湯葉日記

日記です

いつか忘れてしまっても

熱を出すたびに思い出すことがある。

それは1997年の夏の日で、私は幼稚園の先生の膝に頭を乗せて寝ている。カトリックの幼稚園だったから先生たちの半分くらいはシスターで、ひめゆり組のR先生もそうだった。

教室の窓からは園庭で走り回る子どもたちが見えた。ひどく暑い日で、私は高熱を出して、引き伸ばされた紙みたいにぐったりとしていた。R先生が私の顔を覗き込もうと背を屈めると、ベールの落とす影で暑さは少しだけましになった。

 

「しほちゃん、しほちゃん」。私の髪を撫でながら、R先生は泣いていた。 真夏の外遊びで発熱して教室に担ぎ込まれた5歳の私は内心、また熱か、と思っていた。私は体調を崩すことに慣れている可愛げのない子どもで、一方のR先生は気が弱く、心清らかで、新任だった。

慌てきった様子のR先生は、母親が私を迎えに来るまでの間、朦朧としている私に語りかけ続けた。「いい子のあなたがいなくなったら、先生はとっても悲しいのよ。お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。

 

帰り道、母親が運転する車の中で、私はくすぐったい気持ちだった。R先生の話をすると、母親は「そりゃ自分の幼稚園で園児に死なれたら嫌でしょう」と笑った。「あんたね、そんな熱じゃ死なないわよ」。

月に1度は高熱を出す5歳児を毎回律儀に心配するほど、親というのは暇ではない。母親は私に冷えピタを貼ってベッドに下ろすと仕事に戻っていった。

 

それからというもの、熱を出して家にひとりでいると(多くの場合は心配した父が早めに帰ってきたけれど)、私はR先生の言葉を反芻するようになった。 「あなたがいなくなったら、お母さんもお友達も、神様もみんな悲しいのよ」。 小学校に上がっても、10代を迎えても、その言葉は耳から離れなかった。

 

大人になった私に、ひょんなきっかけで手紙をくれた人がいた。 私はその人のことを尊敬していて、いつまでも仲良しでいたいと思っていたし、そのつもりだった。 手紙の中にはこんなフレーズがあった。 「この手紙を読んであなたはいまうれしい気持ちになってくれていると思うのだけど、その気持ちがずっと続きますように。いつか消えてしまっても、それが栄養となって、あなたの新しい一歩をつくる支えとなっていきますように」。

初めて読んだとき、まるでいつか私がその人のことを忘れてしまうみたいだ、なんでこんな寂しいことを書くのだろう、と思った。そんなはずはないのに。

時間が経ち、さまざまなことが重なった結果、その人とはあまり会えなくなってしまった。 手紙を開いたときの嬉しかった気持ちを、私はいつまで覚えていられるだろうと時どき考える。たぶん忘れないはずだ、けれど、絶対という自信はない。 ただ、「いつか消えてしま」うことまで許容してくれたその手紙のことは、死ぬまで忘れないと確信している。

 

きょう、気に入ったブログがあるから読んで欲しいと友人に言われて、この文章を読んだ。

ここに、事故に遭って病院にかつぎこまれながらも奥さんに「大好き」と言う人が出てくる。万一のことを意識して、なんて理由ではなく、それは奥さんのためであり、自分自身の治癒のためでもあるのだ。

「大好きな人に大好きと言われると、身体の苦痛は減る」のだという。だから彼は、熱を出すたびに、身体に不調をきたすたびに、大好きな人に「大好き」と伝え、同じように返事をもらう。

このブログを教えてくれた友人は、少し前に身近な人を亡くしている。いままでありがとう、と亡くなる直前に本人に伝えたのはきっと無駄ではなかった、と友人は言った。 そして私は友人と、これまで自分が伝えてきた言葉や人にかけられてきた言葉は、きっと何らかの(具体的な効用として)役に立っている、という話をした。このブログの言葉を借りるなら、“解熱剤”みたいに。

 

言葉は呪いだ。私はR先生の言葉を忘れないように、13歳のときに同級生に言われた悪口も、飲み屋で隣り合わせた人から言われた下品な言葉も、ずっと忘れないだろう。 たとえ気持ちは思い出せなくなっても、言葉は私に残るだろう。刺繍みたいに縫いとめられて、常に自分の目につくところにあるだろう。私はそれを含めて自分と呼ぶし、他人はそれを見て私だと思う。

