自分の香りを見つけた話
ハタチのころ、よくつけていた香水があった。
高校を卒業するときにデパートのカウンターで(背伸びをして)買ったそれはフリージアとスズランの香りで、ひと吹きして出かけると、会った友達みんなに「いい匂いがする」と言われた。嫌味のない、さわやかな香水だった。
あるとき、苦手だった先輩が、すれ違った私を振り返って「すごくいい香り」と言った。考えてみると、その香りを苦手と言う人に会ったことがなかった。
私は当時、ダズリンやスナイデルのひざ丈ワンピを着ている大学生の自分と髪の毛を刈り上げのベリーショートにしたい気持ちで毎日揺れていて、端的に言えば万人ウケを捨てきる勇気のない美大女だった。
先輩の言葉は「みんなが好きな香りをつけている自分」という醜い自覚を生み、やがてそれは呪いになった。
私はその香水をつけるたびに「なんて安っぽい香りなんだろう」と思うようになり、やがて二軍落ちしたそれは適当な瓶に詰め替えられ、部屋の消臭剤と化した。
香水をつけたいときは、母親のを借りるようになった。彼女は自分に合う香りをよく知っていて、清涼感があるけれど甘ったるくないゲランのオーデコロンを使っていた。
私はそれを手首に吹きかけるたび、「好きだけど」と思った。好きだけど、悪くないんだけど、そうじゃなくて。
自分だけの香りを見つけたい、と強く思っていた。
「彼女に薔薇を」と隣のお客さんがバーテンに言ったのが去年の夏だった。
私は近所のバーで飲んでいて、カウンターには私とその人のふたりしかいなかった。知らないその客は、ひとりで店に入ってきた私を一瞥するなりそう言ったのだった。
口説くとか格好つけるとかいう感じでもなく、ごく自然に「薔薇を」と言った。
いつもお喋りなマスターは慣れた様子で「はい」と答えるなり、美しいラベルのボトルからとくとくと薔薇色の液体をグラスに注いだ。「リキュール・ローザです」。
なにこれ、とか度数強いの? とか言うのも野暮だと思い、隣の客に礼を言ってグラスに口をつけた。瞬間、薔薇の香りが耳のあたりまでぶわっと広がる。甘くて高貴で、夢みたいな味がした。
15年来の常連だというそのお客さんは、バーで新しい顔を見るたびにそのリキュールをご馳走しているのだと話してくれた(マスターは「『薔薇を』って言いたいだけでしょ」と笑っていた)。
たまらない香りだったと伝えると、「サンタマリアノヴェッラ、フィレンツェにある世界最古の薬局のひとつです。香水が有名だけど、リキュールも一級品なんですよ」とマスターがにこにこ言う。
ショップの名前だけは、雑誌で見たことがあった。けれど、「商品すべてが棚にしまわれていて値札は置いていない」とか「一対一のカウンセリングのような接客」とか書かれていた記憶があって、無理、ハードル高すぎと思っていたのだった。
そして、iPhoneに「サンタマリアノヴェッラ ローザ」というメモだけを入れた状態で半年が経った。
今日、銀座で用事を済ませた帰り、(いつものように)駅までの道が分からなくなってしまった。交差点で立ち止まってグーグルマップを起動させたところで、「そういえば」と思った。
サンタマリアノヴェッラ、と入力すると、自分がいる場所のすぐそばにピンが立った。
細い道を曲がってしばらく歩くと、お世辞にも入りやすいとは言えない重たげな木の扉が見えた。看板の文字を確認して、ドアを引いた。
聞いていたとおりの店だった。値札はなく、商品棚には鍵がかかり、黒い服のスタッフたちがしずかにカウンターで待っていた。けれど、不思議と威圧的には感じなかった。
店員さんは私を見て微笑むと、落ち着いた声でなにをお探しですか、と聞いてくる。ローザ……と言おうとして、咄嗟に、本当にそれでいいのか? と思った。
ひとつしか知らない香りを、人にすすめられていいと感じた香りを、本当に「自分だけの香り」にしていいのか? と。
迷った私が「なにも決まっていないのだけど好きな香水が欲しくて」と支離滅裂なことを言うと、店員の彼女は「40以上のオーデコロンがあるので、まずは人気のものから」といくつかのサンプルをカウンターに並べてくれた。
そのほぼすべてが、とても、いい香りだった。最初に嗅いだものがもうかなり好みだったので、これにしちゃおうかな、と思ったくらいだ。
けれど、ひとつだけあまり得意でない香りがあった。聞くと、「石鹸みたいな爽やかで嫌味のない香りなので、女性の方には人気なのですが」と彼女。きっと私は、その香りに前に使っていた香水を重ねているのだろうと思った。
しばらくあれこれ考えていると、店員さんがじっとこちらを見て言った。「ちょっと、待ってくださいね」。
彼女は後ろの棚からひとつのオーデコロンを出して、「これ、いかがですか」と吹きかけた。
サンプルに鼻を近づけて、もうその時点で笑ってしまった。「好き、もうすごく好きです」。彼女も笑っていた。「そうじゃないかと思ったんです」。
