って、私はそれをくださいと伝えた。

 


家で、どきどきしながら香水の瓶を開けた。お店の雰囲気にあてられていい香りだと思っただけだったらどうしよう、と考えながら鼻を近づけて、やっぱり笑ってしまった。
それはいい香りだった。自分が選んだ、自分のための、自分がいちばん好きな香りだった。

うれしくなって、お風呂上がりの手首に香水をつけてみた。にやにやしながらお酒をあけようとして、今日はやめとこう、アルコールの匂いは邪魔だと思った。
枕元に香水瓶を置いた。今日はこのまま、眠ろうと思う。