だから私は、できるだけ、自分の好きな言葉をいちばん上に縫いとめて、いちばんよく見えるところに置くのだ。私のために。私と関わる人のために。いつか忘れてしまうその日のために。

自分の香りを見つけた話

ハタチのころ、よくつけていた香水があった。
高校を卒業するときにデパートのカウンターで(背伸びをして)買ったそれはフリージアとスズランの香りで、ひと吹きして出かけると、会った友達みんなに「いい匂いがする」と言われた。嫌味のない、さわやかな香水だった。

あるとき、苦手だった先輩が、すれ違った私を振り返って「すごくいい香り」と言った。考えてみると、その香りを苦手と言う人に会ったことがなかった。

私は当時、ダズリンやスナイデルのひざ丈ワンピを着ている大学生の自分と髪の毛を刈り上げのベリーショートにしたい気持ちで毎日揺れていて、端的に言えば万人ウケを捨てきる勇気のない美大女だった。

先輩の言葉は「みんなが好きな香りをつけている自分」という醜い自覚を生み、やがてそれは呪いになった。
私はその香水をつけるたびに「なんて安っぽい香りなんだろう」と思うようになり、やがて二軍落ちしたそれは適当な瓶に詰め替えられ、部屋の消臭剤と化した。

香水をつけたいときは、母親のを借りるようになった。彼女は自分に合う香りをよく知っていて、清涼感があるけれど甘ったるくないゲランのオーデコロンを使っていた。
私はそれを手首に吹きかけるたび、「好きだけど」と思った。好きだけど、悪くないんだけど、そうじゃなくて。
自分だけの香りを見つけたい、と強く思っていた。

 

 

「彼女に薔薇を」と隣のお客さんがバーテンに言ったのが去年の夏だった。
私は近所のバーで飲んでいて、カウンターには私とその人のふたりしかいなかった。知らないその客は、ひとりで店に入ってきた私を一瞥するなりそう言ったのだった。
口説くとか格好つけるとかいう感じでもなく、ごく自然に「薔薇を」と言った。

いつもお喋りなマスターは慣れた様子で「はい」と答えるなり、美しいラベルのボトルからとくとくと薔薇色の液体をグラスに注いだ。「リキュール・ローザです」。

なにこれ、とか度数強いの? とか言うのも野暮だと思い、隣の客に礼を言ってグラスに口をつけた。瞬間、薔薇の香りが耳のあたりまでぶわっと広がる。甘くて高貴で、夢みたいな味がした。
15年来の常連だというそのお客さんは、バーで新しい顔を見るたびにそのリキュールをご馳走しているのだと話してくれた(マスターは「『薔薇を』って言いたいだけでしょ」と笑っていた)。

 

たまらない香りだったと伝えると、「サンタマリアノヴェッラ、フィレンツェにある世界最古の薬局のひとつです。香水が有名だけど、リキュールも一級品なんですよ」とマスターがにこにこ言う。
ショップの名前だけは、雑誌で見たことがあった。けれど、「商品すべてが棚にしまわれていて値札は置いていない」とか「一対一のカウンセリングのような接客」とか書かれていた記憶があって、無理、ハードル高すぎと思っていたのだった。
そして、iPhoneに「サンタマリアノヴェッラ ローザ」というメモだけを入れた状態で半年が経った。

 

 

今日、銀座で用事を済ませた帰り、(いつものように)駅までの道が分からなくなってしまった。交差点で立ち止まってグーグルマップを起動させたところで、「そういえば」と思った。
サンタマリアノヴェッラ、と入力すると、自分がいる場所のすぐそばにピンが立った。

細い道を曲がってしばらく歩くと、お世辞にも入りやすいとは言えない重たげな木の扉が見えた。看板の文字を確認して、ドアを引いた。

聞いていたとおりの店だった。値札はなく、商品棚には鍵がかかり、黒い服のスタッフたちがしずかにカウンターで待っていた。けれど、不思議と威圧的には感じなかった。
店員さんは私を見て微笑むと、落ち着いた声でなにをお探しですか、と聞いてくる。ローザ……と言おうとして、咄嗟に、本当にそれでいいのか? と思った。
ひとつしか知らない香りを、人にすすめられていいと感じた香りを、本当に「自分だけの香り」にしていいのか? と。