女性らしい、とは言えない香りだった。フレーバーにタバコを使っているという通り、すこしスモーキーで、甘くなくて、「閉じた」香りがした。
でもクセのない香りですね、と私が言うと、彼女は笑って「クセは多少あると思います」と控えめに言った。
試しに他のサンプルを嗅ぎなおしてみると、それは明らかにやや異質だった。けれど、やっぱり好きだ、という思いが強くなった。
聞けなかった値段をそこでようやく聞いてみて、すこしひるんだ。帰りにたまたま思い出して寄った店で出す金額、にはちょっとふさわしくない出費だと思った。
逡巡する私に、店員さんは「もし忘れられなかったらいらしてください、お取り置きもできるので」と微笑んでくれた。
お礼を言って店を出ようとしたところで、ふとカウンターの後ろの棚が目に入った。サンプルの紙しか見ていなかったので、「いまの香水のいれものを見せてもらってもいいですか」と聞くと、彼女は頷いて香水瓶を私の前に置いた。
それは、美しかった。シンプルなかたちでいかにも「薬局」の瓶だけれど、ラベルの装飾や文字、色のどれもが、自分のものにしたくなる美しさをしていた。
彼女はそれを裏返して、「エバ」という香水なんです、「アダムとイヴ」のイヴですとしずかに言った。
結局私はこれを買いにくるんだ。たぶん、明日くる。そう思って、私はそれをくださいと伝えた。
家で、どきどきしながら香水の瓶を開けた。お店の雰囲気にあてられていい香りだと思っただけだったらどうしよう、と考えながら鼻を近づけて、やっぱり笑ってしまった。
それはいい香りだった。自分が選んだ、自分のための、自分がいちばん好きな香りだった。
うれしくなって、お風呂上がりの手首に香水をつけてみた。にやにやしながらお酒をあけようとして、今日はやめとこう、アルコールの匂いは邪魔だと思った。
枕元に香水瓶を置いた。今日はこのまま、眠ろうと思う。
チェロを作った夜のこと
17歳の私は池袋のロフトで買ったペーパークラフトを熱心に組み立てていた。
制服のセーターは脱ぎかけのまま、リビングの床に新聞紙を広げて。その上には50ほどのパーツが古道具屋みたいに所狭しと並んでいた。風呂上がりの父が部屋に入ってくると、ドアが起こした風で小指の先ほどのパーツがフワリと飛んだ。
「気をつけてよ」父を睨む。「なにしてんだ」「見てわかるでしょ」。キッチンから母が顔を覗かせて、「あんた昨日それ夜中までやってたでしょう。箸くらい並べなさい」と語気を荒げる。「いい、食べない」。私が言うと、母はため息をついて夕食の支度に戻った。
顔を上げると真夜中だった。ダイニングテーブルの上にはラップのかかった夕食が置かれていて、私の席の灯りだけがついていた。辺りはとても静かだった。
9分9厘完成したそれを持ち上げてみる。最後のパーツの接着剤が乾くまで時間がかかりそうだったので、夕食の皿を電子レンジにかけた。その橙色の光を見ていたら唐突に悲しくなった。涙がこみあげてきて、自分でもわけがわからないまま、キッチンの床にしゃがんでぽろぽろと泣いた。
出来あがった紙のチェロは、ロフトのショーケースの中で見た見本よりもやや威厳がなかった。あそこに並んでいたのが朝イチの姿だとしたら、私のは仕事帰りの地下鉄の窓にうつった姿くらいにはくたびれていた。それでも、遠目に見れば凝った作品と思えなくもなかった。
ためしに弓と楽器を演奏家のように抱えてみる。柔らかくチェロを構えると、本当に音が出そうで愛着が湧いた。あ、なんでもいいから楽器が弾きたい、と思ったけれど、近所迷惑なので諦めた。
「できた」。そう口に出したとき、もうすべて終わってしまったことがわかった。私はチェロをぐしゃりと握りつぶして、新聞紙に丸めて捨てた。
夜明けまで時間があったので、ベッドにもぐって日記帳を開いた。日記には、明日学校に行きたくないということと、キッチンで急に泣いたことを書いた。
チェロのことは忘れていた。
***
真夜中に急に文章が書きたくなって、高校のときのことを思い出して書きました。たしか今くらいの時期に「ペーパークラフトをつくる。つくらなければ死ぬ」と発作的に思い、ロフトで(バイオリンがよかったのだけど売り切れてたので)チェロのキットを買い、丸3日かけて完成させた夜のことです。
けっこう丁寧に日記をつけてた時期のはずなのに、あのペーパークラフトに関してはいっさいの文章が残っていません。だからできる限りの気持ちを思い出して書こう、と思ったのですが、いざ書き始めたら記憶がにょきにょきと解凍されてきて、そういえば急に台所で泣いたなとかあらゆることを思い出してしまい鳥肌が立ちました。