迷った私が「なにも決まっていないのだけど好きな香水が欲しくて」と支離滅裂なことを言うと、店員の彼女は「40以上のオーデコロンがあるので、まずは人気のものから」といくつかのサンプルをカウンターに並べてくれた。

そのほぼすべてが、とても、いい香りだった。最初に嗅いだものがもうかなり好みだったので、これにしちゃおうかな、と思ったくらいだ。
けれど、ひとつだけあまり得意でない香りがあった。聞くと、「石鹸みたいな爽やかで嫌味のない香りなので、女性の方には人気なのですが」と彼女。きっと私は、その香りに前に使っていた香水を重ねているのだろうと思った。

しばらくあれこれ考えていると、店員さんがじっとこちらを見て言った。「ちょっと、待ってくださいね」。
彼女は後ろの棚からひとつのオーデコロンを出して、「これ、いかがですか」と吹きかけた。
サンプルに鼻を近づけて、もうその時点で笑ってしまった。「好き、もうすごく好きです」。彼女も笑っていた。「そうじゃないかと思ったんです」。

女性らしい、とは言えない香りだった。フレーバーにタバコを使っているという通り、すこしスモーキーで、甘くなくて、「閉じた」香りがした。
でもクセのない香りですね、と私が言うと、彼女は笑って「クセは多少あると思います」と控えめに言った。
試しに他のサンプルを嗅ぎなおしてみると、それは明らかにやや異質だった。けれど、やっぱり好きだ、という思いが強くなった。

聞けなかった値段をそこでようやく聞いてみて、すこしひるんだ。帰りにたまたま思い出して寄った店で出す金額、にはちょっとふさわしくない出費だと思った。
逡巡する私に、店員さんは「もし忘れられなかったらいらしてください、お取り置きもできるので」と微笑んでくれた。


お礼を言って店を出ようとしたところで、ふとカウンターの後ろの棚が目に入った。サンプルの紙しか見ていなかったので、「いまの香水のいれものを見せてもらってもいいですか」と聞くと、彼女は頷いて香水瓶を私の前に置いた。

それは、美しかった。シンプルなかたちでいかにも「薬局」の瓶だけれど、ラベルの装飾や文字、色のどれもが、自分のものにしたくなる美しさをしていた。
彼女はそれを裏返して、「エバ」という香水なんです、「アダムとイヴ」のイヴですとしずかに言った。
結局私はこれを買いにくるんだ。たぶん、明日くる。そう思って、私はそれをくださいと伝えた。

 


家で、どきどきしながら香水の瓶を開けた。お店の雰囲気にあてられていい香りだと思っただけだったらどうしよう、と考えながら鼻を近づけて、やっぱり笑ってしまった。
それはいい香りだった。自分が選んだ、自分のための、自分がいちばん好きな香りだった。

うれしくなって、お風呂上がりの手首に香水をつけてみた。にやにやしながらお酒をあけようとして、今日はやめとこう、アルコールの匂いは邪魔だと思った。
枕元に香水瓶を置いた。今日はこのまま、眠ろうと思う。

チェロを作った夜のこと

17歳の私は池袋のロフトで買ったペーパークラフトを熱心に組み立てていた。
制服のセーターは脱ぎかけのまま、リビングの床に新聞紙を広げて。その上には50ほどのパーツが古道具屋みたいに所狭しと並んでいた。風呂上がりの父が部屋に入ってくると、ドアが起こした風で小指の先ほどのパーツがフワリと飛んだ。

「気をつけてよ」父を睨む。「なにしてんだ」「見てわかるでしょ」。キッチンから母が顔を覗かせて、「あんた昨日それ夜中までやってたでしょう。箸くらい並べなさい」と語気を荒げる。「いい、食べない」。私が言うと、母はため息をついて夕食の支度に戻った。

 


顔を上げると真夜中だった。ダイニングテーブルの上にはラップのかかった夕食が置かれていて、私の席の灯りだけがついていた。辺りはとても静かだった。

9分9厘完成したそれを持ち上げてみる。最後のパーツの接着剤が乾くまで時間がかかりそうだったので、夕食の皿を電子レンジにかけた。その橙色の光を見ていたら唐突に悲しくなった。涙がこみあげてきて、自分でもわけがわからないまま、キッチンの床にしゃがんでぽろぽろと泣いた。

出来あがった紙のチェロは、ロフトのショーケースの中で見た見本よりもやや威厳がなかった。あそこに並んでいたのが朝イチの姿だとしたら、私のは仕事帰りの地下鉄の窓にうつった姿くらいにはくたびれていた。それでも、遠目に見れば凝った作品と思えなくもなかった。
ためしに弓と楽器を演奏家のように抱えてみる。柔らかくチェロを構えると、本当に音が出そうで愛着が湧いた。あ、なんでもいいから楽器が弾きたい、と思ったけれど、近所迷惑なので諦めた。

 


「できた」。そう口に出したとき、もうすべて終わってしまったことがわかった。私はチェロをぐしゃりと握りつぶして、新聞紙に丸めて捨てた。

夜明けまで時間があったので、ベッドにもぐって日記帳を開いた。日記には、明日学校に行きたくないということと、キッチンで急に泣いたことを書いた。
チェロのことは忘れていた。

 

***

 

真夜中に急に文章が書きたくなって、高校のときのことを思い出して書きました。たしか今くらいの時期に「ペーパークラフトをつくる。つくらなければ死ぬ」と発作的に思い、ロフトで(バイオリンがよかったのだけど売り切れてたので)チェロのキットを買い、丸3日かけて完成させた夜のことです。

けっこう丁寧に日記をつけてた時期のはずなのに、あのペーパークラフトに関してはいっさいの文章が残っていません。だからできる限りの気持ちを思い出して書こう、と思ったのですが、いざ書き始めたら記憶がにょきにょきと解凍されてきて、そういえば急に台所で泣いたなとかあらゆることを思い出してしまい鳥肌が立ちました。

何度かここでも書いたように私は24にして感性が発達しきっていないのですが、16歳から17歳にかけての情緒不安定ぶりには目を見張るものがありました。記録し忘れたことがあってはもっと大人になってから後悔するような気がしたので、あのときの気持ちをなぞるようなつもりでこれを書き残します。自分でもよくわからないのだけど、これを書いている私はたしかに17歳の私です。

三日月を知らない子ども

仕事帰り、駅までの道を歩く。
職場からほど近いビアガーデンの解体作業が始まっていた。天井やカウンターや大きなビールのモニュメントなど、見慣れた景色がすべてばらばらになってゆくのをしばらく立ち止まって見ていた。そのさまはまるで夏の閉会宣言だった。

サブリミナル効果みたいなものだろうか、電車に乗った途端にお酒が飲みたくなり、乗り換え駅で降りる。適当に歩いているとバーを見つけた。こういうのは勢いが大事なので、迷う前にドアを引いた。

 


ぼんやりとモヒートを飲んでいると、隣の女性が「話しかけてもいい人ですか」とこちらを覗き込んできた。「あ、いい人です」「いい人ですか。よかった」。

その女性は店の常連らしく、もう20年以上同じ席で飲んでいると言う。「地縛霊みたいなものですよね」とバーテンさんが軽口を叩くと、「いいじゃん、ボトル入れてくれる地縛霊なんて」ところころと笑った。


しばらく話していると、彼女が不意に私をじっと見て、「ねえ、お姉さん、文系でしょう」と聞いてきた。「文系です」「ね。そうでしょう」。
すこし迷うように視線を泳がせたあと、「失礼だけど、三日月って学校で習った?」と続く。ちょっと面食らった私が「たぶん習いました」と答えると、「よかったー」と相好を崩した。


彼女は自分が大学の職員だと明かしたうえで、こんな話をしてくれた。

すこし前に半期の授業を終えた打ち上げがあり、教授や学生とお酒を飲んでいた。すると一人の学生が「自分は義務教育で『月の満ち欠け』を習わなかった」と言い出し、それをきっかけに、月の満ち欠けを習った/習わなかった議論が始まった。
学生たちの話をまとめると、ほとんどの学生が授業は受けていたものの、半数近くは「上弦の月」「下弦の月」の存在は高校で知った、というのだ。