何度かここでも書いたように私は24にして感性が発達しきっていないのですが、16歳から17歳にかけての情緒不安定ぶりには目を見張るものがありました。記録し忘れたことがあってはもっと大人になってから後悔するような気がしたので、あのときの気持ちをなぞるようなつもりでこれを書き残します。自分でもよくわからないのだけど、これを書いている私はたしかに17歳の私です。
三日月を知らない子ども
仕事帰り、駅までの道を歩く。
職場からほど近いビアガーデンの解体作業が始まっていた。天井やカウンターや大きなビールのモニュメントなど、見慣れた景色がすべてばらばらになってゆくのをしばらく立ち止まって見ていた。そのさまはまるで夏の閉会宣言だった。
サブリミナル効果みたいなものだろうか、電車に乗った途端にお酒が飲みたくなり、乗り換え駅で降りる。適当に歩いているとバーを見つけた。こういうのは勢いが大事なので、迷う前にドアを引いた。
ぼんやりとモヒートを飲んでいると、隣の女性が「話しかけてもいい人ですか」とこちらを覗き込んできた。「あ、いい人です」「いい人ですか。よかった」。
その女性は店の常連らしく、もう20年以上同じ席で飲んでいると言う。「地縛霊みたいなものですよね」とバーテンさんが軽口を叩くと、「いいじゃん、ボトル入れてくれる地縛霊なんて」ところころと笑った。
しばらく話していると、彼女が不意に私をじっと見て、「ねえ、お姉さん、文系でしょう」と聞いてきた。「文系です」「ね。そうでしょう」。
すこし迷うように視線を泳がせたあと、「失礼だけど、三日月って学校で習った?」と続く。ちょっと面食らった私が「たぶん習いました」と答えると、「よかったー」と相好を崩した。
彼女は自分が大学の職員だと明かしたうえで、こんな話をしてくれた。
すこし前に半期の授業を終えた打ち上げがあり、教授や学生とお酒を飲んでいた。すると一人の学生が「自分は義務教育で『月の満ち欠け』を習わなかった」と言い出し、それをきっかけに、月の満ち欠けを習った/習わなかった議論が始まった。
学生たちの話をまとめると、ほとんどの学生が授業は受けていたものの、半数近くは「上弦の月」「下弦の月」の存在は高校で知った、というのだ。
驚いた彼女が調べてみると、学習指導要領で「月の満ち欠けは最低“2つ”の月を教えればいい」とされている時期(つまりゆとりだ)があったらしい。彼女は話をこう結んだ。
「……だとしたら、極端な話“満月”と“新月”だけでもいいんだよ。そんなのありえないと思わない?」
私はまさにゆとり世代ど真ん中なので、覚えていないけれどもしかしたら自分もそうだったかもしれない、と話した。彼女は「べつに円周率がおよそ3でもいいけど、三日月を知らない子どもってねえ」とグラスの氷を見つめる。
「あ、でも、アポロ11号の月面着陸は学校で習ってないです」と私がこぼすと、彼女は「わお」と言った。
帰り道、月が綺麗だった。ニュースで昨日だか一昨日が中秋の名月って言ってたな、と思い出す。そういえば、私は満月がすこし欠けたその月の呼び名を知らなかった。
「大統領の名前なんてさ 覚えてなくてもね いいけれど」。名前の分からない月を見あげて、好きな歌を口ずさみながら秋の夜道を歩いた。風が気持ちよかった。
嫌いと言わせてくれ
武田百合子という随筆家がいる。作家・武田泰淳の妻で、寡作ではあったけれど根強いファンの多い人だ。
私もそのひとりで、彼女のエッセイをたびたび読み返す。たとえば、ロシア滞在記「犬が星見た」の中のこんな一節。
(寺院にあった石像を見て)「簡単なところがキライ。しわしわやひだひだがないからね。もっとくわしくまじめに丁寧にやってもらいたい」
最初に読んだとき、笑った。同行者に「モダン彫刻がわからないんだな」と言われても、彼女はあっけらかんとこう答える。「そうね。モダンでなくても、埴輪やこけしもわからない。どこがいいのかわからない」。
大学のとき、観た舞台の感想を聞いてきた先輩に「よくわかんなかったです」と答えたら、「そういうのよくないよ」と言われたことがある。
彼は「それが本当に誰にもわからないんじゃなくて、自分がまだそれを『わかる』と感じられるくらいに成長してないのかもしれないじゃん。いまは嫌い、ってだけなんだよ」と言った。私はそういうものかあ、と思って「すみません」と答え、それ以来しばらく「嫌い」とか「わからない」とか「つまらない」と言わないようにしていた。
それから学年が変わり、広告系の授業の課題で商品のキャッチコピーを考えることになった。
あれこれ考えて出したコピーを(どんなだったか忘れちゃったけど)、講師は褒めてくれた。その理由が、「キミはべらんめえみたいなのがいいよね。好き嫌いがハッキリしてて気持ちいい」。
たしかに、私が授業で書く作文やコピーや企画はすべてそういった(つまり嫌いなやつはこっち来んなみたいな)ものだったのだ。日常会話では「嫌い」と言わないことを意識していただけに、迂闊だった。そして、「自然に何かを考えて発言しようとすると、私はこうなってしまうのだ」と初めて自覚した。