驚いた彼女が調べてみると、学習指導要領で「月の満ち欠けは最低“2つ”の月を教えればいい」とされている時期(つまりゆとりだ)があったらしい。彼女は話をこう結んだ。
「……だとしたら、極端な話“満月”と“新月”だけでもいいんだよ。そんなのありえないと思わない?」


私はまさにゆとり世代ど真ん中なので、覚えていないけれどもしかしたら自分もそうだったかもしれない、と話した。彼女は「べつに円周率がおよそ3でもいいけど、三日月を知らない子どもってねえ」とグラスの氷を見つめる。
「あ、でも、アポロ11号の月面着陸は学校で習ってないです」と私がこぼすと、彼女は「わお」と言った。

 


帰り道、月が綺麗だった。ニュースで昨日だか一昨日が中秋の名月って言ってたな、と思い出す。そういえば、私は満月がすこし欠けたその月の呼び名を知らなかった。
「大統領の名前なんてさ 覚えてなくてもね いいけれど」。名前の分からない月を見あげて、好きな歌を口ずさみながら秋の夜道を歩いた。風が気持ちよかった。

嫌いと言わせてくれ

武田百合子という随筆家がいる。作家・武田泰淳の妻で、寡作ではあったけれど根強いファンの多い人だ。

私もそのひとりで、彼女のエッセイをたびたび読み返す。たとえば、ロシア滞在記「犬が星見た」の中のこんな一節。

 

(寺院にあった石像を見て)「簡単なところがキライ。しわしわやひだひだがないからね。もっとくわしくまじめに丁寧にやってもらいたい」


最初に読んだとき、笑った。同行者に「モダン彫刻がわからないんだな」と言われても、彼女はあっけらかんとこう答える。「そうね。モダンでなくても、埴輪やこけしもわからない。どこがいいのかわからない」。

 


大学のとき、観た舞台の感想を聞いてきた先輩に「よくわかんなかったです」と答えたら、「そういうのよくないよ」と言われたことがある。
彼は「それが本当に誰にもわからないんじゃなくて、自分がまだそれを『わかる』と感じられるくらいに成長してないのかもしれないじゃん。いまは嫌い、ってだけなんだよ」と言った。私はそういうものかあ、と思って「すみません」と答え、それ以来しばらく「嫌い」とか「わからない」とか「つまらない」と言わないようにしていた。

 


それから学年が変わり、広告系の授業の課題で商品のキャッチコピーを考えることになった。
あれこれ考えて出したコピーを(どんなだったか忘れちゃったけど)、講師は褒めてくれた。その理由が、「キミはべらんめえみたいなのがいいよね。好き嫌いがハッキリしてて気持ちいい」。

たしかに、私が授業で書く作文やコピーや企画はすべてそういった(つまり嫌いなやつはこっち来んなみたいな)ものだったのだ。日常会話では「嫌い」と言わないことを意識していただけに、迂闊だった。そして、「自然に何かを考えて発言しようとすると、私はこうなってしまうのだ」と初めて自覚した。

 


それからというもの、私は「嫌い」「つまらない」的発言をさほど抑えなくなった。特に親しい人の前では、ちゃんと「おいしくない」「わからない」「馬鹿にされてるような気がする」とか言うようにしている(もちろん、私が嫌いなものを愛している人の前では必要以上の批判はしない。それは最低限のマナーなので)。

「いまは嫌い、ってだけなんだよ」とあのとき先輩は言ったけれど、「いまは嫌い」をきちんと残す以上に大切なことなんてあるのか?って思う。
「いまは好き」ももちろん同じだ。人の好き嫌いなんて気分や環境や経験で簡単に変わる。その一瞬の、たとえば今日の「好き」や「嫌い」をきちんと発して残しておくことが、未来の自分に対する責任のような気がしている。

私とスポーツ

神宮球場で野球のナイターを見てきた。予報だと夜は雨がぱらつくとのことだったのだけど、快晴(私は柄でもなく晴れ女なのだ)。
ヤクルトに点が入ると客席じゅうにカラフルな傘が広がる。その様がなかなかに美しかった。球場は終始むせそうに暑くて、バックネット裏真正面から見おろすグラウンドはどこかゲームの野球盤みたいに見えた。試合の途中で花火もあがった。応援していた横浜はボロ負けしたけれど、いい夜だった。

帰りの電車で友人に感想をLINEしたら、「ねえ、最近どうしたの?」と訊かれた。苦笑したけれど、私も照れからか「気が狂った」と返してしまう。自分がスポーツ観戦するようになるなんて、自分がいちばん思わなかった。

 

 

 

さいころからスポーツが嫌いだった。「嫌い」という感情に1から100のツマミがあるとしたら、120くらいのボリュームで嫌いだった。

なぜか? それはすごくシンプルで、スポーツができなかったからだ。

学生時代に体操部だったという母はスポーツ万能で、50を超えたいまでも余裕で3重跳びができるような人間だ。彼女は娘も当然その血を引いていると思ったのだろうが、7歳でスイミングスクールに通わされた私は、平泳ぎひとつを習得するのに驚くほど時間がかかるような子どもだった。

同じスクールにいた同級生のSちゃんはセンスがよくて、見る見るうちに上達していった。私がばしゃばしゃと水を掻いていると、隣のレーンでバタフライをしているSちゃんがスイーッと泳いでいった。
私は元来そういうとき、悔しい!もっと練習してやる!と思うタイプではなく、もう嫌だ死のうと思う側の人間だ。泳ぎは依然として上達せず、卑屈になり、毎日のように「水泳をやめたい」と母に話した。母は鬼なので、静かに「続けなさい馬鹿」と言うだけだった。レッスンが終わって、自販機で買ったアイスを食べているときだけが心の休まる時間だった。

 


水泳ができなくても、他のスポーツならできると思った。小4のときに初めてのクラブ活動でサッカー部を選んだのは、仲のよかった友達が所属していたのもあるけれど、「球技ならできるかも」と考えたからだ。

でも、球技はもっとできなかった。書いていて悲しくなってきてしまったので詳述はしないけど、6年生の先輩が「しほちゃん! ボールを怖がらないで!」と試合中ずっと叫んでいて、とにかく怖かった。私が1年間のクラブ活動で決めた唯一のゴールはオウンゴールだった。

 


そんな風にして、幼少期に「スポーツがすごく苦手なんだ」と強く思い込んだ私は、自己暗示のようにあらゆるスポーツがすさまじく苦手になっていった。逆上がりはできない。大縄には入れない。ドッジボールではボールを避けられず怪我をする……。
体育の時間がくるとお腹が痛くなった。仲のいい友達も、体育の授業中は私とペアを組むことを露骨に嫌がった。

でも、中学高校と進学してゆくうちに、私はひとつのライフハックを覚えた。そう、「見学」だ。
高校では見学者はレポートを書くことが義務付けられていて、それはド文系の私にとってはむしろご褒美だった。かなり頻繁に見学しても、レポートを裏面までぎっしり書く生徒に体育教師はさして苦言を呈さなかった。

そのようにして、私は順調に運動というものを忘れていった。たまに体育に参加しても、一度として「本気で」体を動かしはしなかった。本気で走ったら、本気でボールを投げたら、自分の体がどのように作用するのか、しだいに分からなくなっていった。水泳の授業はけっきょく中高すべて見学を貫き通したので、泳ぐというのがどんな動作だったか、プールの水の冷たさ、あの匂い、それらすべてさえも、私は本当に忘れてしまった。

 


私がスポーツにふたたび向き合おうとし始めたのは、たぶん、手術したことと関係があるのだと思う。

いまは元気だけれど、人生で初めてつよく健康を損なうという経験をして、人は簡単に死ぬんだ、と思った。そうしたら、痩せようと思った中学のときにも、ダンスが流行った高校のときにも一度として考えなかった「運動をする」という選択肢がふっと浮かんだ。

すこし前、恐るおそる、彼氏に「運動がしたい」と言った。去年いちど好奇心でバッティングセンターについて行って大泣きした私を知っている彼は「なんで?大丈夫なの?本当に?」と聞いてきた。私はいくら劣等感が刺激されてももう泣かないことを約束し、最初はハードすぎない運動をということで、トランポリンができる施設にいっしょに行った。
トランポリンは、やっぱり全然できなかった。まっすぐに跳ぶだけでも難しくて、それでも、跳ぶことは思っていたよりも怖くない、と思った。