それからというもの、私は「嫌い」「つまらない」的発言をさほど抑えなくなった。特に親しい人の前では、ちゃんと「おいしくない」「わからない」「馬鹿にされてるような気がする」とか言うようにしている(もちろん、私が嫌いなものを愛している人の前では必要以上の批判はしない。それは最低限のマナーなので)。
「いまは嫌い、ってだけなんだよ」とあのとき先輩は言ったけれど、「いまは嫌い」をきちんと残す以上に大切なことなんてあるのか?って思う。
「いまは好き」ももちろん同じだ。人の好き嫌いなんて気分や環境や経験で簡単に変わる。その一瞬の、たとえば今日の「好き」や「嫌い」をきちんと発して残しておくことが、未来の自分に対する責任のような気がしている。
私とスポーツ
神宮球場で野球のナイターを見てきた。予報だと夜は雨がぱらつくとのことだったのだけど、快晴(私は柄でもなく晴れ女なのだ)。
ヤクルトに点が入ると客席じゅうにカラフルな傘が広がる。その様がなかなかに美しかった。球場は終始むせそうに暑くて、バックネット裏真正面から見おろすグラウンドはどこかゲームの野球盤みたいに見えた。試合の途中で花火もあがった。応援していた横浜はボロ負けしたけれど、いい夜だった。
帰りの電車で友人に感想をLINEしたら、「ねえ、最近どうしたの?」と訊かれた。苦笑したけれど、私も照れからか「気が狂った」と返してしまう。自分がスポーツ観戦するようになるなんて、自分がいちばん思わなかった。
小さいころからスポーツが嫌いだった。「嫌い」という感情に1から100のツマミがあるとしたら、120くらいのボリュームで嫌いだった。
なぜか? それはすごくシンプルで、スポーツができなかったからだ。
学生時代に体操部だったという母はスポーツ万能で、50を超えたいまでも余裕で3重跳びができるような人間だ。彼女は娘も当然その血を引いていると思ったのだろうが、7歳でスイミングスクールに通わされた私は、平泳ぎひとつを習得するのに驚くほど時間がかかるような子どもだった。
同じスクールにいた同級生のSちゃんはセンスがよくて、見る見るうちに上達していった。私がばしゃばしゃと水を掻いていると、隣のレーンでバタフライをしているSちゃんがスイーッと泳いでいった。
私は元来そういうとき、悔しい!もっと練習してやる!と思うタイプではなく、もう嫌だ死のうと思う側の人間だ。泳ぎは依然として上達せず、卑屈になり、毎日のように「水泳をやめたい」と母に話した。母は鬼なので、静かに「続けなさい馬鹿」と言うだけだった。レッスンが終わって、自販機で買ったアイスを食べているときだけが心の休まる時間だった。
水泳ができなくても、他のスポーツならできると思った。小4のときに初めてのクラブ活動でサッカー部を選んだのは、仲のよかった友達が所属していたのもあるけれど、「球技ならできるかも」と考えたからだ。
でも、球技はもっとできなかった。書いていて悲しくなってきてしまったので詳述はしないけど、6年生の先輩が「しほちゃん! ボールを怖がらないで!」と試合中ずっと叫んでいて、とにかく怖かった。私が1年間のクラブ活動で決めた唯一のゴールはオウンゴールだった。
そんな風にして、幼少期に「スポーツがすごく苦手なんだ」と強く思い込んだ私は、自己暗示のようにあらゆるスポーツがすさまじく苦手になっていった。逆上がりはできない。大縄には入れない。ドッジボールではボールを避けられず怪我をする……。
体育の時間がくるとお腹が痛くなった。仲のいい友達も、体育の授業中は私とペアを組むことを露骨に嫌がった。
でも、中学高校と進学してゆくうちに、私はひとつのライフハックを覚えた。そう、「見学」だ。
高校では見学者はレポートを書くことが義務付けられていて、それはド文系の私にとってはむしろご褒美だった。かなり頻繁に見学しても、レポートを裏面までぎっしり書く生徒に体育教師はさして苦言を呈さなかった。
そのようにして、私は順調に運動というものを忘れていった。たまに体育に参加しても、一度として「本気で」体を動かしはしなかった。本気で走ったら、本気でボールを投げたら、自分の体がどのように作用するのか、しだいに分からなくなっていった。水泳の授業はけっきょく中高すべて見学を貫き通したので、泳ぐというのがどんな動作だったか、プールの水の冷たさ、あの匂い、それらすべてさえも、私は本当に忘れてしまった。
私がスポーツにふたたび向き合おうとし始めたのは、たぶん、手術したことと関係があるのだと思う。
いまは元気だけれど、人生で初めてつよく健康を損なうという経験をして、人は簡単に死ぬんだ、と思った。そうしたら、痩せようと思った中学のときにも、ダンスが流行った高校のときにも一度として考えなかった「運動をする」という選択肢がふっと浮かんだ。
すこし前、恐るおそる、彼氏に「運動がしたい」と言った。去年いちど好奇心でバッティングセンターについて行って大泣きした私を知っている彼は「なんで?大丈夫なの?本当に?」と聞いてきた。私はいくら劣等感が刺激されてももう泣かないことを約束し、最初はハードすぎない運動をということで、トランポリンができる施設にいっしょに行った。
トランポリンは、やっぱり全然できなかった。まっすぐに跳ぶだけでも難しくて、それでも、跳ぶことは思っていたよりも怖くない、と思った。
夏のはじめ、地元にヨガの教室を見つけて、体験レッスンに行くことを決めた。申し込みメールを打ちながら、何度もやめようと思った。スイミングスクールや体育の授業は、教師の前で体を動かすことが強いトラウマになるには十分すぎる記憶だった。
それでもなんとかメールを送信したら、すぐに返信がきた。「初めての方が来てくださるのは本当に嬉しいです!」という言葉が添えてあった。私は嬉しくなって、その先生のフェイスブックやらブログの過去の記事やらをすべて読んで、怖くなさそうな人であることを確認したうえでレッスンに向かった。
道に迷ったと連絡を入れた私がスタジオのそばをうろうろしているのを見つけると、先生は大きく手を振ってくれた。彼女は炎天下、建物の外で私を探してくれていたのだった。
ヨガが始まると、スタジオがすこし暗くなった。「目を瞑ってください」と言われてホッとする。体を動かしている姿を終始人に見られるのは怖かったし、前方が鏡なので、ついていけない自分の姿がずっと見えていると泣くような気がした。先生はやわらかなトーンでポーズを指示してゆく。まったくついていけない。オロオロし始めた私に、「慌てなくていいですよ。できないポーズはお休みしていても大丈夫です」と彼女は言ってくれた。
ヒジとヒザを間違えてちぐはぐなポーズをとったりしながらも、私はなんとか1時間のレッスンを終えた。体にうっすらと汗をかいていて、喉が渇いていた。そんな生理反応さえも数年ぶりだったので妙に感動してしまって、ヨガマットに横になりながら、ずいぶん長いあいだ天井を眺めていた。それからアンケートの「入会」にマルをつけて、ヨガ教室をあとにした。
私はそのようにして「運動」を取り戻した。こんな言い方大げさで笑ってしまうけれど、ひとつの時代が終わり、新たな名前のついた時代が始まるような出来事だった。
ヨガはちゃんと続くのか? まだ自分でも分からない。けれど少なくとも、体を動かすことが「楽しい」と思えるまでは続けようと思う。
まだ人生でいちどもスポーツを楽しいと感じたことがないから、その感覚を味わってみたい。公園で足元に転がってきたボールを投げ返してみたい。ボウリングに行ってみたい。プロのスポーツの試合を見て劣等感に苛まれるのではなく、大きな声をあげて応援してみたい。失ってしまった時間を、私はこれから取り戻しにゆく。
私が亀について語るときに語ること
このところ人にあまり会いたくなくて、飼っている亀とばかり話していた。
それは手術したことなどとはさして関係なく(症状や検診についてまた詳しく書くと言ったけれど、あした術後の検査を受けたら今回の件が一段落するのでそのあとにしますね)、単に仕事で四苦八苦していたからだ。
転職したばかりで、右も左も分からず毎日焦っている。休みの日に寝ていても仕事の夢ばかり見る。
会社を辞めることについての文章を書いてからしばらく経ったけれど、結論から言うと私はいま、あのとき望んでいたとおりの仕事をできている。
悩むことや苛立つことは決して少なくはないが、ものを書いているその瞬間は基本的にとても楽しいので、どうにかやれている。幸いこういう場もあるし(あのときたくさんの方が応援すると言ってくださって力が出た。本当に、心の底からお礼を言います)。
自己肯定感というものがまるでない自分が「私これでいいんじゃん」と思える瞬間がまれにあって、それはほぼ100パーセント書くという行為によってしかもたらされない。……ので、やはり私には書き続けることが必要なのだ。そう思っている。
話を戻す。最近はもっぱら亀と話していた。
基本的に亀側は喋れないのでこちらが一方的にべらべらと語りかけているだけなのだけど、私が小学生の頃から飼っているのでもうわりとお互い気心は知れている。
亀は、小2のときの夏休みの課題で「動物を飼って観察日記をつけてみましょう」というのがあって、そのときに近所のイオンで500円で買ってきたやつだ。
虫かごくらいのサイズの水槽に入れられて、たしか20匹くらいまとめて商品棚に並んでいた。
いっしょに行った母が「ねえなんかこれだけ馬鹿みたいに元気じゃない」と指をさしてゲラゲラ笑った亀が本当に馬鹿みたいに元気に泳いでいたので、迷わずにそれにした。顔に黄色い縞模様が入っていて、いかにも爬虫類という顔をした亀だった。