 


夏のはじめ、地元にヨガの教室を見つけて、体験レッスンに行くことを決めた。申し込みメールを打ちながら、何度もやめようと思った。スイミングスクールや体育の授業は、教師の前で体を動かすことが強いトラウマになるには十分すぎる記憶だった。
それでもなんとかメールを送信したら、すぐに返信がきた。「初めての方が来てくださるのは本当に嬉しいです!」という言葉が添えてあった。私は嬉しくなって、その先生のフェイスブックやらブログの過去の記事やらをすべて読んで、怖くなさそうな人であることを確認したうえでレッスンに向かった。

道に迷ったと連絡を入れた私がスタジオのそばをうろうろしているのを見つけると、先生は大きく手を振ってくれた。彼女は炎天下、建物の外で私を探してくれていたのだった。

ヨガが始まると、スタジオがすこし暗くなった。「目を瞑ってください」と言われてホッとする。体を動かしている姿を終始人に見られるのは怖かったし、前方が鏡なので、ついていけない自分の姿がずっと見えていると泣くような気がした。先生はやわらかなトーンでポーズを指示してゆく。まったくついていけない。オロオロし始めた私に、「慌てなくていいですよ。できないポーズはお休みしていても大丈夫です」と彼女は言ってくれた。

ヒジとヒザを間違えてちぐはぐなポーズをとったりしながらも、私はなんとか1時間のレッスンを終えた。体にうっすらと汗をかいていて、喉が渇いていた。そんな生理反応さえも数年ぶりだったので妙に感動してしまって、ヨガマットに横になりながら、ずいぶん長いあいだ天井を眺めていた。それからアンケートの「入会」にマルをつけて、ヨガ教室をあとにした。

 

 

 

私はそのようにして「運動」を取り戻した。こんな言い方大げさで笑ってしまうけれど、ひとつの時代が終わり、新たな名前のついた時代が始まるような出来事だった。

ヨガはちゃんと続くのか? まだ自分でも分からない。けれど少なくとも、体を動かすことが「楽しい」と思えるまでは続けようと思う。
まだ人生でいちどもスポーツを楽しいと感じたことがないから、その感覚を味わってみたい。公園で足元に転がってきたボールを投げ返してみたい。ボウリングに行ってみたい。プロのスポーツの試合を見て劣等感に苛まれるのではなく、大きな声をあげて応援してみたい。失ってしまった時間を、私はこれから取り戻しにゆく。

 

私が亀について語るときに語ること

このところ人にあまり会いたくなくて、飼っている亀とばかり話していた。

それは手術したことなどとはさして関係なく(症状や検診についてまた詳しく書くと言ったけれど、あした術後の検査を受けたら今回の件が一段落するのでそのあとにしますね)、単に仕事で四苦八苦していたからだ。
転職したばかりで、右も左も分からず毎日焦っている。休みの日に寝ていても仕事の夢ばかり見る。

会社を辞めることについての文章を書いてからしばらく経ったけれど、結論から言うと私はいま、あのとき望んでいたとおりの仕事をできている。
悩むことや苛立つことは決して少なくはないが、ものを書いているその瞬間は基本的にとても楽しいので、どうにかやれている。幸いこういう場もあるし(あのときたくさんの方が応援すると言ってくださって力が出た。本当に、心の底からお礼を言います)。

自己肯定感というものがまるでない自分が「私これでいいんじゃん」と思える瞬間がまれにあって、それはほぼ100パーセント書くという行為によってしかもたらされない。……ので、やはり私には書き続けることが必要なのだ。そう思っている。

 


話を戻す。最近はもっぱら亀と話していた。
基本的に亀側は喋れないのでこちらが一方的にべらべらと語りかけているだけなのだけど、私が小学生の頃から飼っているのでもうわりとお互い気心は知れている。

亀は、小2のときの夏休みの課題で「動物を飼って観察日記をつけてみましょう」というのがあって、そのときに近所のイオンで500円で買ってきたやつだ。
虫かごくらいのサイズの水槽に入れられて、たしか20匹くらいまとめて商品棚に並んでいた。