あまりによく動くので、水槽の蓋の空気穴から水がばしゃばしゃ飛んで帰りの車のシートが水浸しになり、母が運転しながらそんな亀捨てなさいと激怒していたのを覚えている。
いくら元気と言えど、ワンコインで買った生き物なんて大概は季節を越す前に死んでしまう。
……という大方の予想は外れて、亀は生きた。幼かった私が手荒な真似をずいぶんしても(一時期シルバニアファミリーのレストランに住まわせてたことがある)、それはもう馬鹿みたいにぐんぐんと育った。
クサガメという種類で、だいたい神社の池とかにいるやつがそうなのだけど、基本的には温厚な亀だ。うちのはちょっと血の気が多いので他のちいさな亀を踏んづけて殺したりしたこともあるが、いまはもう大きい水槽の中で1匹で飼っているので、そういうこともなくなった。
亀に対して、本当に申し訳ないと思っていることがひとつある。それは、亀を飼い始めてから何年ものあいだ、私が亀の性別を間違えていたことだ。
10年ほどまえ、家に遊びに来た友人が「元気な亀だね!うちも飼ってるんだよ」と言うので、亀を水槽から出そうと持ち上げた。すると亀の裏側を見たその子が、「メスなんだね」と笑う。「いやオスだよ」。そう言うと、「えっ?尻尾の位置的にメスだよ」。
その子が帰ったあと、ネットで血眼になって亀の性別について調べた。そうしたら、やっぱりおそらく(ほぼ間違いなく)うちの亀はメスだった。
その夜、どうしたらいいのか分からなくてわんわん泣いた。
自分にとって大切な時期を、いわば思春期のピークを「異性」として過ごしてしまった相手がとつぜん同性になるというのは、まだ内面の発達しきっていない私にはなかなかに受け入れ難いものだった。冗談みたいに聞こえるかもしれないけれど、本当に。
そののち、大学に入り、10代を過ぎ、多種多様なジェンダーアイデンティティを持つ友人ができて、私はようやく「別にメスでもオスでもどっちでもいいや」とシンプルに考えることができるようになった。
なぜかと言えば、私は亀が好きだから。ごく控えめに言って溺愛しているからだ。天気のいい日には自転車の前かごに入れて公園まで連れて行くし、夏にはベランダにビニールプールを出して泳がせる。地震がきたら亀を持って逃げると決めている。
だから亀がオスだとかメスだとかは、いまはもう本当にどうでもよくなってしまった。亀は亀でしかない。
信頼している友人の言葉に「性別は神様みたいなもの」というのがある。その友人曰く、「ふだんは神様なんて信じていない人も、何かに縋りたいときには神様!って思うでしょう?そういう拠りどころみたいなものが性別なのだと思うよ」。
たしかに男/女の二元論で物事を語ることはとても簡単で、私もつい「男なんて」とか「女子校だからそういうの無理」とか言ってしまう。いわば、性別という根拠(らしきもの)に縋っている。
その友人はパンセクシャルで、その子が性別に関係なく人を好きになるように、そして私がその友人の性別を特に意識していないように、本当は別にそんな拠りどころはなくてもいいんだろうな、と思う。あったらあったで便利だけど、まあどっちでも、という感じ。
「好き」という気持ちの力は強くて、それはすべてを受け入れてしまうものだと私は信じている。
それが恋愛であれ友情であれ亀に対する愛情であれ、「愛でなくても恋でなくても君を離しはしない」じゃないけど、あなたがあなたでさえあればなんでも、って思う力がたぶん、私たちにはある。
……みたいなことを、最近はずっと亀にぶつぶつと語りかけていた。たまには人にも聞いてもらいたいと思ってここに書いた。
亀は、今年で17歳になる(私が年齢も間違えていなければの話だけれど)。
【手術レポ】今日、胸の腫瘍をとった。
前回の文章でも触れたとおり、胸に腫瘍が見つかりまして、外科手術を受けることになりました。
……で、さっき手術してきました。
以下、手術レポです。
5月13日、午後2時30分。
指定された時間に病院のケアルームに入ると、「お待ちしてました」と看護師さん数名が並んで迎えてくれる。
腰を下ろすやいなや、中でも特にベテランっぽい看護師さんが体温、血圧、酸素濃度を手際よく測ってゆく。
私はなぜかやや熱があったのだけれど、
看護師「平熱高いです?」
私「えっ…わりと…緊張すると熱出すタイプかもしれま」
看護師「(遮って)大丈夫ですね!」
ということで、予定どおりやることに。
血圧を測っているとき、ちょうど担当の手術医の先生がうしろを通られた。
看護師「あっ、今日手術されるのO先生なんですか?」
私「そうです」
看護師「……(小声で)当たりですよ」
心から安堵した。人生で引いた当たりのなかでダントツで嬉しい。
午後3時。看護師さんに連れられて、手術室まで歩いてゆく。
大学病院なのでとても広い。「ちょっと上ったり下りたり渡り廊下を渡ったりするので、迷わないようについてきてくださいね」と彼女。