いっしょに行った母が「ねえなんかこれだけ馬鹿みたいに元気じゃない」と指をさしてゲラゲラ笑った亀が本当に馬鹿みたいに元気に泳いでいたので、迷わずにそれにした。顔に黄色い縞模様が入っていて、いかにも爬虫類という顔をした亀だった。
あまりによく動くので、水槽の蓋の空気穴から水がばしゃばしゃ飛んで帰りの車のシートが水浸しになり、母が運転しながらそんな亀捨てなさいと激怒していたのを覚えている。

 


いくら元気と言えど、ワンコインで買った生き物なんて大概は季節を越す前に死んでしまう。
……という大方の予想は外れて、亀は生きた。幼かった私が手荒な真似をずいぶんしても(一時期シルバニアファミリーのレストランに住まわせてたことがある)、それはもう馬鹿みたいにぐんぐんと育った。

クサガメという種類で、だいたい神社の池とかにいるやつがそうなのだけど、基本的には温厚な亀だ。うちのはちょっと血の気が多いので他のちいさな亀を踏んづけて殺したりしたこともあるが、いまはもう大きい水槽の中で1匹で飼っているので、そういうこともなくなった。

 


亀に対して、本当に申し訳ないと思っていることがひとつある。それは、亀を飼い始めてから何年ものあいだ、私が亀の性別を間違えていたことだ。

10年ほどまえ、家に遊びに来た友人が「元気な亀だね!うちも飼ってるんだよ」と言うので、亀を水槽から出そうと持ち上げた。すると亀の裏側を見たその子が、「メスなんだね」と笑う。「いやオスだよ」。そう言うと、「えっ?尻尾の位置的にメスだよ」。
その子が帰ったあと、ネットで血眼になって亀の性別について調べた。そうしたら、やっぱりおそらく(ほぼ間違いなく)うちの亀はメスだった。

その夜、どうしたらいいのか分からなくてわんわん泣いた。
自分にとって大切な時期を、いわば思春期のピークを「異性」として過ごしてしまった相手がとつぜん同性になるというのは、まだ内面の発達しきっていない私にはなかなかに受け入れ難いものだった。冗談みたいに聞こえるかもしれないけれど、本当に。

そののち、大学に入り、10代を過ぎ、多種多様なジェンダーアイデンティティを持つ友人ができて、私はようやく「別にメスでもオスでもどっちでもいいや」とシンプルに考えることができるようになった。
なぜかと言えば、私は亀が好きだから。ごく控えめに言って溺愛しているからだ。天気のいい日には自転車の前かごに入れて公園まで連れて行くし、夏にはベランダにビニールプールを出して泳がせる。地震がきたら亀を持って逃げると決めている。
だから亀がオスだとかメスだとかは、いまはもう本当にどうでもよくなってしまった。亀は亀でしかない。

 


信頼している友人の言葉に「性別は神様みたいなもの」というのがある。その友人曰く、「ふだんは神様なんて信じていない人も、何かに縋りたいときには神様!って思うでしょう?そういう拠りどころみたいなものが性別なのだと思うよ」。
たしかに男/女の二元論で物事を語ることはとても簡単で、私もつい「男なんて」とか「女子校だからそういうの無理」とか言ってしまう。いわば、性別という根拠(らしきもの)に縋っている。

その友人はパンセクシャルで、その子が性別に関係なく人を好きになるように、そして私がその友人の性別を特に意識していないように、本当は別にそんな拠りどころはなくてもいいんだろうな、と思う。あったらあったで便利だけど、まあどっちでも、という感じ。

「好き」という気持ちの力は強くて、それはすべてを受け入れてしまうものだと私は信じている。
それが恋愛であれ友情であれ亀に対する愛情であれ、「愛でなくても恋でなくても君を離しはしない」じゃないけど、あなたがあなたでさえあればなんでも、って思う力がたぶん、私たちにはある。

 


……みたいなことを、最近はずっと亀にぶつぶつと語りかけていた。たまには人にも聞いてもらいたいと思ってここに書いた。
亀は、今年で17歳になる(私が年齢も間違えていなければの話だけれど)。