人でごった返していた受付階からエレベーターに乗る。
十何階かでドアが開くと、驚くほどしんとした空間。真っ白い部屋がいくつも並んでいるのが見えた。点滴をつないだ車椅子のおじいさんとすれ違って、急に心臓がどきどきする。
私がびびっているのを察してか、
看護師「怖いですか?」
私「……怖いかも」
看護師「怖いよね。私も胸切るってなったら怖いです」
そう言ってくれて、すこし安心する。
そもそも私がなんの手術を受けるのか、という話をすこしだけ。簡単に言うと「胸を切って、腫瘍を取り除いて、縫って閉じる」手術。
3ヶ月ほど前に見つけた左胸のしこりが検査の結果、葉状腫瘍(ようじょうしゅよう)という厄介な腫瘍だった。ので、とることになった。
良性で、いわゆる乳がんなどではないのだけれど、放っておくととつぜん巨大化して、胸の形が変形したりしてしまう恐れがある腫瘍ということだった。実際に病院で見せてもらった症例写真は、なかなかちょっと目を覆いたくなるようなものだった。
つまり「とらないで経過を見る」みたいな選択肢はハナから無く、「せっかく小さいうちに見つけたのだから、できるだけ早くとりましょう。今から最短だとこの日です」みたいなことになった。
いくつかの検査を経て、あれよあれよと言う間に手術がセッティングされ、今日に至る。
……検診って本当に大切です。この辺の話はまた次に詳しく書く。
手術室の前につく。
受付で自分の名前を言うと、「お入りください」と扉が開いた。
まず、カーテンで仕切られた小さい部屋に入る。指示されたとおり上だけ服を脱いでいると、ぞろぞろと手術着を着た3名の方が入ってきた。
看護師さんが「紹介しますね」と3名を指すと、それぞれ担当を言って頭を下げてくれた。
「医師です」「助手です」「看護師です!」…ちょっとライブみたいで笑う。
3名を見比べながら「なんか手術感湧いてきちゃいました」と言ったら、「こんな仰々しい格好してたらそうですよね。怖くないですからね」と助手の方が頭を下げてくれた。いい人ばっかりだ。
服を脱いで、緑の手術着に袖を通して、髪にシャワーキャップみたいなやつを被る。カーテンの部屋を出て、手術スペースに向かった。
自動ドアが開いて、思わず「うわあ」と言ってしまった。
手術台に、上から照らすライトみたいなやつに、レントゲン写真が貼られたボード。できるだけ見ないようにしたのだけど、メスのセットみたいなやつも思いきり目に入った。何もかもドラマのセットみたいだった。
若い医師の方に「こんなにドラマのまんまなんですね」と言うと、「思った以上ですよね」と返される。
執刀担当のO先生はもう部屋のなかにいて、ニコッと笑って迎えてくれた。
O先生「……あ、音楽なに聞きますか?有線流せるんですけど」
私「えっ有線!?」
ということで、j-popが流れ始めた。手術台の上に仰向けになるやいなや、GLAYが流れる。すごい変な感じ。
ダメもとで「iPod繋いだりできませんよね?」と聞いたら、「あーそれはできないんですよ。ただ、前にラジカセ持ち込んで自分の歌聞いてた演歌歌手の方はいたな。みんな笑いこらえてたなあ」とのこと。
手術台の周りを、先生を入れた4名が囲む。右手を固定され、「覆っていきますね」とひと言声をかけられると、ブルーシートみたいな布で体の上ががさごそし始める。このあたりで視界もシートで遮られ、私からは天井の一部しか見えなくなる。
びびりすぎて「とつぜん切ったりしないですよね?」と聞くと「そしたらびっくりします?」と聞き返された(O先生はわりとこういう冗談を言うタイプの人だったのでちょっと困った)。
シートやらテープやらで体が完全に固定されたころ、「よし!」とO先生。「では手術入っていきます、まず消毒からですね」。
左胸が冷たくなった。アルコールが染みる。「細い針で麻酔打ちます、痛いですよー」。怖くて「うわあ」と右を向いた。細い針が肌に触れた。たしかに痛い。「もう一回痛いですよー。」必死に有線に耳を澄ます。SMAP。中居くんパートだった。
目を瞑っていたら、だんだん痛くなくなってきた。「おかわりください」とO先生。おかわりって言うんだ、と思う間もなく、もう1本刺された。けど、痛くない。「痛くないです」と言ったら「よかったー。効いてますね」とO先生が笑う。
メス、と聞こえたような気がしたけれど、別の言い方だったかもしれない。
胸に硬いものが触れた次の瞬間、ジーーッとにぶい音がして、続いて焦げ臭くなった。
「……何か切ってます?」と聞いたのだけれど、さすがにみんな集中していて答えてくれなかった。
時どき、胸が引っ張られる感覚がする。
看護師さんが頭の後ろから、「どう?」と小さい声で聞いてきた。「なんか、思ったより感覚ありますね」と言うと、「キョクマ(局所麻酔)って、触られてるのとかは結構分かるんですよ。鋭い痛みがなかったらヨッシャ、って思っててください」とO先生。
鋭い痛みはなかったので、ヨッシャ、と思うことにした。
ジーーッ、という音と自分の脈の音、そして有線だけがしばらく手術室に響いた。
怖かった。体が震えてしまいそうだったので、「喋っててもいいですか?」と聞いた。O先生が「いいですよー」と言う。
「これ、切られてるときって、なに考えてればいいんですか?」…そう聞くと、「楽しいこと考えましょう」と看護師さん。「手術終わったら今日はもうなに食べてもいいので、晩ごはんのこととかどうですか」とO先生。しばらく私がラーメンの話などをしていると、ジーーッ、の合間にO先生がにこにこ相槌を打ってくれた。プロってすごい。
15分くらいそれが続いただろうか。ジーーッの音にも慣れて(B♭だった)、なんなら少し寝そうなくらいリラックスしていると、今までと違う、引っ張られるような感触があった。
「あ、なんかいま」と口に出しかけて、やめた。たぶんいま腫瘍とってるんだろうな、と思った。今回の手術のなかでいちばん重要なシーンだ。黙って有線に耳を傾けていた。
時どきO先生が、助手さんたちに「そこ止めて。ありがと。うん、今度こっち向き」などと声をかけた。
そうすると胸がそれまでと違った方向から固定され、すこしの重みがかかり、全員が10秒くらいのあいだ黙る。
私は緊張していた。脈の音がすごく速くなっているのが聞こえる。助手さんが布のようなもので時どきサッと胸の下を押さえた。ああ止血されてる、と思う。怖い。
どうしよう怖い。右手をぎゅっと強く握ったところで、O先生が「うん!」と言った。「腫瘍とれましたからね。あと縫うだけですから」。
縫うだけ。そう聞いて、初めて泣きそうになった。やっと終わる。
……のだけど、異変を感じた。
胸に、チクッ、という感触があるのだ。えっ?と思った。
「先生、なんかいま、刺しました?」そう恐る恐る聞くと、「あ、感覚ありますか?」とO先生。「最初の方の麻酔、そろそろ切れてくるかもしれないですね」。目を瞑る。やっぱりチクッ、がくる。なんなら糸で引っ張られているのもはっきりわかる。「いま縫ってギュッ、ってしましたよね」。「しました」。パチン、という音がする。あっいま糸切った、と思う。
「すこしチクチクするくらいなら大丈夫です、あんまり痛かったら麻酔足すので言ってくださいね。あと2針くらいだから我慢できたら我慢しちゃいましょう」。
そう言われて頭の中で咄嗟に、麻酔の痛みと縫う痛みを天秤にかけた。
……麻酔の方が痛かった、ような気がする。大丈夫です、と答えて、痛みに耐える。
高校の国語便覧に載っていた泉鏡花の「外科室」を思い出す。あの人たちなんか麻酔なしで手術したんだぞ、となぜか自分と「夫人」を比べて元気を出そうとする。
感覚があるので、最後のひと針はもう完全にそうだとわかっていた。
大きめのパチン、が聞こえ、胸から金属が離れると、O先生が「ふう」と言った。ああ終わった、と思った。「お疲れさまでした。終わりましたからね」。そう声をかけられて、体じゅうから力が抜けた。
私も思わず「ふう」と言った。ありがとうございました、という声は上ずっていた。無事に終わった。そう思ったら嬉しくてたまらなかった。にやにやしながら「はあー」などと言って天井を見つめた。
看護師さんが1枚1枚、体からシートを剥がしてくれた。最後の1枚をとると、「えっすっごい汗かいてたんですね大丈夫ですか」と驚いた声を上げられた。
たしかに、サウナのあとみたいに私は汗だくだった。本当に怖かったんだなあ、とそのとき初めて自覚した。
ゆっくり起き上がると、みんなもうホッとした顔をしていた。それを見ていたらなんだか私もにこにこしてしまった。
O先生が手袋を外しながら、「あっ、腫瘍、見ます!?」と言った。「えっ、見ます見ます!」。妙にハイテンションで答えると、先生が手のひらくらいの高さの瓶を渡してくれた。
中には、丸いころんとした腫瘍が2つに割れて入っていた。勝手に赤いイメージがあったのだけど、肌色をしたそれは思ったよりもずっとグロテスクでなく、むしろ綺麗だった。
念のため、それがまた検査にかけられることになっている。O先生も瓶をじっと見ていた。「いいやつですよこれは」。先生がそう言うので、私もそれを信じることにした。
カーテンの部屋に戻ると、看護師さんが笑顔で迎えてくれた。看護師さんに腫瘍の瓶を持ってもらって写メを撮った(記念だ)。そして、先生たちにお礼を言って手術室をあとにした。
……というわけで、私は元気です。
日帰り手術だったのでもう家にいて、普段どおりの生活をしています。縫い傷はまだ痛むので、寝るのはちょっとだけ怖いけど。
とにかく忘れないうちに手術のことを書きたかったので(なんでだろう?)、こんな形でレポを書きました。検診や症状についてはまた次に書きますね。
とにかく、無事ですという報告に代えて。